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中編 見捨てられたお姫様
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騒ぎの後で、わたくしはマイロ様に抱えられて劇場を後にしました。劇を続けて見る気にはなれませんでした。
頬の傷は、マイロ様の魔法によって治癒されました。跡が残ることはないでしょう。
宮殿に戻る馬車でも、どちらも口を利きませんでした。感情が渦巻いて、わたくしはひどく、動揺していました。
夜、いつものようにマイロ様がベッドまで連れて行ってくださった時になって、やっと言葉を発することができました。
「マイロ様、もう、嫌です。人前に行くのは嫌です。あなたまで馬鹿にされてしまいます。そんなの、耐えられません」
かすれる声でした。
「わたくしは醜いのです」
マイロ様はじっとわたくしを見つめます。
「君は綺麗だ」
誰がどう見ても、綺麗でないわたくしです。お世辞など、もう聞きたくありませんでした。
「わたくしは、ジュリエッタお姉様のように美しくはありません。妻の務めも、碌に果たせません。マイロ様を失望させてしまいます」
「失望などしないさ」
慰めるように伸びてきたマイロ様の腕を振り払いました。
「嘘です! 嘘をいわないでくださいまし! マイロ様は優しいから、わたくしを傷つけないように接してくださいます。けれどその優しさが、わたくしは怖いのです! いつか、いつか本当に失望されて、わたくしから去ってしまうに決まっています!」
いつもだったら、人に感情をぶつけることなんてありません。ですが、どういう訳か、この時は抑えられませんでした。
涙が出ました。わたくしは心まで醜い人間です。わたくしのために怒ってくださったマイロ様とは違い、自分かわいさ故に、泣いているのですから。
情けなくて顔を背けました。
マイロ様はしばらくの間、黙っておられました。呆れられたに決まっています。きっとこの場から去ってしまい、今度こそ戻ってはこないでしょう。それならそれでいいのです。始めから側にいてくださることがおかしかったのです。
彼がわたくしから去れば、望んではいけない望みを、抱く愚かさに悩む必要もなくなります。
ふいに、頬に温かさを感じました。血が出た方の頬に、マイロ様の手が触れ、ゆっくりと顔を上げさせられました。
マイロ様は言いました。
「……こんな経験は初めてだと、君が喜んでいる姿を見るのが嬉しいんだ」
想像していたよりも遙かに真剣な彼の瞳から、目を逸らすことができません。醜いわたくしが、映っているというのに。
「君が笑うと、俺は自分の人生が救われるように思う。碌でもない産まれで、碌でもない人生を送ってきた、俺は残虐で冷酷な王だ。そう言われているし、自分でもそう思う。多くを殺し、憎まれ、恐れられている。
一方で君は、本物の姫君だ。君がどう思っていようが、身分と血統を保証された素晴らしい姫だ。側にいるのが不釣り合いなことは、俺が一番よく分かっている。
だが、それでも君は俺の妻になった。たとえ誰もが想定していなかったことだとしても、俺と君は、上手くいっていると、そう思う。
俺はな、アンジェリカ。誰よりも純粋な君といると、ごく普通の、愛と優しさを持つ一人の男であると思えるんだ。そういう心が、俺にも残っていたのだと、実感できる。君はそう思わせてくれる特別な人だ」
嘘だ。嘘に、決まっています。それでもわたくしの目から、悲しみではない涙が溢れました。
「君の生家での扱いを思うと心が痛む。ウェストガルド家は、こう言っては悪いが最低だ。どうして幼い君を、さあどうぞと差し出せるんだ? あいつらは先祖が偶々王族だっただけの、糞野郎どもだ。――君を除いては」
「でも……! でも、マイロ様は、ジュリエッタお姉様にご結婚を申し込みました……!」
マイロ様は、眉を下げます。
「ウェストガルド家には悪魔が棲むという。時に人は、評判だけで恐怖を抱く。その強さに、あやかろうと思ったんだ。
ジュリエッタは年の頃が、丁度良い姫だった。だから結婚を申し出た。だが、愚かな考えだった。今は、俺のところに来たのが君で良かったと、心の底から思っている」
心臓が、勝手に鼓動を早めます。わたくしは彼から目が離せません。照れくさそうに、彼は言います。
「本心を言うよ。俺は君がかわいくてかわいくて仕方がないんだ。下手すれば娘と言ってもおかしくはない年の差だが、君が笑ってくれていると、心がまどろむんだ。年も離れているし、おかしな話だが、俺は多分、君に恋をしているんだと、思うよ」
信じることなんてできません。
「ならばわたくしに口づけできますか」
本心を確かめるために言うと、やはり彼は首を横に振ります。
「それは、だめだ」
「ならば恋など嘘です」
「本当だ。君が大切だ」
「わたくしは醜い娘です」
マイロ様は、また首を横に振りました。
「人の美しさとは、外見に宿るものか? そうじゃないと、俺は思う。教会の前の乞食に、神が宿らないと誰が言い切れる? 美貌の女が悪魔でないと、誰が証明できる」
頬に触れていたマイロ様の手が、肩を滑り落ち、わたくしの黒ずんだ手に触れました。
「さっき、俺は自分を見失ってしまっていた。だが君は気高さを失わなかった。君があの場にいなかったらと思うと、恐ろしい。俺は誰かを殺していたのかもしれない。
君は、いつもよりよく在ろうとしている。その心が、俺はどうしようもなく愛おしい。君は綺麗だ。俺が出会った人間の誰よりも美しい。だからどうかもう、自分を醜いと思わないでくれ」
マイロ様の言葉は真摯で、わたくしの心を解いていきます。
じゃあ、とわたくしは言いました。
「じゃあ、わたくしにキスをしてください」
「……できない」
三度、マイロ様は首を横に振ります。
「分かるだろう。君は俺より立場が弱い。侵攻を恐れた君のお父様から、人質のように差し出された少女だ。
君は俺があげるものに喜んでくれるが、本当は強要しているんじゃないかと、いつも恐ろしい。君の本心では、俺を畏怖し、拒否しているんじゃないかと思ってしまう。無理させているのではないかと、怖いんだ」
驚きました。
「恐れなく進軍する冷徹公も、怖いのですか?」
マイロ様は目を見開きました。
「怖いさ! 怖いに決まってるだろ! 俺だって人間だ。いつだって怖い!
……初めて会ったとき、君は俺を見て、死を覚悟した獲物のうさぎのように震えていたじゃないか! あんな拒否された瞳でまた見られたら、俺は途方に暮れてしまう。君が大切なんだ。いつまでも側にいて欲しい。失いたくない! 君は俺の宝なんだ。いなくなったら、俺の世界はまた孤独の闇に立ち戻る」
それは初めて聞く、彼の弱さのように思いました。わたくしの恐れこそ彼を恐れさせていただなんて、なんとびっくりすることでしょうか。
マイロ様はわたくしよりも体が大きいし、力も強いし、魔法も使えるし、年も上だし、なんでも知っています。なのに、今、わたくしは彼を可愛いと思ってしまいました。不思議なことです。
「なら、これならいいでしょう?」
彼の両手にわたくしは両手を重ね、彼の頬に唇を付けました。硬直する彼から身を離し、微笑みました。
「……これはわたくしが望んだ口づけです」
頬が精一杯でした。
「お、大人を、からかうもんじゃないよ」
からかっているわけではございませんでしたが、マイロ様は怒ったのか、お顔を真っ赤にされておりました。
わたくしは、生まれて初めて感じる安らぎに、有頂天でございました。もう彼の優しさと真心を、疑うこともありませんでした。
最近になって、ようやく分かるようになってきた社会の仕組みのことがございます。この国において、王に最大の権力はございませんでした。力を持っているのは貴族議員たちで、さらにその上に、少数の有力貴族からなる元老院がございまして、実質的に権力を握っているのは、彼らでした。
戦争だって、マイロ様が望んで起こしている訳ではありません。国土を求める国民の声に押されて出兵され、そうして手柄を立てて戻ってきます。戦に強いのは本当でしょう。だって今も外国から、恐れられているのですから。
それでも彼は彼の役割を、ご立派に全うしておられました。時に本心ではないにせよ。
わたくしも自分の役割を全うするため、王妃として、外交の場に出ることもありました。人前に姿をさらすことに、始めの頃こそ恐怖を抱いていたものの、マイロ様の側にいると、勇気が湧いてきました。
そうしていると不思議なもので、周囲もわたくしを見て、目を逸らすことはありませんでした。来た頃に言われていたような“非道い言葉”も、全く聞かなくなりました。
「君が大層素晴らしい王妃であると、先日来た友好国の王が言っていたぞ。今度はあちらの国に来て欲しいとさ」
ある夜、わたくしの髪に触れながら、マイロ様がそうおっしゃいました。
「旅行に行ったことはございません。楽しみです」
「そういえばそうだったな。少し暇になったら、旅行に行こう」
マイロ様は微笑みます。
「君の魅力が広まって嬉しいが、独り占めできなくなってきたのは少し寂しいよ」
マイロ様がわたくしをベッドまで運んでくれることには変わりありませんが、度々こうしてしばらく隣に横たわるようになったという変化はありました。さながら親が子にするような、親愛のこもった添い寝というところでしょうか。長い間、二人で話し込むこともございました。マイロ様は、やはりわたくしに触れることはございませんでした。
わたくしも負けじと、隣に体を横たえるマイロ様の、お顔の傷に触れました。わたくしの頬の傷の痕は残っていないのに、マイロ様の傷は残っています。
それをいつか尋ねたことがございます。
戦場で怪我をし、数日生死の境を彷徨い、目覚めたらこうなっていたのだとおっしゃっていました。
体にも無数に傷があることは、最近になって知ったことです。“背中に傷がないのは、逃げなかった証拠だ”と、彼は笑いました。
顔に触れていると、わたくしの手を握り、マイロ様が額にキスをくれました。マイロ様に触れられると、わたくしはたちまち自分が繊細な乙女になったかのような錯覚に陥ります。マイロ様の大きな手は、簡単にわたくしを殺してしまうでしょう。ですが、彼は決してそうはいたしません。
「アンジェリカ、誕生日のパーティだが、来賓名簿を作ったから、明日、目を通しておいてくれ」
はい、とわたくしも応じました。誕生日パーティは外交の意味もあり、開くことになると、以前から聞いていたことでございました。怖さは少しだけ。本心を言いますと、楽しみでした。誕生日はいつも、ノースお兄様と二人だったので、多くの人にお祝いをしてもらえるなんて、わくわくしていたのです。
ですが、結果から言うと、誕生日のパーティを開くことは叶いませんでした。
お父様の訃報を、受け取ったからです。
突然の報せでありました。
わたくしとマイロ様は、葬儀に参列するために、祖国へと戻りました。
人前に出ることには、慣れたつもりでおりました。愛想笑いも、以前よりもずっと上手くなりました。それなのに、祖国の王都に入ったとき、わたくしの臆病な心は、震えていました。
絶対に側を離れない、というマイロ様の言葉に縋るのは自分の弱さを認めるようで恥ずべきことだと思いましたが、その言葉がなければわたくしは、逃げ出してしまったかもしれません。
ウェストガルド家にいた頃のことを思い出そうとすると、靄がかかってしまったように曖昧です。それだけマイロ様と出会ってからが、幸福過ぎたのです。自分の価値を、錯覚してしまうほど――。
王都中に半旗が掲げられ、道行く人々の服は誰しも黒く、喪に服しておりました。
マイロ様は無言で、そんな人々を見つめておりました。
随分と久しぶりに、祖国の城に入ったように思います。わたくしが暮らしていたのは敷地内の小さな離れであり、城で過ごした思い出はさほど多くはありませんでした。貴族文化の全てを詰め込んだような荘厳なお城は、わたくしをちっとも歓迎しておりませんでした。
わたくしの車椅子は、マイロ様に押されました。顔を知っている使用人たちがわたくしを物珍しそうに見つめていましたが、声をかけてくることはありません。
お父様の棺はまず広間に置かれ、銘々のお別れが済んだ後に、墓所へと移されることになっておりました。
お父様に会いに行こうと広間に入ったとき、一番始めに出迎えたのは、ジュリエッタお姉様の悲鳴でした。
「アンジェリカ、まさか、参列するつもりなの!? よしてみすぼらしい!」
防腐処理をしているご遺体ですが、特有のすえた匂いが広間に漂います。
ジュリエッタお姉様はそのご遺体に寄り添うように佇んでおられました。
「お父様はあなたを娘だとは思っていなかったわ。お父様の顔に泥を塗るつもりなの! 今すぐ姿を消しなさい!」
マイロ様が何かを言いたげに車椅子の後ろから、わたくしとジュリエッタお姉様の間に立ちましたが、その服を掴み、わたくしは首を横に振りました。
お父様の寵愛を一身に受けておられた美しいジュリエッタお姉様は、その目を赤く腫らしております。きっと、ずっと泣いておられたのでしょう。
無理もございません。お父様は狩りの最中、暴走した馬から落ち、そうして首の骨が折れて亡くなったのです。突然のことでした。誰しも心の準備などできておりませんでした。
お姉様の悲しみは理解できます。理解できないのは、お父様の死に、悲しみさえも抱かない、このわたくしの心の内の方でした。
「アンジェリカ、お前は私とおいで」
背後から声が聞こえ振り向くと、ノースお兄様がいらっしゃいました。マイロ様が彼を厳しい眼光で射貫きます。
「君はノース・ウェストガルドか」
「ああ、そうして悪魔の後継者だ」
「では、次期王に決まったのか」
頷き、ノースお兄様は肯定なさいました。
「私が王にして、ウェストガルド家の現当主となった。さあアンジェリカ、葬儀の間、私の部屋にいればいい」
そう言って、わたくしの車椅子に手を伸ばしました。お城にいるときは、ほとんどいつも、わたくしの車椅子を押してくれたノースお兄様です。今日もそうしてくださるのでしょうか。
マイロ様は眉を顰められました。
「なぜ参列が許されない? アンジェリカは俺の妻だ。ウェストガルド家の娘ではあるが、今は俺の国の王妃として参った。それをあなた方がどうこう命令する筋合いはあるまい。彼女は俺と参列する」
不穏な空気が、濃くなったように思いました。
ノースお兄様はマイロ様を睨み付けていました。
「こんな彼女を人前に引っ張り出して、可哀想だと思わないのか?」
「可哀想だと?」
マイロ様は、苛立っておられるようでした。不快さを隠すこともなく、ノースお兄様に言います。
「俺の妻は可哀想か? ……失礼ながら、彼女を可哀想にしていたのは、この国とウェストガルド家ではないのか。確かに初対面の時、彼女を哀れだと思った。まるで殺される覚悟を決めてやってきたような表情をしていたよ。きっと祖国でそういう風な扱いを受けていたのだろうと思ったよ。だから夫となる俺が、幸せにしようと思った。俺は妻を誇りに思っている。素直で可愛らしく真心のある、どこに出しても自慢の妻だ」
マイロ様の言葉だけで、天に昇ってしまいそうでした。なんて温かで、優しい言葉なのでしょう。こんなに大切に思っていただけていたなんて、きっとノースお兄様も安心したことでしょう。
そう思ったのですが、ノースお兄様の厳しい表情に、少しも変化はございません。
「ウェストガルドが支配するこの国で、我々を蔑むことが、どういう意味を持つのかまさか分からないのではあるまいな」
「それが正当な主張であれば、俺は時と場合など選ばない」
じりじりと、近衛兵達が近づくのが目の端に映りました。魔法陣が光ったのさえ見えます。彼らはマイロ様を傷つけることに、少しの躊躇もないでしょう。
「構いませんマイロ様!」慌ててわたくしは言いました。「わたくし、式中、隠れております!」
「俺は君の側を離れないと誓ったんだ。いさせてくれ」
「お願いです。これ以上、騒ぎを大きくしたくないのです」
このままでは、マイロ様に危害が及ぶかもしれません。たとえご自分の意思でなかったとしても、他国の領地を奪ったマイロ様です。この国でも、恐れられておりました。
ですからこの場は、ノースお兄様やジュリエッタお姉様に従うのが、一番正しい選択のように思えたのです。
マイロ様は、まるで苦渋の決断を迫られた時のように顔を歪められておりましたが、最後には頷きます。
わたくしはノースお兄様に車椅子を押されながら、広間を後にしました。
「成り上がりの偽王め」誰かが発した、侮蔑混じりの声がしました。
結局、式の間、わたくしはノースお兄様のお部屋で待っておりました。もっとも、お兄様は葬儀に出席されていたのでご不在です。
たった一人で待つ間、部屋を好きに使って良いと言われておりました。宮廷魔法使いをされているノースお兄様です。お部屋の中には、魔法の研究に使うのでしょう、本や鉱石、植物が置かれていました。窓辺には鳥かごがあり、しかし中には何も入っておりません。
机の上に置かれた本が目に入りました。魔導書でした。
ぱらぱらと、ページをめくりました。
人に魔法をかけて操ることがどうの、というページが開かれました。魔法を使える方はそんなことまでできるのかと、興味を惹かれて読みましたが、人の意思は強いため、操ることはできないと結論づけられておりました。動物であれば可能なようですが、それもかなり高度な術だということです。
他にも、たくさんの魔法が載っていました。人を攻撃する魔法、人に魔法を蓄える魔法、奪う魔法、癒やす魔法、薬草のことも、多く書かれていました。
挿絵や図があって、分からない単語があっても理解はできます。
そうして夜まで時を過ごしていると、廊下に人の気配がして、ほどなくして扉が開かれました。
ノースお兄様が、式からお戻りになられたのです。わたくしを見て、優しく微笑みをくれました。
「本を、読んでいたのかい」
「はい」
ノースお兄様は、わたくしの側までやってくると、手に触れてくださいます。
「文字が、読めるのかな。私が教えようか?」
「少しだけなら……マイロ様が教えてくださいましたので」
「その本は少し難しいだろう。魔法についての本だからね」
「いいえ、とても面白いですわ」微笑みを返します。「わたくしは魔法が使えませんが、マイロ様は使えますから、何かの手助けができればと思ったのです」
ノースお兄様の表情は、なぜだか曇りました。お兄様はわたくしの隣に椅子を持ってきて腰掛けると、今度は頬に触れます。
「マイロ・カースに、非道いことをされていないかい」
慌ててわたくしは言いました。
「いいえ!」読んでいた本も勢い余って閉じます。
「マイロ様は、信じられないくらい優しくしてくださいます。知らないことをたくさんたくさん教えてくださいます。初めてのことばかりで、わたくし、毎日、とっても幸福なのですわ」
マイロ様といると、生まれて初めて得る安らぎと、心地の良い心臓のドキドキを感じました。これが恋なのだと、気がついたのはつい最近です。
ノースお兄様は、マイロ様に会う前に、マイロ様のことを恐ろしい方だと誤解していたわたくしに慰めをくださったのです。きっとまだ彼を怖い人だと思っているのでしょう。
「わたくし、婚前にマイロ様のことをよく知らないのに恐れていたことを恥じますわ。ノースお兄様にも、彼を知っていただければ――」
広間での不穏な空気も、マイロ様を知ればなくなるはずです。
ですがノースお兄様はわたくしの言葉を遮りました。
「あの男は君に触れた?」
「い、いいえ――」
じっと見つめる視線が恐ろしくて、わたくしは目を逸らしました。どうしてそんなことを、ノースお兄様は尋ねるのでしょう。混乱して、顔を背けました。
「本当に、体を許していないんだね?」
「は、はい」
「良かった――」お兄様は言います。
「私はあの男に君をやるのを、叔父上に反対したんだ。だが彼は聞き入れなかった。だが間に合って良かった」
背けた顔は、ノースお兄様の手により再び上げ直されます。唇に、唇が触れたことが分かりました。それは、いわゆるキスでした。
わたくしの皮膚に鳥肌が立ちます。キスをしているのが、とても長い時間のように思えました。どうしてこんなことをされているのか分からず、怖くて涙が滲みました。体を離したくて、両手でお兄様の体を押しました。
勢い余って、わたくしは車椅子ごと床に落ちます。
部屋の入り口から、ひ、と悲鳴が聞こえたのはその時でした。
「なにを、なにをしているのノース!」
ジュリエッタお姉様が、わたくしとノースお兄様を交互に見て、顔面を蒼白にしておられました。
見たこともない冷たい表情をしたノースお兄様は、ジュリエッタお姉様に言います。
「私はアンジェリカを愛しているんだ」
言葉の意味が分かりません。わたくしは混乱していました。それはジュリエッタお姉様も同じだったようで、血相を変えて叫びました。
「何を言っているの! その子はマイロ・カースの妻なのよ!」
ジュリエッタお姉様は震えながら言います。
「あなたがアンジェリカを見る目は、昔から普通じゃなかった! だからわたしは、アンジェリカが嫌いだったのよ! あなたが盗られるんじゃないかって……!」
ノースお兄様は、いつものような完璧な笑みで微笑まれました。
「ジュリエッタ、叔父上の死でまだ動揺しているんだね。可哀想に、近衛兵達、彼女を部屋にお連れしろ」
未だ喚くジュリエッタお姉様は、ノースお兄様の兵士達によって連れて行かれます。それを満足そうに見届けた後に、ノースお兄様はわたくしに笑いかけました。
「さあ、今日はここで眠ればいい。ここが君の家で、君の国だ。これからずっとここにいればいいんだ」
優しいはずのノースお兄様の微笑みは、しかしわたくしを凍り付かせました。
愚者のような質問しかできません。
「あの……マイロ様はどうされているのでしょうか」
式が終わったなら、きっと一番始めに会いに来てくれるだろうと思っていたのです。
ノースお兄様は、わたくしの体をご自分のベッドまで運び、横たえながら言いました。
「彼は国に帰ったよ。やはりジュリエッタを娶ると言っていた。彼女もいずれ彼の国へ渡るだろう」
「う、嘘……」
そんなはずはございません。たとえ数ヶ月であったにせよ、たとえキスさえしなかったにせよ、わたくしとマイロ様は、本当に夫婦だったのです。絆がございます。それを一方的に反故にされるはずがございません。
けれどノースお兄様が嘘をおっしゃる理由も分かりませんでした。
わたくしの髪を撫でながら、ノースお兄様は言います。
「大丈夫、君はここにいればいいんだから。夜ごと髪を梳き、一緒に眠ろう。朝になったら、服を着せてあげるよ。日中、君は好きなことをすればいい。人前に出る必要はない。君は永遠に、私の側にいてくれれば、それでいいんだ」
ご自分もわたくしの隣に体を横たえながら、ノースお兄様はおっしゃいます。
「私はね、君を取り戻すために王になったんだ」
そうして、耳を疑うような言葉が聞こえました。
「君が好きだ。王妃に迎え入れたい」
わたくしはマイロ様の妻なので、他の方の妻にはなれません。そう言っても、マイロ様は国に帰られ、ジュリエッタお姉様を新たな王妃に迎えられるとだけ、ノースお兄様はお答えになりました。
数週間が、経ちました。
わたくしは、ノースお兄様のお部屋から、ほとんど外に出ておりません。
ノースお兄様がおっしゃっていることは本当なのかもしれません。だってお城の中に、マイロ様とジュリエッタお姉様のお姿はありませんでした。
わたくしは、マイロ様に捨てられたのでしょうか。
一緒に猟に行かなかったから?
文字が読めなかったから?
好きな料理を答えられなかったから?
笑うのがへたくそだからでしょうか?
それとも、ウェストガルド家の姫なのに、魔法が使えないからでしょうか。それとも、それとも――やはりわたくしが醜い姫だからでしょうか。
だけどマイロ様、わたくしは文字が読めるようになりました。愛想笑いも、ずっとずっと上手くなりました。愛想笑いでない笑いは、まだあなたの隣でないと上手くできません。
マイロ様、わたくし、ノースお兄様と結婚したのでしょうか。ノースお兄様はそうだと言います。式もないから分かりません。ノースお兄様は、わたくしに何もしなくていいとおっしゃいます。外交もしなくていいし、本も読んであげるからと、隠されてしまいました。着替えも、お風呂も、食事も、なにもかも、わたくし一人ですることは許されません。
ねえマイロ様。わたくし、おかしくなってしまったのでしょうか。
ノースお兄様はわたくしに何でもしてくださいます。優しいです。でも、ノースお兄様といても、考えるのはマイロ様のことばかりなのです。なのに別れの言葉もなく一人で帰ってしまうなんて、あんまりではございませんか。
マイロ様、お元気にされておりますか。
劇場で、怒ってはいないですか。マイロ様はジュリエッタお姉様になら、戸惑いなくキスをされるのでしょうか。
外に出ないので、ニュースを知ることができません。マイロ様が読み終わった後の新聞を読むこともできません。ノースお兄様は、わたくしは何も心配しなくていいと言ってくださって、新聞を読むことを禁じております。ジュリエッタお姉様との式は、きっと豪華なものだったのでしょう? それさえも、知ることができません。
ねえマイロ様。
あなたの優しさが愛でなく、同情だったのだとしても、わたくし、あなたをお慕い申し上げております。今だって、心の中心に、あなただけがいます。それだけは、どうかお許しください――。
頬の傷は、マイロ様の魔法によって治癒されました。跡が残ることはないでしょう。
宮殿に戻る馬車でも、どちらも口を利きませんでした。感情が渦巻いて、わたくしはひどく、動揺していました。
夜、いつものようにマイロ様がベッドまで連れて行ってくださった時になって、やっと言葉を発することができました。
「マイロ様、もう、嫌です。人前に行くのは嫌です。あなたまで馬鹿にされてしまいます。そんなの、耐えられません」
かすれる声でした。
「わたくしは醜いのです」
マイロ様はじっとわたくしを見つめます。
「君は綺麗だ」
誰がどう見ても、綺麗でないわたくしです。お世辞など、もう聞きたくありませんでした。
「わたくしは、ジュリエッタお姉様のように美しくはありません。妻の務めも、碌に果たせません。マイロ様を失望させてしまいます」
「失望などしないさ」
慰めるように伸びてきたマイロ様の腕を振り払いました。
「嘘です! 嘘をいわないでくださいまし! マイロ様は優しいから、わたくしを傷つけないように接してくださいます。けれどその優しさが、わたくしは怖いのです! いつか、いつか本当に失望されて、わたくしから去ってしまうに決まっています!」
いつもだったら、人に感情をぶつけることなんてありません。ですが、どういう訳か、この時は抑えられませんでした。
涙が出ました。わたくしは心まで醜い人間です。わたくしのために怒ってくださったマイロ様とは違い、自分かわいさ故に、泣いているのですから。
情けなくて顔を背けました。
マイロ様はしばらくの間、黙っておられました。呆れられたに決まっています。きっとこの場から去ってしまい、今度こそ戻ってはこないでしょう。それならそれでいいのです。始めから側にいてくださることがおかしかったのです。
彼がわたくしから去れば、望んではいけない望みを、抱く愚かさに悩む必要もなくなります。
ふいに、頬に温かさを感じました。血が出た方の頬に、マイロ様の手が触れ、ゆっくりと顔を上げさせられました。
マイロ様は言いました。
「……こんな経験は初めてだと、君が喜んでいる姿を見るのが嬉しいんだ」
想像していたよりも遙かに真剣な彼の瞳から、目を逸らすことができません。醜いわたくしが、映っているというのに。
「君が笑うと、俺は自分の人生が救われるように思う。碌でもない産まれで、碌でもない人生を送ってきた、俺は残虐で冷酷な王だ。そう言われているし、自分でもそう思う。多くを殺し、憎まれ、恐れられている。
一方で君は、本物の姫君だ。君がどう思っていようが、身分と血統を保証された素晴らしい姫だ。側にいるのが不釣り合いなことは、俺が一番よく分かっている。
だが、それでも君は俺の妻になった。たとえ誰もが想定していなかったことだとしても、俺と君は、上手くいっていると、そう思う。
俺はな、アンジェリカ。誰よりも純粋な君といると、ごく普通の、愛と優しさを持つ一人の男であると思えるんだ。そういう心が、俺にも残っていたのだと、実感できる。君はそう思わせてくれる特別な人だ」
嘘だ。嘘に、決まっています。それでもわたくしの目から、悲しみではない涙が溢れました。
「君の生家での扱いを思うと心が痛む。ウェストガルド家は、こう言っては悪いが最低だ。どうして幼い君を、さあどうぞと差し出せるんだ? あいつらは先祖が偶々王族だっただけの、糞野郎どもだ。――君を除いては」
「でも……! でも、マイロ様は、ジュリエッタお姉様にご結婚を申し込みました……!」
マイロ様は、眉を下げます。
「ウェストガルド家には悪魔が棲むという。時に人は、評判だけで恐怖を抱く。その強さに、あやかろうと思ったんだ。
ジュリエッタは年の頃が、丁度良い姫だった。だから結婚を申し出た。だが、愚かな考えだった。今は、俺のところに来たのが君で良かったと、心の底から思っている」
心臓が、勝手に鼓動を早めます。わたくしは彼から目が離せません。照れくさそうに、彼は言います。
「本心を言うよ。俺は君がかわいくてかわいくて仕方がないんだ。下手すれば娘と言ってもおかしくはない年の差だが、君が笑ってくれていると、心がまどろむんだ。年も離れているし、おかしな話だが、俺は多分、君に恋をしているんだと、思うよ」
信じることなんてできません。
「ならばわたくしに口づけできますか」
本心を確かめるために言うと、やはり彼は首を横に振ります。
「それは、だめだ」
「ならば恋など嘘です」
「本当だ。君が大切だ」
「わたくしは醜い娘です」
マイロ様は、また首を横に振りました。
「人の美しさとは、外見に宿るものか? そうじゃないと、俺は思う。教会の前の乞食に、神が宿らないと誰が言い切れる? 美貌の女が悪魔でないと、誰が証明できる」
頬に触れていたマイロ様の手が、肩を滑り落ち、わたくしの黒ずんだ手に触れました。
「さっき、俺は自分を見失ってしまっていた。だが君は気高さを失わなかった。君があの場にいなかったらと思うと、恐ろしい。俺は誰かを殺していたのかもしれない。
君は、いつもよりよく在ろうとしている。その心が、俺はどうしようもなく愛おしい。君は綺麗だ。俺が出会った人間の誰よりも美しい。だからどうかもう、自分を醜いと思わないでくれ」
マイロ様の言葉は真摯で、わたくしの心を解いていきます。
じゃあ、とわたくしは言いました。
「じゃあ、わたくしにキスをしてください」
「……できない」
三度、マイロ様は首を横に振ります。
「分かるだろう。君は俺より立場が弱い。侵攻を恐れた君のお父様から、人質のように差し出された少女だ。
君は俺があげるものに喜んでくれるが、本当は強要しているんじゃないかと、いつも恐ろしい。君の本心では、俺を畏怖し、拒否しているんじゃないかと思ってしまう。無理させているのではないかと、怖いんだ」
驚きました。
「恐れなく進軍する冷徹公も、怖いのですか?」
マイロ様は目を見開きました。
「怖いさ! 怖いに決まってるだろ! 俺だって人間だ。いつだって怖い!
……初めて会ったとき、君は俺を見て、死を覚悟した獲物のうさぎのように震えていたじゃないか! あんな拒否された瞳でまた見られたら、俺は途方に暮れてしまう。君が大切なんだ。いつまでも側にいて欲しい。失いたくない! 君は俺の宝なんだ。いなくなったら、俺の世界はまた孤独の闇に立ち戻る」
それは初めて聞く、彼の弱さのように思いました。わたくしの恐れこそ彼を恐れさせていただなんて、なんとびっくりすることでしょうか。
マイロ様はわたくしよりも体が大きいし、力も強いし、魔法も使えるし、年も上だし、なんでも知っています。なのに、今、わたくしは彼を可愛いと思ってしまいました。不思議なことです。
「なら、これならいいでしょう?」
彼の両手にわたくしは両手を重ね、彼の頬に唇を付けました。硬直する彼から身を離し、微笑みました。
「……これはわたくしが望んだ口づけです」
頬が精一杯でした。
「お、大人を、からかうもんじゃないよ」
からかっているわけではございませんでしたが、マイロ様は怒ったのか、お顔を真っ赤にされておりました。
わたくしは、生まれて初めて感じる安らぎに、有頂天でございました。もう彼の優しさと真心を、疑うこともありませんでした。
最近になって、ようやく分かるようになってきた社会の仕組みのことがございます。この国において、王に最大の権力はございませんでした。力を持っているのは貴族議員たちで、さらにその上に、少数の有力貴族からなる元老院がございまして、実質的に権力を握っているのは、彼らでした。
戦争だって、マイロ様が望んで起こしている訳ではありません。国土を求める国民の声に押されて出兵され、そうして手柄を立てて戻ってきます。戦に強いのは本当でしょう。だって今も外国から、恐れられているのですから。
それでも彼は彼の役割を、ご立派に全うしておられました。時に本心ではないにせよ。
わたくしも自分の役割を全うするため、王妃として、外交の場に出ることもありました。人前に姿をさらすことに、始めの頃こそ恐怖を抱いていたものの、マイロ様の側にいると、勇気が湧いてきました。
そうしていると不思議なもので、周囲もわたくしを見て、目を逸らすことはありませんでした。来た頃に言われていたような“非道い言葉”も、全く聞かなくなりました。
「君が大層素晴らしい王妃であると、先日来た友好国の王が言っていたぞ。今度はあちらの国に来て欲しいとさ」
ある夜、わたくしの髪に触れながら、マイロ様がそうおっしゃいました。
「旅行に行ったことはございません。楽しみです」
「そういえばそうだったな。少し暇になったら、旅行に行こう」
マイロ様は微笑みます。
「君の魅力が広まって嬉しいが、独り占めできなくなってきたのは少し寂しいよ」
マイロ様がわたくしをベッドまで運んでくれることには変わりありませんが、度々こうしてしばらく隣に横たわるようになったという変化はありました。さながら親が子にするような、親愛のこもった添い寝というところでしょうか。長い間、二人で話し込むこともございました。マイロ様は、やはりわたくしに触れることはございませんでした。
わたくしも負けじと、隣に体を横たえるマイロ様の、お顔の傷に触れました。わたくしの頬の傷の痕は残っていないのに、マイロ様の傷は残っています。
それをいつか尋ねたことがございます。
戦場で怪我をし、数日生死の境を彷徨い、目覚めたらこうなっていたのだとおっしゃっていました。
体にも無数に傷があることは、最近になって知ったことです。“背中に傷がないのは、逃げなかった証拠だ”と、彼は笑いました。
顔に触れていると、わたくしの手を握り、マイロ様が額にキスをくれました。マイロ様に触れられると、わたくしはたちまち自分が繊細な乙女になったかのような錯覚に陥ります。マイロ様の大きな手は、簡単にわたくしを殺してしまうでしょう。ですが、彼は決してそうはいたしません。
「アンジェリカ、誕生日のパーティだが、来賓名簿を作ったから、明日、目を通しておいてくれ」
はい、とわたくしも応じました。誕生日パーティは外交の意味もあり、開くことになると、以前から聞いていたことでございました。怖さは少しだけ。本心を言いますと、楽しみでした。誕生日はいつも、ノースお兄様と二人だったので、多くの人にお祝いをしてもらえるなんて、わくわくしていたのです。
ですが、結果から言うと、誕生日のパーティを開くことは叶いませんでした。
お父様の訃報を、受け取ったからです。
突然の報せでありました。
わたくしとマイロ様は、葬儀に参列するために、祖国へと戻りました。
人前に出ることには、慣れたつもりでおりました。愛想笑いも、以前よりもずっと上手くなりました。それなのに、祖国の王都に入ったとき、わたくしの臆病な心は、震えていました。
絶対に側を離れない、というマイロ様の言葉に縋るのは自分の弱さを認めるようで恥ずべきことだと思いましたが、その言葉がなければわたくしは、逃げ出してしまったかもしれません。
ウェストガルド家にいた頃のことを思い出そうとすると、靄がかかってしまったように曖昧です。それだけマイロ様と出会ってからが、幸福過ぎたのです。自分の価値を、錯覚してしまうほど――。
王都中に半旗が掲げられ、道行く人々の服は誰しも黒く、喪に服しておりました。
マイロ様は無言で、そんな人々を見つめておりました。
随分と久しぶりに、祖国の城に入ったように思います。わたくしが暮らしていたのは敷地内の小さな離れであり、城で過ごした思い出はさほど多くはありませんでした。貴族文化の全てを詰め込んだような荘厳なお城は、わたくしをちっとも歓迎しておりませんでした。
わたくしの車椅子は、マイロ様に押されました。顔を知っている使用人たちがわたくしを物珍しそうに見つめていましたが、声をかけてくることはありません。
お父様の棺はまず広間に置かれ、銘々のお別れが済んだ後に、墓所へと移されることになっておりました。
お父様に会いに行こうと広間に入ったとき、一番始めに出迎えたのは、ジュリエッタお姉様の悲鳴でした。
「アンジェリカ、まさか、参列するつもりなの!? よしてみすぼらしい!」
防腐処理をしているご遺体ですが、特有のすえた匂いが広間に漂います。
ジュリエッタお姉様はそのご遺体に寄り添うように佇んでおられました。
「お父様はあなたを娘だとは思っていなかったわ。お父様の顔に泥を塗るつもりなの! 今すぐ姿を消しなさい!」
マイロ様が何かを言いたげに車椅子の後ろから、わたくしとジュリエッタお姉様の間に立ちましたが、その服を掴み、わたくしは首を横に振りました。
お父様の寵愛を一身に受けておられた美しいジュリエッタお姉様は、その目を赤く腫らしております。きっと、ずっと泣いておられたのでしょう。
無理もございません。お父様は狩りの最中、暴走した馬から落ち、そうして首の骨が折れて亡くなったのです。突然のことでした。誰しも心の準備などできておりませんでした。
お姉様の悲しみは理解できます。理解できないのは、お父様の死に、悲しみさえも抱かない、このわたくしの心の内の方でした。
「アンジェリカ、お前は私とおいで」
背後から声が聞こえ振り向くと、ノースお兄様がいらっしゃいました。マイロ様が彼を厳しい眼光で射貫きます。
「君はノース・ウェストガルドか」
「ああ、そうして悪魔の後継者だ」
「では、次期王に決まったのか」
頷き、ノースお兄様は肯定なさいました。
「私が王にして、ウェストガルド家の現当主となった。さあアンジェリカ、葬儀の間、私の部屋にいればいい」
そう言って、わたくしの車椅子に手を伸ばしました。お城にいるときは、ほとんどいつも、わたくしの車椅子を押してくれたノースお兄様です。今日もそうしてくださるのでしょうか。
マイロ様は眉を顰められました。
「なぜ参列が許されない? アンジェリカは俺の妻だ。ウェストガルド家の娘ではあるが、今は俺の国の王妃として参った。それをあなた方がどうこう命令する筋合いはあるまい。彼女は俺と参列する」
不穏な空気が、濃くなったように思いました。
ノースお兄様はマイロ様を睨み付けていました。
「こんな彼女を人前に引っ張り出して、可哀想だと思わないのか?」
「可哀想だと?」
マイロ様は、苛立っておられるようでした。不快さを隠すこともなく、ノースお兄様に言います。
「俺の妻は可哀想か? ……失礼ながら、彼女を可哀想にしていたのは、この国とウェストガルド家ではないのか。確かに初対面の時、彼女を哀れだと思った。まるで殺される覚悟を決めてやってきたような表情をしていたよ。きっと祖国でそういう風な扱いを受けていたのだろうと思ったよ。だから夫となる俺が、幸せにしようと思った。俺は妻を誇りに思っている。素直で可愛らしく真心のある、どこに出しても自慢の妻だ」
マイロ様の言葉だけで、天に昇ってしまいそうでした。なんて温かで、優しい言葉なのでしょう。こんなに大切に思っていただけていたなんて、きっとノースお兄様も安心したことでしょう。
そう思ったのですが、ノースお兄様の厳しい表情に、少しも変化はございません。
「ウェストガルドが支配するこの国で、我々を蔑むことが、どういう意味を持つのかまさか分からないのではあるまいな」
「それが正当な主張であれば、俺は時と場合など選ばない」
じりじりと、近衛兵達が近づくのが目の端に映りました。魔法陣が光ったのさえ見えます。彼らはマイロ様を傷つけることに、少しの躊躇もないでしょう。
「構いませんマイロ様!」慌ててわたくしは言いました。「わたくし、式中、隠れております!」
「俺は君の側を離れないと誓ったんだ。いさせてくれ」
「お願いです。これ以上、騒ぎを大きくしたくないのです」
このままでは、マイロ様に危害が及ぶかもしれません。たとえご自分の意思でなかったとしても、他国の領地を奪ったマイロ様です。この国でも、恐れられておりました。
ですからこの場は、ノースお兄様やジュリエッタお姉様に従うのが、一番正しい選択のように思えたのです。
マイロ様は、まるで苦渋の決断を迫られた時のように顔を歪められておりましたが、最後には頷きます。
わたくしはノースお兄様に車椅子を押されながら、広間を後にしました。
「成り上がりの偽王め」誰かが発した、侮蔑混じりの声がしました。
結局、式の間、わたくしはノースお兄様のお部屋で待っておりました。もっとも、お兄様は葬儀に出席されていたのでご不在です。
たった一人で待つ間、部屋を好きに使って良いと言われておりました。宮廷魔法使いをされているノースお兄様です。お部屋の中には、魔法の研究に使うのでしょう、本や鉱石、植物が置かれていました。窓辺には鳥かごがあり、しかし中には何も入っておりません。
机の上に置かれた本が目に入りました。魔導書でした。
ぱらぱらと、ページをめくりました。
人に魔法をかけて操ることがどうの、というページが開かれました。魔法を使える方はそんなことまでできるのかと、興味を惹かれて読みましたが、人の意思は強いため、操ることはできないと結論づけられておりました。動物であれば可能なようですが、それもかなり高度な術だということです。
他にも、たくさんの魔法が載っていました。人を攻撃する魔法、人に魔法を蓄える魔法、奪う魔法、癒やす魔法、薬草のことも、多く書かれていました。
挿絵や図があって、分からない単語があっても理解はできます。
そうして夜まで時を過ごしていると、廊下に人の気配がして、ほどなくして扉が開かれました。
ノースお兄様が、式からお戻りになられたのです。わたくしを見て、優しく微笑みをくれました。
「本を、読んでいたのかい」
「はい」
ノースお兄様は、わたくしの側までやってくると、手に触れてくださいます。
「文字が、読めるのかな。私が教えようか?」
「少しだけなら……マイロ様が教えてくださいましたので」
「その本は少し難しいだろう。魔法についての本だからね」
「いいえ、とても面白いですわ」微笑みを返します。「わたくしは魔法が使えませんが、マイロ様は使えますから、何かの手助けができればと思ったのです」
ノースお兄様の表情は、なぜだか曇りました。お兄様はわたくしの隣に椅子を持ってきて腰掛けると、今度は頬に触れます。
「マイロ・カースに、非道いことをされていないかい」
慌ててわたくしは言いました。
「いいえ!」読んでいた本も勢い余って閉じます。
「マイロ様は、信じられないくらい優しくしてくださいます。知らないことをたくさんたくさん教えてくださいます。初めてのことばかりで、わたくし、毎日、とっても幸福なのですわ」
マイロ様といると、生まれて初めて得る安らぎと、心地の良い心臓のドキドキを感じました。これが恋なのだと、気がついたのはつい最近です。
ノースお兄様は、マイロ様に会う前に、マイロ様のことを恐ろしい方だと誤解していたわたくしに慰めをくださったのです。きっとまだ彼を怖い人だと思っているのでしょう。
「わたくし、婚前にマイロ様のことをよく知らないのに恐れていたことを恥じますわ。ノースお兄様にも、彼を知っていただければ――」
広間での不穏な空気も、マイロ様を知ればなくなるはずです。
ですがノースお兄様はわたくしの言葉を遮りました。
「あの男は君に触れた?」
「い、いいえ――」
じっと見つめる視線が恐ろしくて、わたくしは目を逸らしました。どうしてそんなことを、ノースお兄様は尋ねるのでしょう。混乱して、顔を背けました。
「本当に、体を許していないんだね?」
「は、はい」
「良かった――」お兄様は言います。
「私はあの男に君をやるのを、叔父上に反対したんだ。だが彼は聞き入れなかった。だが間に合って良かった」
背けた顔は、ノースお兄様の手により再び上げ直されます。唇に、唇が触れたことが分かりました。それは、いわゆるキスでした。
わたくしの皮膚に鳥肌が立ちます。キスをしているのが、とても長い時間のように思えました。どうしてこんなことをされているのか分からず、怖くて涙が滲みました。体を離したくて、両手でお兄様の体を押しました。
勢い余って、わたくしは車椅子ごと床に落ちます。
部屋の入り口から、ひ、と悲鳴が聞こえたのはその時でした。
「なにを、なにをしているのノース!」
ジュリエッタお姉様が、わたくしとノースお兄様を交互に見て、顔面を蒼白にしておられました。
見たこともない冷たい表情をしたノースお兄様は、ジュリエッタお姉様に言います。
「私はアンジェリカを愛しているんだ」
言葉の意味が分かりません。わたくしは混乱していました。それはジュリエッタお姉様も同じだったようで、血相を変えて叫びました。
「何を言っているの! その子はマイロ・カースの妻なのよ!」
ジュリエッタお姉様は震えながら言います。
「あなたがアンジェリカを見る目は、昔から普通じゃなかった! だからわたしは、アンジェリカが嫌いだったのよ! あなたが盗られるんじゃないかって……!」
ノースお兄様は、いつものような完璧な笑みで微笑まれました。
「ジュリエッタ、叔父上の死でまだ動揺しているんだね。可哀想に、近衛兵達、彼女を部屋にお連れしろ」
未だ喚くジュリエッタお姉様は、ノースお兄様の兵士達によって連れて行かれます。それを満足そうに見届けた後に、ノースお兄様はわたくしに笑いかけました。
「さあ、今日はここで眠ればいい。ここが君の家で、君の国だ。これからずっとここにいればいいんだ」
優しいはずのノースお兄様の微笑みは、しかしわたくしを凍り付かせました。
愚者のような質問しかできません。
「あの……マイロ様はどうされているのでしょうか」
式が終わったなら、きっと一番始めに会いに来てくれるだろうと思っていたのです。
ノースお兄様は、わたくしの体をご自分のベッドまで運び、横たえながら言いました。
「彼は国に帰ったよ。やはりジュリエッタを娶ると言っていた。彼女もいずれ彼の国へ渡るだろう」
「う、嘘……」
そんなはずはございません。たとえ数ヶ月であったにせよ、たとえキスさえしなかったにせよ、わたくしとマイロ様は、本当に夫婦だったのです。絆がございます。それを一方的に反故にされるはずがございません。
けれどノースお兄様が嘘をおっしゃる理由も分かりませんでした。
わたくしの髪を撫でながら、ノースお兄様は言います。
「大丈夫、君はここにいればいいんだから。夜ごと髪を梳き、一緒に眠ろう。朝になったら、服を着せてあげるよ。日中、君は好きなことをすればいい。人前に出る必要はない。君は永遠に、私の側にいてくれれば、それでいいんだ」
ご自分もわたくしの隣に体を横たえながら、ノースお兄様はおっしゃいます。
「私はね、君を取り戻すために王になったんだ」
そうして、耳を疑うような言葉が聞こえました。
「君が好きだ。王妃に迎え入れたい」
わたくしはマイロ様の妻なので、他の方の妻にはなれません。そう言っても、マイロ様は国に帰られ、ジュリエッタお姉様を新たな王妃に迎えられるとだけ、ノースお兄様はお答えになりました。
数週間が、経ちました。
わたくしは、ノースお兄様のお部屋から、ほとんど外に出ておりません。
ノースお兄様がおっしゃっていることは本当なのかもしれません。だってお城の中に、マイロ様とジュリエッタお姉様のお姿はありませんでした。
わたくしは、マイロ様に捨てられたのでしょうか。
一緒に猟に行かなかったから?
文字が読めなかったから?
好きな料理を答えられなかったから?
笑うのがへたくそだからでしょうか?
それとも、ウェストガルド家の姫なのに、魔法が使えないからでしょうか。それとも、それとも――やはりわたくしが醜い姫だからでしょうか。
だけどマイロ様、わたくしは文字が読めるようになりました。愛想笑いも、ずっとずっと上手くなりました。愛想笑いでない笑いは、まだあなたの隣でないと上手くできません。
マイロ様、わたくし、ノースお兄様と結婚したのでしょうか。ノースお兄様はそうだと言います。式もないから分かりません。ノースお兄様は、わたくしに何もしなくていいとおっしゃいます。外交もしなくていいし、本も読んであげるからと、隠されてしまいました。着替えも、お風呂も、食事も、なにもかも、わたくし一人ですることは許されません。
ねえマイロ様。わたくし、おかしくなってしまったのでしょうか。
ノースお兄様はわたくしに何でもしてくださいます。優しいです。でも、ノースお兄様といても、考えるのはマイロ様のことばかりなのです。なのに別れの言葉もなく一人で帰ってしまうなんて、あんまりではございませんか。
マイロ様、お元気にされておりますか。
劇場で、怒ってはいないですか。マイロ様はジュリエッタお姉様になら、戸惑いなくキスをされるのでしょうか。
外に出ないので、ニュースを知ることができません。マイロ様が読み終わった後の新聞を読むこともできません。ノースお兄様は、わたくしは何も心配しなくていいと言ってくださって、新聞を読むことを禁じております。ジュリエッタお姉様との式は、きっと豪華なものだったのでしょう? それさえも、知ることができません。
ねえマイロ様。
あなたの優しさが愛でなく、同情だったのだとしても、わたくし、あなたをお慕い申し上げております。今だって、心の中心に、あなただけがいます。それだけは、どうかお許しください――。
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