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前編 可哀想なお姫様
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宮殿に呼び出されたのは随分久しぶりのことで、それが家族の親睦でないだろうということは、普段からの関わりで分かっておりました。
裏付けるように、広間で待っていたお父様は渋い表情をされています。
「アンジェリカ、お前が冷徹公へ嫁ぐんだ」
長いこと顔を合わせていなかったお父様から、伝えられたのはそんな恐ろしい話でございました。
背筋が凍り付きました。
なぜそんなことになったのか、少しも分からず、ただ、恐怖ばかりがわたくしを支配していました。
ジュリエッタお姉様を見ると、ボロボロと、大粒の涙を流されていました。
「アンジェリカ、ごめんなさい。だけど、魔法を使えるわたしは、やはりノースへ嫁ぐべきだと思うの」
確かにわたくしは、魔法も使えず、普通の人としての機能もない、出来損ないの姫です。それでも疑問はございました。いつもなら口答えなどしないのですが、このときばかりは抑えきれませんでした。
「で、ですが、あの方は、ジュ、ジュリエッタお姉様に結婚を申し込まれたのではないのですか?」
「なんてこと! わたしがあの悪魔のような冷徹公のところへ行けば良かったと、そんな風に言いたいの……?」
ジュリエッタお姉様はさらに泣きました。
そうではございません。ただ、わたくしは恐ろしかったのです。
冷徹公こと、マイロ・カース様は、辺境の地より大陸の覇者となったお方で、我が国も度々攻め入られ、その度にわたくしたちは遠くへと逃亡いたしました。幸いにしてわたくしたちの国は占領はされませんでしたが、領地と属国を併せれば、大陸の半分が彼のものです。
逆らった者は誰でも粛正する、体を流れる血さえも凍り付いていると噂のある、残忍で、残酷な、そんなお方です。
出身は、貴族ではございません。
ですから、古より大陸で覇権を握ってきたわたくしの家系、ウェストガルド家の王女、ジュリエッタお姉様に婚約を申し込んだのでしょう。それを足がかりに、さらに権力を拡大するおつもりだったのだと思います。
お父様はおっしゃいます。
「あの男に、ジュリエッタは渡せるはずもない。お前がちょうどよいだろう。お前が嫁げば、あの男も、我が身の立場を弁えようぞ」
ああ、それでなのだと、ようやく腑に落ちました。わたくしはこのような外見で、他人に重んじられることもない。わたくしを嫁がせることで、ウェストガルド家が彼を軽く見ているのだと、思い知らせたかったのでしょう。
ですがジュリエッタお姉様ではなくわたくしのような人間が向かえば、相手方の怒りは目に見えております。
ですがどの道、わたくしに選択権などございませんでした。頷くと、侍女がわたくしの車椅子を下げます。
「あの子、殺されてしまうかもしれないわね。可哀想に」
ジュリエッタお姉様の声が、背後から聞こえました。
夜、わたくしは姿見で自分の体を見つめました。ジュリエッタお姉様とは似ても似つかない、醜い体。魔法使いの名門ウェストガルド家において、魔法を持たずに生まれた役立たず。生まれつき足は動かず、右半身は、首からつま先まで、どういう訳か痣のように、黒く変色しています。そのためか、右手も左のようには、上手く機能しませんでした。
こんな体ですから、子供を産むことはできないと、医師に言われております。
幸いにして、頭はまともです。ですが、とりわけ回転が良い訳でもございません。
それでも人様に迷惑をかけるような生き方はしていませんでした。小さく、隅っこで、目立たないように、生きて、きたのに――。
涙が頬を伝わって、慌てて拭いました。
本音を言います。わたくしは、悲しかったのです。嫁ぐことが悲しいのではありません。
わたくしは、今日まで、誰にも秘密の希望を持っていました。
例えわたくしを見て顔を背けても、お父様とお姉様は、わたくしを、きっと心のどこかでは、大切に思ってくださっているのだ、という、恥ずべき希望です。ですがそれは打ち砕かれました。お二人は、わたくしを少しも愛してはいなかったのです。
侮蔑さえも読み取れる、あの表情を思い出します。
神様は、なぜわたくしをわたくしとして形作ったのでしょうか。愛されず、醜く、役立たず。なんて粗末な姫。惨めで、惨めで、消えてしまいたい――。
「アンジェリカ、入るよ」
声が聞こえ現れた人物に、ほっと安心しました。すらりとした長身に、わたくしの親族だと一目で分かる、白く透き通った皮膚、金色の髪、青く灰色がかった瞳の色。その方は、悲しげな笑みを浮かべています。
「ノースお兄様……」
実の兄ではございません。従兄弟に当たる方ですが、優しい性格ゆえ、わたくしにも大層よくしてくださっています。彼だけが、この生活の中でわたくしに話しかけ、良くしてくださるのです。
ノースお兄様は、わたくしの側まで来ると、車椅子の前に跪き、両手を握りました。
「可哀想なアンジェリカ。お前をあの男の元へやるのが悔しくて堪らない。私のかわいいアンジェリカ、ずっと側にいたいよ」
そうしてわたくしの両手にキスをなさいます。ノースお兄様は皆様に愛されています。その無駄のない動きは、男性なのに美しささえ感じられます。
現在は宮廷魔法使いをされております。男児がいないお父様ですから、ノースお兄様が王位継承の最有力候補で、従兄弟婚を禁じていない我が国では、ジュリエッタお姉様とご結婚をされることになるのでしょう。
「お前が本当に可哀想でならないよ。そんな体で生きなくてはならず、あんな男の元へ行かなくてはならないなんて」
ノースお兄様は、わたくしを見上げて言いました。
「いつか私の中の悪魔が、あの男を殺してみせるよ――」
悪魔――。それは古い言い伝えです。ウェストガルド一族はかつて、悪魔と契約し地位を得た。その体内には、未だに悪魔が棲んでいる――そういうおとぎ話です。
ですから一族の者は、度々そのお話を引用するのでした。
もしもわたくしの中に悪魔がいるのなら、一番始めにわたくしを殺してくれればいいのに。
◇◆◇
不思議な夢を見ました。
わたくしの体の中に、黒い霧が入り込み、そうしてわたくしから力を奪っていくのです。お父様が近くにいて、じっとわたくしを見つめています。
やがてお父様は言うのです。
――失敗だった。捨てておけ。
空想しました。もしかしたら、魔法の使えないわたくしに魔法を与えるために、お父様は何かをして、失敗したのではないでしょうか。
◇◆◇
冷徹公ことマイロ様と会ったのは、彼らが攻めの拠点にしていた川岸の、テントの中でのことでした。彼らは我が国に攻め入る直前で、和平の条件として、姫を望んだのでした。
マイロ様は、鎧姿でいらっしゃり、すぐにでも戦いに望むような姿勢に見えました。
側には部下の方も数人いらっしゃいましたが、一目で彼が、マイロ様であると分かりました。それほどまでに、異質な雰囲気を持っておられる方だったのです。
恰幅が良く、顔には額から鼻を通り、頬にかけて傷がございます。赤毛は短く切りそろえられており、わたくしは収穫寸前の姿勢良く並んだ麦の穂を思い浮かべました。眼光は鋭く、睨まれただけで死んでしまいそうです。
そんな彼でしたが、現れたわたくしを見て、呆気に取られたようでした。
「君がジュリエッタか?」
やはり、姫が違うということは、彼には伝えられていないようです。
きっと殺されてしまう。恐ろしくて震えながらも、わたくしは真実を口にしました。
「――い、いいえ、わたくしはその妹のアンジェリカでございます、陛下」
瞬間、マイロ様は激高されました。
「ウェストガルド家は、随分この俺に舐めた真似をしてくれる! 俺はジュリエッタに婚約を申し込んだんだ! こんな、こんな……」
わたくしは震え上がりました。
マイロ様の隣にいた若い男性が、わたくしを見て眉を顰めます。
「陛下の前で立ち上がりもしないとは、ウェストガルド家はなんと高慢な姫を寄越したんだ?」
「ご、ご無礼をお許しください陛下。わたくし、生まれつき足が動かず、このままでいる、きょ、許可をください」
マイロ様の目が、わたくしの足に向けられました。何もかも見透かされてしまうかのような鋭すぎる視線は、服の下の黒い皮膚さえ気づいているのではないかと思ってしまうほどでした。
今にも彼が脇に差している剣で、わたくしの心臓を貫くのではないかと不安でした。この恐怖がなくなるのであれば、むしろそうしていただいた方が、慈悲があるのかもしれません。
しかしマイロ様は、目を伏せただけでした。
「ああ……構わん」
この目は知っていました。この世にわたくしのような人間が存在することさえおぞましいと考えているような方々が、度々浮かべる、哀れみの目の色でした。
次に彼がする行動を知っています。この場から立ち去り、二度と戻っては来ないでしょう。
ですが、次に起こったのは、わたくしの想像もしないことでした。
あろうことか、マイロ様は側にあった椅子に腰掛けたのです。まるで会話をしたいかのようではございませんか。そうしてその通り、彼は問いかけました。
「君はいくつだ」
しばしの間、わたくしに問いかけられているとは思えませんでした。沈黙の後で、ようやくわたくしは答えます。
「……十四歳です、陛下」
「おもちゃを持つ年じゃないか!」
マイロ様は頭を抱え、それからわたくしの足に再び目を向けました。
「その足は、本当に動かないのか」
「はい、陛下」
「車椅子で生活を?」
「はい、陛下」
「魔法は使えるのか」
「いいえ、陛下」
「俺の年を知っているか」
「今年で二十五歳です、陛下」
「……三十だ。覚えておけ」
「はい、陛下」
「陛下では味気ない。名前で呼べ」
「はい、マイロ様」
はあ、とマイロ様は長いため息を吐き出しました。
「ジュリエッタを初めて見たのは少し前のパーティでだ。君を見た覚えはない。君のお父上の即位二十周年を祝うものだったが、なぜいなかったんだ」
「わたくしは異形の娘故、公式の場には出るなと申しつけられております」
「なるほど」彼は静かに言いました。「由緒正しき王家が、大変結構なことじゃないか」
マイロ様は、再び大きなため息を吐かれました。
まるでわたくしという存在に、呆れ返っているようでした。あるいはジュリエッタお姉様がこの場にいないことに、消沈しているようでした。
沈黙の後で、マイロ様は口元を歪め、言います。
「君を寄越したのがウェストガルド家の意思表示であるならば、俺は俺の意思を示すまでだ。
君は俺の妻になるためにここに来た。だから俺は君を妻に貰い受ける。誰も文句はあるまい。君がウェストガルドの姫であることには変わりないんだ。阿呆どもめ、後悔を見せてやろう」
きっとお父様は、わたくしが送り返されるか、殺されてしまうことをお望みだったのでしょう。しかしマイロ様はあろうことか、わたくしを娶るとおっしゃったのです。
恐ろしい笑みを浮かべるマイロ様を前に、わたくしは震え上がりました。一体、彼は何を考えているのでしょうか?
その、夜のことでした。
夫婦は同じ臥所で寝るのだと、教育係から教わりましたが、マイロ様のお姿はありませんでした。彼がいないことに安堵を覚えつつも、眠れない夜を過ごしていると、テントの外から声がしました。
――見たかあの娘。なんとも不気味なことじゃないか。
――半身不随だと。あの体では子供はできまい。着替えを手伝った侍女の話では、足の先まで皮膚が黒ずんでいたそうだ。
――陛下には側室を迎え入れさせるべきだ。友好国からがよい、ウェストガルド家は始めから陛下を良く思っていなかったではないか。
――悪魔が棲むというウェストガルド家だ。あれこそ悪魔ではないのか。
――役立たずの姫だ。病気に見せかけ殺してしまえ。
傷つくことはありません。宮殿で、よく耳にしていたような言葉でしたから、慣れていました。無視していれば良いのです。
ですが、宮殿とは違ったことが起こりました。
男の人の、怒号がしたのです。
「貴様等、口を慎め! 俺の妻になる女だぞ!」
それはマイロ様の声でした。苛立ちを含んでいるように、聞こえました。
「あの娘に罪はない。何も分からず、送り込まれて来ただけだ。もう一度言ってみろ、その口、耳まで切り裂いてやろう!」
慌ただしく、人が去る気配がしました。
わたくしは困惑していました。なぜならマイロ様が、わたくしを庇うような言葉を発したように思えたからです。
簡易式のベッドから半身を起こしていると、テントの入り口がバサリと開けられ、逃げ場もなく彼と目が合ってしまいました。
「……起きていたのか」
彼は言うと、マントを脱ぎ、上着を脱ぎ、そうしてベッドの端に腰掛けると、わたくしの方へと手を伸ばします。夫婦が何をするのか、わたくしのような人間も、教え込まれていました。震えてはいけないと思っても、勝手に体が震えます。
「あ、あの、マイロ様。夫婦の、その。夫婦のことを、するの、でしょうか」
恐る恐る尋ねると、マイロ様はぎょっとしたように目を見開き、怒りとも取れる表情で怒鳴りました。
「するわけないだろう!」
わたくしはさらに震え上がりました。怒らせてしまったのです。今度こそ、殺されるかもしれないと覚悟を決めました。けれどマイロ様はわたくしを殺すことはなく、伸ばされた手は、労るように肩に置かれ、そうして離されただけでした。
「いや、しない。君の体はそんなだしな」
確かに、わたくしの体は醜いものです。男の人が好かないだろうということは、ジュリエッタお姉様からよく言われておりました。
黙っていると、マイロ様の焦ったような声がします。
「違う、違うんだ。俺が言いたいのは、君はまだ子供だということだ。だから君の言う、夫婦のあれこれは、しない。す、するとしても、もう少し大人になったらだ」
わたくしは、ますます困惑しました。
「では、なぜここへ来たのです、陛下」
「君の様子を見に来た。当たり前だろう」
「なぜです?」
「守るために」
「誰から?」
「外にいたような糞どもからだ」
「よく言われていた言葉です。仕方がありません、真実ですもの」
「……違うさ」
マイロ様はじっとわたくしを見つめました。濃い茶色の瞳は鏡のように、醜いわたくしを映します。
少しの間の後、マイロ様は尋ねられました。
「誰が、そんなことを言うんだ?」
「大勢の方です」
「君の味方はいなかったのか」
「わたくしは役立たず故、当然のことです」
マイロ様は首を横に振りました。
「慣れてはだめだ。ああいった言葉は非道い言葉だ――とてもとても非道い言葉なんだ。聞いた君は、本当は傷つかなくてはならない。当然のことだと、受け入れてはいけないんだ。また言われたら、俺に言ってくれ」
「どうしてですか?」
「言っただろう、守るためだ」
「でも、なぜ? なぜ陛下はわたくしを守ってくださるのです」
「ふっ……夫婦になるからだ!」
また怒ったのか、マイロ様のお顔はさっと赤くなりました。ですがわたくしは、少しも分かりませんでした。疑問を止めることもできません。
「夫婦になると、守るものなのでしょうか。わたくしのような人間のことでも?」
「はあ?」
マイロ様は眉間に皺を寄せました。
「君は自分を何だと思っているんだ? ただの少女だよ。それも、今にも死んでしまいそうなほど震えている世間知らずの弱い少女だ。誰かが守らないでどうするんだ? 夫となる俺が守るのは、当然のことだろう」
ふいに、今までわたくしを取り巻いていた恐怖が無くなりました。マイロ様は未だに渋い表情をされていますが、わたくしを殺す気は本当にないようです。
「マイロ様は、度々我が国に侵攻してきました。そのたびにわたくしたちは王都を脱出しました。なので、とても怖い方だと思っていました」
「俺は怖いぞ。守るものがないからな、捨て身の攻撃ができるんだ。君も俺が怖いだろう? 怯えた目で見ていたじゃないか」
「……でも、さっきより、怖くはありません。とても優しい方だと分かりましたもの」
マイロ様は、わたくしの前で初めて微笑みました。そうしてわたくしの、黒ずんだ右手を取ると、甲にそっと口づけなさいました。
「さあ、良い子は寝る時間だ。君が安心して眠れるように、俺は外で見張っているから」
そう言うと、本当に外へ出て行かれました。
わたくしは目を閉じます。心臓が、どきどきしていましたが、恐怖からではないということだけは、分かりました。
◇◆◇
そうしてわたくしは、マイロ様の治める国に、入りました。
元々、マイロ様は軍人でした。ですが手柄を上げ、さらに手柄を上げ、その上で手柄を上げ、瞬く間に国の英雄となりました。魔法を使えることも成果を上げた一助だったのだと聞いたことがあります。
わたくしのいた国とは違って、マイロ様の国は、議会が大きな力を握っております。その議会が、彼を王にすると決定したのです。
ですから前の王様を追い出して、マイロ様が王になったのでした。
「俺は雇われ国王だ。不要になったら首を切られるだろう」
マイロ様は自嘲気味にそう言いました。
実際、議会で選ばれた王は王ではない、生まれながらの王族のみが真の王なのだと、お父様がおっしゃったことがございます。ですが王都に入ったとき、国王万歳と叫ぶ市民を見て、マイロ様が偽物の王だとは思えませんでした。市民の表情は誰しも晴れやかで、それはそれは美しいものでしたので。
マイロ様の宮殿は、かつては別の王族が使っていたもので、派手な建物に反して、彼自身の暮らしは質素なものでした。
王族というものは、お父様たちのように、派手さを好むものだと思っておりましたので、始めは驚きましたが、すぐに慣れました。使用人達もわたくしを見てあざ笑うことはなく、まるで大切な姫君を扱うかのように接してくれたのです。
疑問をぶつけると、マイロ様は言いました。
「君は大切な姫君なんだよ」
日々の中で、彼は時に、わたくしに話しかけました。
「アンジェリカ、猟に出るが一緒に来るか」
「動物を殺すのは可哀想です」
結局、マイロ様は出かけませんでした。
「アンジェリカ、本は好きか」
「わたくし、文字が読めません」
翌日、わたくしのところに家庭教師が派遣されました。
「アンジェリカ、どんな料理が好きだ?」
「わたくし、パンとじゃがいものスープしか料理を知りません」
その晩、ステーキが夕食でした。どうやらマイロ様の好物だそうです。
度々マイロ様は、わたくしに魔法を見せてくれました。高いところの物を取ったり、戯れに風を作って、わたくしの髪を靡かせました。
魔法が使える方は、その両手に円状の魔法陣を出現させます。お父様もジュリエッタお姉様もそうでした。魔法陣など見慣れたものでしたけれど、マイロ様のそれは、他のどの方よりも正確で美しい光を放っておりました。それだけ彼が、努力を重ねてきたということなのでしょう。
彼はとても優れた方でした。その人格においてもです。
わたくしは、教養もなく、つまらない女です。けれどマイロ様は、嫌な顔をすることはございませんでした。
忙しいマイロ様でしたが、朝と夜は、いつも一緒にご飯を食べました。誰かとご飯を食べるのは初めての経験だと伝えると、なんとも微妙な表情をされたのを覚えています。眠る時は彼がベッドまで運んでくださいました。自分も幼い頃は文字が読めなかったのだと、本を読み聞かせながらまるで秘密を打ち明けるように、そっと教えてくださいました。
冷徹公というあだ名に反して、穏やかな方でした。彼はわたくしの手にキスをすることはございましたが、体に触れることはありませんでした。わたくしに与えられた小さな宮殿で、日々は緩やかに過ぎていきました。
ある日のこと、彼は言います。
「アンジェリカ、観劇に行かないか」
「劇がお好きなんですか?」
意外なことです。彼の暇つぶしは、兵士の鍛錬場で稽古をすることだけだと思っていたからです。頭をかきながら、彼は言いました。
「いや、君が喜ぶと思ったからだ。大層良いと評判の劇で、題目はなんと言ったか……忘れてしまったが、もし、嫌でないのなら――」
「劇を見たことはございません」
「なら、行こう」
言って、彼は笑います。その笑顔を見ていると、わたくしも自然と笑っていました。
正直に言うと、踊り出したいほど嬉しかったのです。わたくしの足は動きませんから、もちろん無理なことなのですが、それほどわくわくしたのです。だって、劇なんて、行ったことがなかったのですから。
初対面の印象こそ恐ろしかったものの、マイロ様はわたくしを怒ることも、怒鳴ることも、馬鹿にすることもございませんでした。彼は優しくて、本当に優しくて、考えられないほど優しくて、わたくしは彼の優しさに触れる度に、涙が出そうになるのでした。
彼の側にいると、わたくしは自分が役立たずだということも忘れ、一人前の人間になれたように、勘違いをしてしまいそうになるのでした。
◇◆◇
護衛付きではあったものの、二人でお出かけするのは初めてのことでした。劇場には、大勢の貴族の方がいらっしゃいます。
三階の、せり出たバルコニー席に着いた瞬間、どこかから、その声がしました。
――見ろ、あれが王妃だ。不具ではないか。陛下はなぜあのような者を娶ったのだ。
思い違いを知りました。
わたくしは、なんて愚かなのでしょう。お父様とお姉様に言われていたことを忘れていました。哀れで、人前に出すことも恥ずかしい、外見も心も汚れた醜い姫。
なのにマイロ様のご厚意に甘え、あろうことか人前に出てきてしまい、恥をかかせてしまいました。みじめで、みじめで、情けなくなりました。
その時、大声が聞こえました。
「誰だ! 今声を発したのは!」
隣に座っていたマイロ様が立ち上がり、両手にまばゆく光る魔法陣を出現させました。人を傷つけるための魔法が練り込まれています。
観客達が皆こちらに注目し、誰しも恐怖に顔を歪めておりました。
「出てこい、陰口を叩くことしかできない卑怯者め! 切り裂いてやろう!」
マイロ様は魔法陣をさらに大きくしました。
恐怖により、わたくしはマイロ様の腕をつかみました。
「よしてくださいまし!」
ですが彼は魔法陣を引っ込めません。
「止めるなアンジェリカ! 君が傷つけられたんだ! 黙っていられるか!」
耐えきれず、わたくしは上半身を動かし、彼に飛びつきました。
「神にでもなったおつもりですか!」
瞬間、魔法陣は消え失せ、光の後の闇と、静寂が辺りを包み込みました。マイロ様が目を見開き、わたくしを見つめています。
「マイロ様、人に人は裁けません! わたくしの外見は確かに醜いものです、仕方のないことです! だからお願いです、わたくしのために誰かを罰しないでくださいまし……!」
そんな価値は、わたくしにはないのです。
マイロ様の手が、ゆっくりとわたくしの頬に触れ、離れました。彼の指には、赤い血がべとりと付着しています。魔法陣に触れたわたくしの頬が裂け、血が出ていたのでした。
「仕方のないことなんかじゃない。君は、綺麗だよ。綺麗なんだ。本当に……」
力なく、マイロ様は呟きました。
裏付けるように、広間で待っていたお父様は渋い表情をされています。
「アンジェリカ、お前が冷徹公へ嫁ぐんだ」
長いこと顔を合わせていなかったお父様から、伝えられたのはそんな恐ろしい話でございました。
背筋が凍り付きました。
なぜそんなことになったのか、少しも分からず、ただ、恐怖ばかりがわたくしを支配していました。
ジュリエッタお姉様を見ると、ボロボロと、大粒の涙を流されていました。
「アンジェリカ、ごめんなさい。だけど、魔法を使えるわたしは、やはりノースへ嫁ぐべきだと思うの」
確かにわたくしは、魔法も使えず、普通の人としての機能もない、出来損ないの姫です。それでも疑問はございました。いつもなら口答えなどしないのですが、このときばかりは抑えきれませんでした。
「で、ですが、あの方は、ジュ、ジュリエッタお姉様に結婚を申し込まれたのではないのですか?」
「なんてこと! わたしがあの悪魔のような冷徹公のところへ行けば良かったと、そんな風に言いたいの……?」
ジュリエッタお姉様はさらに泣きました。
そうではございません。ただ、わたくしは恐ろしかったのです。
冷徹公こと、マイロ・カース様は、辺境の地より大陸の覇者となったお方で、我が国も度々攻め入られ、その度にわたくしたちは遠くへと逃亡いたしました。幸いにしてわたくしたちの国は占領はされませんでしたが、領地と属国を併せれば、大陸の半分が彼のものです。
逆らった者は誰でも粛正する、体を流れる血さえも凍り付いていると噂のある、残忍で、残酷な、そんなお方です。
出身は、貴族ではございません。
ですから、古より大陸で覇権を握ってきたわたくしの家系、ウェストガルド家の王女、ジュリエッタお姉様に婚約を申し込んだのでしょう。それを足がかりに、さらに権力を拡大するおつもりだったのだと思います。
お父様はおっしゃいます。
「あの男に、ジュリエッタは渡せるはずもない。お前がちょうどよいだろう。お前が嫁げば、あの男も、我が身の立場を弁えようぞ」
ああ、それでなのだと、ようやく腑に落ちました。わたくしはこのような外見で、他人に重んじられることもない。わたくしを嫁がせることで、ウェストガルド家が彼を軽く見ているのだと、思い知らせたかったのでしょう。
ですがジュリエッタお姉様ではなくわたくしのような人間が向かえば、相手方の怒りは目に見えております。
ですがどの道、わたくしに選択権などございませんでした。頷くと、侍女がわたくしの車椅子を下げます。
「あの子、殺されてしまうかもしれないわね。可哀想に」
ジュリエッタお姉様の声が、背後から聞こえました。
夜、わたくしは姿見で自分の体を見つめました。ジュリエッタお姉様とは似ても似つかない、醜い体。魔法使いの名門ウェストガルド家において、魔法を持たずに生まれた役立たず。生まれつき足は動かず、右半身は、首からつま先まで、どういう訳か痣のように、黒く変色しています。そのためか、右手も左のようには、上手く機能しませんでした。
こんな体ですから、子供を産むことはできないと、医師に言われております。
幸いにして、頭はまともです。ですが、とりわけ回転が良い訳でもございません。
それでも人様に迷惑をかけるような生き方はしていませんでした。小さく、隅っこで、目立たないように、生きて、きたのに――。
涙が頬を伝わって、慌てて拭いました。
本音を言います。わたくしは、悲しかったのです。嫁ぐことが悲しいのではありません。
わたくしは、今日まで、誰にも秘密の希望を持っていました。
例えわたくしを見て顔を背けても、お父様とお姉様は、わたくしを、きっと心のどこかでは、大切に思ってくださっているのだ、という、恥ずべき希望です。ですがそれは打ち砕かれました。お二人は、わたくしを少しも愛してはいなかったのです。
侮蔑さえも読み取れる、あの表情を思い出します。
神様は、なぜわたくしをわたくしとして形作ったのでしょうか。愛されず、醜く、役立たず。なんて粗末な姫。惨めで、惨めで、消えてしまいたい――。
「アンジェリカ、入るよ」
声が聞こえ現れた人物に、ほっと安心しました。すらりとした長身に、わたくしの親族だと一目で分かる、白く透き通った皮膚、金色の髪、青く灰色がかった瞳の色。その方は、悲しげな笑みを浮かべています。
「ノースお兄様……」
実の兄ではございません。従兄弟に当たる方ですが、優しい性格ゆえ、わたくしにも大層よくしてくださっています。彼だけが、この生活の中でわたくしに話しかけ、良くしてくださるのです。
ノースお兄様は、わたくしの側まで来ると、車椅子の前に跪き、両手を握りました。
「可哀想なアンジェリカ。お前をあの男の元へやるのが悔しくて堪らない。私のかわいいアンジェリカ、ずっと側にいたいよ」
そうしてわたくしの両手にキスをなさいます。ノースお兄様は皆様に愛されています。その無駄のない動きは、男性なのに美しささえ感じられます。
現在は宮廷魔法使いをされております。男児がいないお父様ですから、ノースお兄様が王位継承の最有力候補で、従兄弟婚を禁じていない我が国では、ジュリエッタお姉様とご結婚をされることになるのでしょう。
「お前が本当に可哀想でならないよ。そんな体で生きなくてはならず、あんな男の元へ行かなくてはならないなんて」
ノースお兄様は、わたくしを見上げて言いました。
「いつか私の中の悪魔が、あの男を殺してみせるよ――」
悪魔――。それは古い言い伝えです。ウェストガルド一族はかつて、悪魔と契約し地位を得た。その体内には、未だに悪魔が棲んでいる――そういうおとぎ話です。
ですから一族の者は、度々そのお話を引用するのでした。
もしもわたくしの中に悪魔がいるのなら、一番始めにわたくしを殺してくれればいいのに。
◇◆◇
不思議な夢を見ました。
わたくしの体の中に、黒い霧が入り込み、そうしてわたくしから力を奪っていくのです。お父様が近くにいて、じっとわたくしを見つめています。
やがてお父様は言うのです。
――失敗だった。捨てておけ。
空想しました。もしかしたら、魔法の使えないわたくしに魔法を与えるために、お父様は何かをして、失敗したのではないでしょうか。
◇◆◇
冷徹公ことマイロ様と会ったのは、彼らが攻めの拠点にしていた川岸の、テントの中でのことでした。彼らは我が国に攻め入る直前で、和平の条件として、姫を望んだのでした。
マイロ様は、鎧姿でいらっしゃり、すぐにでも戦いに望むような姿勢に見えました。
側には部下の方も数人いらっしゃいましたが、一目で彼が、マイロ様であると分かりました。それほどまでに、異質な雰囲気を持っておられる方だったのです。
恰幅が良く、顔には額から鼻を通り、頬にかけて傷がございます。赤毛は短く切りそろえられており、わたくしは収穫寸前の姿勢良く並んだ麦の穂を思い浮かべました。眼光は鋭く、睨まれただけで死んでしまいそうです。
そんな彼でしたが、現れたわたくしを見て、呆気に取られたようでした。
「君がジュリエッタか?」
やはり、姫が違うということは、彼には伝えられていないようです。
きっと殺されてしまう。恐ろしくて震えながらも、わたくしは真実を口にしました。
「――い、いいえ、わたくしはその妹のアンジェリカでございます、陛下」
瞬間、マイロ様は激高されました。
「ウェストガルド家は、随分この俺に舐めた真似をしてくれる! 俺はジュリエッタに婚約を申し込んだんだ! こんな、こんな……」
わたくしは震え上がりました。
マイロ様の隣にいた若い男性が、わたくしを見て眉を顰めます。
「陛下の前で立ち上がりもしないとは、ウェストガルド家はなんと高慢な姫を寄越したんだ?」
「ご、ご無礼をお許しください陛下。わたくし、生まれつき足が動かず、このままでいる、きょ、許可をください」
マイロ様の目が、わたくしの足に向けられました。何もかも見透かされてしまうかのような鋭すぎる視線は、服の下の黒い皮膚さえ気づいているのではないかと思ってしまうほどでした。
今にも彼が脇に差している剣で、わたくしの心臓を貫くのではないかと不安でした。この恐怖がなくなるのであれば、むしろそうしていただいた方が、慈悲があるのかもしれません。
しかしマイロ様は、目を伏せただけでした。
「ああ……構わん」
この目は知っていました。この世にわたくしのような人間が存在することさえおぞましいと考えているような方々が、度々浮かべる、哀れみの目の色でした。
次に彼がする行動を知っています。この場から立ち去り、二度と戻っては来ないでしょう。
ですが、次に起こったのは、わたくしの想像もしないことでした。
あろうことか、マイロ様は側にあった椅子に腰掛けたのです。まるで会話をしたいかのようではございませんか。そうしてその通り、彼は問いかけました。
「君はいくつだ」
しばしの間、わたくしに問いかけられているとは思えませんでした。沈黙の後で、ようやくわたくしは答えます。
「……十四歳です、陛下」
「おもちゃを持つ年じゃないか!」
マイロ様は頭を抱え、それからわたくしの足に再び目を向けました。
「その足は、本当に動かないのか」
「はい、陛下」
「車椅子で生活を?」
「はい、陛下」
「魔法は使えるのか」
「いいえ、陛下」
「俺の年を知っているか」
「今年で二十五歳です、陛下」
「……三十だ。覚えておけ」
「はい、陛下」
「陛下では味気ない。名前で呼べ」
「はい、マイロ様」
はあ、とマイロ様は長いため息を吐き出しました。
「ジュリエッタを初めて見たのは少し前のパーティでだ。君を見た覚えはない。君のお父上の即位二十周年を祝うものだったが、なぜいなかったんだ」
「わたくしは異形の娘故、公式の場には出るなと申しつけられております」
「なるほど」彼は静かに言いました。「由緒正しき王家が、大変結構なことじゃないか」
マイロ様は、再び大きなため息を吐かれました。
まるでわたくしという存在に、呆れ返っているようでした。あるいはジュリエッタお姉様がこの場にいないことに、消沈しているようでした。
沈黙の後で、マイロ様は口元を歪め、言います。
「君を寄越したのがウェストガルド家の意思表示であるならば、俺は俺の意思を示すまでだ。
君は俺の妻になるためにここに来た。だから俺は君を妻に貰い受ける。誰も文句はあるまい。君がウェストガルドの姫であることには変わりないんだ。阿呆どもめ、後悔を見せてやろう」
きっとお父様は、わたくしが送り返されるか、殺されてしまうことをお望みだったのでしょう。しかしマイロ様はあろうことか、わたくしを娶るとおっしゃったのです。
恐ろしい笑みを浮かべるマイロ様を前に、わたくしは震え上がりました。一体、彼は何を考えているのでしょうか?
その、夜のことでした。
夫婦は同じ臥所で寝るのだと、教育係から教わりましたが、マイロ様のお姿はありませんでした。彼がいないことに安堵を覚えつつも、眠れない夜を過ごしていると、テントの外から声がしました。
――見たかあの娘。なんとも不気味なことじゃないか。
――半身不随だと。あの体では子供はできまい。着替えを手伝った侍女の話では、足の先まで皮膚が黒ずんでいたそうだ。
――陛下には側室を迎え入れさせるべきだ。友好国からがよい、ウェストガルド家は始めから陛下を良く思っていなかったではないか。
――悪魔が棲むというウェストガルド家だ。あれこそ悪魔ではないのか。
――役立たずの姫だ。病気に見せかけ殺してしまえ。
傷つくことはありません。宮殿で、よく耳にしていたような言葉でしたから、慣れていました。無視していれば良いのです。
ですが、宮殿とは違ったことが起こりました。
男の人の、怒号がしたのです。
「貴様等、口を慎め! 俺の妻になる女だぞ!」
それはマイロ様の声でした。苛立ちを含んでいるように、聞こえました。
「あの娘に罪はない。何も分からず、送り込まれて来ただけだ。もう一度言ってみろ、その口、耳まで切り裂いてやろう!」
慌ただしく、人が去る気配がしました。
わたくしは困惑していました。なぜならマイロ様が、わたくしを庇うような言葉を発したように思えたからです。
簡易式のベッドから半身を起こしていると、テントの入り口がバサリと開けられ、逃げ場もなく彼と目が合ってしまいました。
「……起きていたのか」
彼は言うと、マントを脱ぎ、上着を脱ぎ、そうしてベッドの端に腰掛けると、わたくしの方へと手を伸ばします。夫婦が何をするのか、わたくしのような人間も、教え込まれていました。震えてはいけないと思っても、勝手に体が震えます。
「あ、あの、マイロ様。夫婦の、その。夫婦のことを、するの、でしょうか」
恐る恐る尋ねると、マイロ様はぎょっとしたように目を見開き、怒りとも取れる表情で怒鳴りました。
「するわけないだろう!」
わたくしはさらに震え上がりました。怒らせてしまったのです。今度こそ、殺されるかもしれないと覚悟を決めました。けれどマイロ様はわたくしを殺すことはなく、伸ばされた手は、労るように肩に置かれ、そうして離されただけでした。
「いや、しない。君の体はそんなだしな」
確かに、わたくしの体は醜いものです。男の人が好かないだろうということは、ジュリエッタお姉様からよく言われておりました。
黙っていると、マイロ様の焦ったような声がします。
「違う、違うんだ。俺が言いたいのは、君はまだ子供だということだ。だから君の言う、夫婦のあれこれは、しない。す、するとしても、もう少し大人になったらだ」
わたくしは、ますます困惑しました。
「では、なぜここへ来たのです、陛下」
「君の様子を見に来た。当たり前だろう」
「なぜです?」
「守るために」
「誰から?」
「外にいたような糞どもからだ」
「よく言われていた言葉です。仕方がありません、真実ですもの」
「……違うさ」
マイロ様はじっとわたくしを見つめました。濃い茶色の瞳は鏡のように、醜いわたくしを映します。
少しの間の後、マイロ様は尋ねられました。
「誰が、そんなことを言うんだ?」
「大勢の方です」
「君の味方はいなかったのか」
「わたくしは役立たず故、当然のことです」
マイロ様は首を横に振りました。
「慣れてはだめだ。ああいった言葉は非道い言葉だ――とてもとても非道い言葉なんだ。聞いた君は、本当は傷つかなくてはならない。当然のことだと、受け入れてはいけないんだ。また言われたら、俺に言ってくれ」
「どうしてですか?」
「言っただろう、守るためだ」
「でも、なぜ? なぜ陛下はわたくしを守ってくださるのです」
「ふっ……夫婦になるからだ!」
また怒ったのか、マイロ様のお顔はさっと赤くなりました。ですがわたくしは、少しも分かりませんでした。疑問を止めることもできません。
「夫婦になると、守るものなのでしょうか。わたくしのような人間のことでも?」
「はあ?」
マイロ様は眉間に皺を寄せました。
「君は自分を何だと思っているんだ? ただの少女だよ。それも、今にも死んでしまいそうなほど震えている世間知らずの弱い少女だ。誰かが守らないでどうするんだ? 夫となる俺が守るのは、当然のことだろう」
ふいに、今までわたくしを取り巻いていた恐怖が無くなりました。マイロ様は未だに渋い表情をされていますが、わたくしを殺す気は本当にないようです。
「マイロ様は、度々我が国に侵攻してきました。そのたびにわたくしたちは王都を脱出しました。なので、とても怖い方だと思っていました」
「俺は怖いぞ。守るものがないからな、捨て身の攻撃ができるんだ。君も俺が怖いだろう? 怯えた目で見ていたじゃないか」
「……でも、さっきより、怖くはありません。とても優しい方だと分かりましたもの」
マイロ様は、わたくしの前で初めて微笑みました。そうしてわたくしの、黒ずんだ右手を取ると、甲にそっと口づけなさいました。
「さあ、良い子は寝る時間だ。君が安心して眠れるように、俺は外で見張っているから」
そう言うと、本当に外へ出て行かれました。
わたくしは目を閉じます。心臓が、どきどきしていましたが、恐怖からではないということだけは、分かりました。
◇◆◇
そうしてわたくしは、マイロ様の治める国に、入りました。
元々、マイロ様は軍人でした。ですが手柄を上げ、さらに手柄を上げ、その上で手柄を上げ、瞬く間に国の英雄となりました。魔法を使えることも成果を上げた一助だったのだと聞いたことがあります。
わたくしのいた国とは違って、マイロ様の国は、議会が大きな力を握っております。その議会が、彼を王にすると決定したのです。
ですから前の王様を追い出して、マイロ様が王になったのでした。
「俺は雇われ国王だ。不要になったら首を切られるだろう」
マイロ様は自嘲気味にそう言いました。
実際、議会で選ばれた王は王ではない、生まれながらの王族のみが真の王なのだと、お父様がおっしゃったことがございます。ですが王都に入ったとき、国王万歳と叫ぶ市民を見て、マイロ様が偽物の王だとは思えませんでした。市民の表情は誰しも晴れやかで、それはそれは美しいものでしたので。
マイロ様の宮殿は、かつては別の王族が使っていたもので、派手な建物に反して、彼自身の暮らしは質素なものでした。
王族というものは、お父様たちのように、派手さを好むものだと思っておりましたので、始めは驚きましたが、すぐに慣れました。使用人達もわたくしを見てあざ笑うことはなく、まるで大切な姫君を扱うかのように接してくれたのです。
疑問をぶつけると、マイロ様は言いました。
「君は大切な姫君なんだよ」
日々の中で、彼は時に、わたくしに話しかけました。
「アンジェリカ、猟に出るが一緒に来るか」
「動物を殺すのは可哀想です」
結局、マイロ様は出かけませんでした。
「アンジェリカ、本は好きか」
「わたくし、文字が読めません」
翌日、わたくしのところに家庭教師が派遣されました。
「アンジェリカ、どんな料理が好きだ?」
「わたくし、パンとじゃがいものスープしか料理を知りません」
その晩、ステーキが夕食でした。どうやらマイロ様の好物だそうです。
度々マイロ様は、わたくしに魔法を見せてくれました。高いところの物を取ったり、戯れに風を作って、わたくしの髪を靡かせました。
魔法が使える方は、その両手に円状の魔法陣を出現させます。お父様もジュリエッタお姉様もそうでした。魔法陣など見慣れたものでしたけれど、マイロ様のそれは、他のどの方よりも正確で美しい光を放っておりました。それだけ彼が、努力を重ねてきたということなのでしょう。
彼はとても優れた方でした。その人格においてもです。
わたくしは、教養もなく、つまらない女です。けれどマイロ様は、嫌な顔をすることはございませんでした。
忙しいマイロ様でしたが、朝と夜は、いつも一緒にご飯を食べました。誰かとご飯を食べるのは初めての経験だと伝えると、なんとも微妙な表情をされたのを覚えています。眠る時は彼がベッドまで運んでくださいました。自分も幼い頃は文字が読めなかったのだと、本を読み聞かせながらまるで秘密を打ち明けるように、そっと教えてくださいました。
冷徹公というあだ名に反して、穏やかな方でした。彼はわたくしの手にキスをすることはございましたが、体に触れることはありませんでした。わたくしに与えられた小さな宮殿で、日々は緩やかに過ぎていきました。
ある日のこと、彼は言います。
「アンジェリカ、観劇に行かないか」
「劇がお好きなんですか?」
意外なことです。彼の暇つぶしは、兵士の鍛錬場で稽古をすることだけだと思っていたからです。頭をかきながら、彼は言いました。
「いや、君が喜ぶと思ったからだ。大層良いと評判の劇で、題目はなんと言ったか……忘れてしまったが、もし、嫌でないのなら――」
「劇を見たことはございません」
「なら、行こう」
言って、彼は笑います。その笑顔を見ていると、わたくしも自然と笑っていました。
正直に言うと、踊り出したいほど嬉しかったのです。わたくしの足は動きませんから、もちろん無理なことなのですが、それほどわくわくしたのです。だって、劇なんて、行ったことがなかったのですから。
初対面の印象こそ恐ろしかったものの、マイロ様はわたくしを怒ることも、怒鳴ることも、馬鹿にすることもございませんでした。彼は優しくて、本当に優しくて、考えられないほど優しくて、わたくしは彼の優しさに触れる度に、涙が出そうになるのでした。
彼の側にいると、わたくしは自分が役立たずだということも忘れ、一人前の人間になれたように、勘違いをしてしまいそうになるのでした。
◇◆◇
護衛付きではあったものの、二人でお出かけするのは初めてのことでした。劇場には、大勢の貴族の方がいらっしゃいます。
三階の、せり出たバルコニー席に着いた瞬間、どこかから、その声がしました。
――見ろ、あれが王妃だ。不具ではないか。陛下はなぜあのような者を娶ったのだ。
思い違いを知りました。
わたくしは、なんて愚かなのでしょう。お父様とお姉様に言われていたことを忘れていました。哀れで、人前に出すことも恥ずかしい、外見も心も汚れた醜い姫。
なのにマイロ様のご厚意に甘え、あろうことか人前に出てきてしまい、恥をかかせてしまいました。みじめで、みじめで、情けなくなりました。
その時、大声が聞こえました。
「誰だ! 今声を発したのは!」
隣に座っていたマイロ様が立ち上がり、両手にまばゆく光る魔法陣を出現させました。人を傷つけるための魔法が練り込まれています。
観客達が皆こちらに注目し、誰しも恐怖に顔を歪めておりました。
「出てこい、陰口を叩くことしかできない卑怯者め! 切り裂いてやろう!」
マイロ様は魔法陣をさらに大きくしました。
恐怖により、わたくしはマイロ様の腕をつかみました。
「よしてくださいまし!」
ですが彼は魔法陣を引っ込めません。
「止めるなアンジェリカ! 君が傷つけられたんだ! 黙っていられるか!」
耐えきれず、わたくしは上半身を動かし、彼に飛びつきました。
「神にでもなったおつもりですか!」
瞬間、魔法陣は消え失せ、光の後の闇と、静寂が辺りを包み込みました。マイロ様が目を見開き、わたくしを見つめています。
「マイロ様、人に人は裁けません! わたくしの外見は確かに醜いものです、仕方のないことです! だからお願いです、わたくしのために誰かを罰しないでくださいまし……!」
そんな価値は、わたくしにはないのです。
マイロ様の手が、ゆっくりとわたくしの頬に触れ、離れました。彼の指には、赤い血がべとりと付着しています。魔法陣に触れたわたくしの頬が裂け、血が出ていたのでした。
「仕方のないことなんかじゃない。君は、綺麗だよ。綺麗なんだ。本当に……」
力なく、マイロ様は呟きました。
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