後宮の代筆女官は恋を騙る

春乃ヨイ

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第1章

3. 木香殿の情報通

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(あの男、本当に腹が立つ······!)

 怒りに任せ、木香殿へと続く回廊を紫燕は荒々しく踏みしめていた。

 紫燕だって何も、昔から吝嗇ケチだった訳ではないのだ。
 むしろ、かつての彼女は世間知らずのお嬢さんですらあった。

 紫燕の父はこの烏桃国うとうこくでもそれなりに高名な学者で、都・桃安とうあんで貴族の師弟に学問を教える私塾を開いていた。柳下書院りゅうかしょいんと名付けられたその塾では、多い時には八十人ほどの生徒が寝食を共にしており、一人娘の紫燕は自分よりも年上の少年たちに囲まれて育った。

 白壁と蓮池に囲まれた学び舎は都の喧噪から離れ、いかにも学者然とした洞主どうしゅ[書院の教授]の纏う空気も相まって、浮世を離れた仙郷のような清廉さを湛えていたことを覚えている。

 しかし、華々しい時代も長くは続かなかった。紫燕の父は確かに優れた学者だったが、優れた経営者ではなかったからだ。半ば騙し取られるようにして書院の権利書を手放さざるを得なくなり、紫燕の生家は他の人間の手へと渡ってしまった。
 そんなことがあっても父は恨み事の一つも口にはせず、昨年、流行り病に罹って呆気なく帰らぬ人になってしまった。

 父のことは尊敬している。学問は究めるべき目標であり、決して手段ではないのだという教えも。
 それでも、自分たちはあまりにも世の中を知らなさ過ぎた。
 あまりにも人の悪意に鈍感すぎた。

 碧玉年の十六歳を迎えたばかりの紫燕がすっかり世間擦れしてしまっていたとしても、彼女のせいとばかりは言えないだろう。染みついてしまった貧乏性は今更どうにもできない。

「紫燕!」

 しかめっ面を浮かべながら歩く紫燕の前方で、同じ年のほどの少女が手を振っているのが見えた。常に周囲の人間から一歩引いた立場を保っている紫燕に親し気に話し掛けてくるのは、今では一人しかいない。
 同じ木香殿に属している宮女の鈴花りんかだ。桃色の襦裙じゅくんの裾を風に揺らしながらこちらへと駆けて来た鈴花は、すぐに興奮したように口を開いた。

「ねえ、大変なのよ! 蘭妃様に不義密通の疑いがかけられてるって! 相手は詠閔様だって、もう後宮中の噂よ」

 今頃騒ぎになっているという文瑜の言葉は嘘ではなかったようだ。ぱっとしない後宮生活の中、宮中で起きる事件の収集だけを日々の楽しみにしている鈴花は流石に耳が早い。

「お二人ともお綺麗だから、お似合いだなんて思ってしまうけれど」
「蘭妃様には陛下がいらっしゃるでしょう」

 胸の前で両手を組みながら夢見心地なことを言う鈴花をそうたしなめると、彼女はすぐに不満げに口を尖らせた。

「だって皇帝陛下って見たことないんだもん」

 昨年即位したばかりの新帝は生まれつき病弱だとかで、ほとんど後宮に渡ってくることはない。政務に顔を出すことも稀で、そのほとんどを大臣たちが仕切っているという。結果的に、皇帝の側近が主にも近い権力を握るようになっているのがこの国の現状だ。

(御史大夫もそうよね。皇帝の手足となって宮中に目を光らせる仕事なんだから)

 後宮内の揉め事は、基本的には宦官たちが所属する内侍省ないじしょうの管轄である。外朝の御史台が出張ってきているのは、皇帝の代理としての立場故なのだろうか。

 紫燕が忌々しい顔を思い浮かべていると、ぽつりと鈴花が寂し気に呟いた。

「可哀想だな。蘭妃様って良い方だったから。自分も元は宮女だったからって、私達にまで優しくしてくれてさ。酷いことにならなければ良いけど」

 そうだ、今は蘭妃にかけられた冤罪を晴らさなければ。

 文瑜に押し付けられた仕事は、要は文に書き足されたあの三文字が梅妃の手によるものであるという証拠を見つけさえすれば良いのだ。流石に、その後のことは御史台に任せたい。

「ねえ、鈴花。前に詠閔様に文を出したことがあったわよね」
「うん。紫燕に頼んで書いてもらったやつ」

 恋多き乙女でもある鈴花は、これまでに何度か紫燕に恋文の代筆を頼んできたことがあった。紫燕としても、彼女の広告塔としての役割を大いに期待して依頼を受けていたのだが。

「返事が来たって言ってなかった?」
「そうだよ。断られちゃったけど、一応ね。そういうまめなところが素敵なの」
「それ、まだ持ってたりする?」

 期待を込めて尋ねた紫燕に応えるように、鈴花は誇らしげにもちろん、と頷いた。

「見たい? 今持って来るね!」

 こちらが口を開く前に、意気揚々と自分の房室に走っていった鈴花の背中を追いかけ、紫燕は早速墨を磨る必要があるなと考えていた。
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