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小学生編

実りの秋 34 

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「潤くん、いっくんはもう寝た?」
「あぁ」
「じゃあ私達も明日に備えて眠りましょう」
「そうだな。菫さんはこっち側で寝るといい」

 いっくんの横に大きくスペースを空けてやると、菫さんが怪訝な顔を浮かべた。
 
「でも、それじゃ潤くんが狭すぎるわ」
「大丈夫だよ。俺は丈夫に出来ているし」
「……頼もしいけど無理だけはしないでね」
「分かっているって」
 
 狭い6畳のアパートに薄い布団を二枚並べて、そこに三人で眠る。

 オレの大きな身体には確かに少々手狭だが、贅沢は言えない。

 何よりお腹に赤ん坊を宿す菫さんに、ゆっくり休んで欲しいから。

 大切にしたいんだ。

 俺の手で守りたい。

 菫さんが安心して出産できるように、大きな大きな傘になりたいんだ。

「菫さん、やっぱりもう少し広い部屋に引っ越そう! オレの貯金だってあるんだし」
「……潤くんが頑張って貯めたお金を使うのは申し訳ないと思っていたけど、潤くんが身体を伸ばして眠れる場所を確保したくなったわ」
「俺のことはいいのに。それにオレの貯金は家族のために使うものだ」

 菫さんは優しい人だ。

 常に相手のことを考えて、労ってくれる。

「ありがとう。ついひとりの癖が抜けなくて……頼もしいね。潤くん、手をつないで」
「いいのか。お腹に負担にならないか」
「くすっ、手だけだから、大丈夫よ」
「そ、そうだよな。ありがとう」
 
 菫さんの女性らしい細い手をそっと宝物のように握って、目を閉じた。

 今日は兄さんとのいい思い出が蘇って幸せだったな。

 もっともっと思い出したい。

 嫌な記憶で塗り潰して、今まで思い出すこともなかった子供の頃のこと。

 いっくんと一緒に辿れば怖くない。

 兄さんから受けた優しさを思い出したいよ。
 




 明け方、微かな呻き声でハッと目が覚めた。

 嫌な予感がした。

 すぐに菫さんの様子を確認すると……

「ううう……うっ……」

 菫さんがお腹に手をあてて、真っ青な顔をしている。

「ど、どうした?」
「潤くん……どうしよう……さっきから……すごくお腹が痛くて……」
「何か悪い物でも食べたのか」
「ううん……そういうのじゃなくて……出血はしてないんだけど……あっ……うう」

 オレは真っ青になった。

 どうしよう! どうしたらいいんだ?
 こういう時はどう動けばいい?

「きゅ、救急車を呼ぶか」
「そんなの……大袈裟よ……いっくんが驚いちゃう」
「そんなこと言っている場合か」
「いっくんの運動会なの。すごく楽しみにしていたのに……たぶん……ちょっと休めば大丈夫」

 菫さんはオレとは逆を向き、痛みを堪えるように身体を折り曲げた。

 痛みは増すばかり。

 このままでは、まずい。

 なのに咄嗟の判断が出来なくて……

 そうだ! 

 オレは急いで携帯を取りに行った。

 兄さんしかいない。こんな時に頼れるのは……

 冷静な判断をして欲しい。

 まだ5時台だ。芽生坊の運動会で疲れているから眠っているはずだ。

 だが頼らせて欲しい。

 思い切ってかけると、兄さんは4コール目で出てくれた。 

「もしもし、兄さん!」
「潤、どうした? 何があった?」

 兄さんも真剣な声だ。こんな時間に電話をしたから、何かを察し警戒しているようだった。

「菫さんがずっとお腹が痛いって」
「え?」
「どうしよう? オレ……全然わからない」
「僕だって……あっ……潤、宗吾さんに聞いてみよう」
 
 すぐに宗吾さんが出てくれた。一緒に起してしまったようだ。

 あぁそうか、宗吾さんなら今のオレの立場を知っているのか。
 
「潤、まずは落ち着けよ。菫さんは……出血してないか」
「あ……さっきしてないって……」
「そうか、だが何かあってからでは遅い。早く救急車を呼べ!」
「あ、でも、いっくんが……」
「一緒に連れていけ。あとは俺たちに任せろ」
「……すみません」
「病院が決まったら教えてくれ」
「分かりました」

 再び兄さんが出る。

「潤、大丈夫だよ。大丈夫だから信じて! その子の生命力は強い! 潤の子なんだ」
「兄さん、ありがとう」

 まるで自分のことのように心配してくれる兄さんと宗吾さんの存在が心強かった。

「潤はひとりじゃない! とにかく救急車を」

 その後すぐに救急車を呼び、まだ眠っているいっくんを抱っこして同乗した。

「菫さん、お腹の赤ちゃんが無事か……病院で診てもらえるって」
「うん……うん……ごめんね。こんな日に迷惑をかけて」
「何言っているんだ。オレたちをみんなが支えてくれる。甘えよう、皆に。支え合おう、皆で」
  
  以前なら欠片も思っていなかったことだ。

 甘えたり、支え合うなんて……都合のいい世界の話だと。

 菫さんが担架で運ばれ診察を受けている間、不安で押し潰されそうだった。

 このまま赤ん坊が流産してしまうかも。

 妊娠初期の流産の可能性は高いことは知っていた。

 それが、まさか自分に降りかかってくるとは……

 いや、弱気になるな。

 兄さんの言葉を思い出せ。

 病院名を兄さんの携帯に送り、それからいっくんを抱きしめて、大丈夫、大丈夫と唱え続けた。

 幼い温もりに縋った。

 やがて……いっくんがもぞもぞと動き目を覚ます。

 「う……ん、パパぁ、ここ……どこぉ?」

 いっくんの澄んだ瞳に、嘘はつけない。だがどう答えていいのか分からない。

 するといっくんの方から……

「ここって、びょういんでしょ?」

 知っているのか。
 
「あぁ」
「ママぁ、だいじょうぶ? また、きゅーきゅーしゃにのったの?」
「以前もあったのか」
「パパいないころ……いちどだけ。こしがいたくてうごけなかったの。だから、いっくん、うんどうかい、いかない。がまんする」
「そんな……」
 
  なんてことだ! 胸が潰れるようだ。

   なんとかしてやりたい。なんとか……

「葉山菫さんの旦那さんですか」
「あ、はい!」

 そこに看護師さんが呼びに来て、中で説明をと言われた。

 覚悟しよう。

 最悪のパターンも考えて。













 思い空気を漂わせ処置室に入ると、先生がエコーを見せてくれた。

「あぁ旦那さん、大丈夫ですよ。ほら、しっかり心臓が動いています」
「えっ……」

 両目から涙がゴボッと溢れた。菫さんも泣いていた。

「潤くん……良かったぁ……赤ちゃん、無事だった」
「お腹は?」
「もう痛くないの」
「良かった。本当に良かった」
「ママぁ……だいじょうぶ?」
「いっくん、びっくりさせてごめんね」
「ううん、ママ、よかったぁ」

 いっくんも小さな目に涙をためて、菫さんの手に頬をのせていた。

  その後、あらゆる検査をしたが問題は見当たらず、おそらく子宮が大きくなる際に起こりやすい痛みの一つと結論づけられた。

 赤ちゃんの成長と共に、子宮は大きく重くなる。

 その子宮を支えている靭帯が引き伸ばされて痛みを感じるそうだ。体をひねる動きをした際に左右のどちらか片側にピリッとした引きつる痛みを感じる人が多いらしい。暫く安静にして様子をみて、日常生活に戻っていいそうだ。

 菫さんの場合、その痛みが強かったようだ。

 狭い布団が悪かったのかもしれないな。

 とにかく良かった。

 オレはいっくんを抱きしめたまま、壁にもたれ脱力した。

 全ての検査が終わった時には、すっかり朝日がのぼり、時計を見ると9時になっていた……運動会は10時からだ。

「葉山さん今日は大変でしたね。奥さんは今日だけはくれぐれも安静にして下さいね」
「分かりました」

 残念だが……今日の運動会は諦めた方がいいのか。

「パパぁ……いっくん、いいよ。パパがいればいいんだ。うんどうかいなんて、いかないもん」
「いっくん……」

 だが……幼いいっくんの強がりが泣けてしまう。

 子供らしく駄々を捏ねていいところなのに。

 


 そこに風が吹く。

 爽やかな風が吹く。

 優しいそよ風のような人が、息を切らして現れた。

 手には大荷物。

 花のような香りを、優しく振りまいていた。


 

 

  
 
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