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第四章 京都1992
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健次と栞が別れた。その事実だけが私のもとに残った。
健次は酷く落ち込み、部活どころではなかった。
私は思っていたよりもずっと落ち着いていた。いや、落ち着きすぎていた。
栞が引っ越すのは悲しいし、健次と別れたのはショックだった。でもそれだけだ。ただ……。酷い自己嫌悪には苛まれたけれど……。
正直な気持ち、健次と栞が別れたのが私は嬉しかった。悲しみを超えるほど嬉しかった。
きっと私はずっと願っていたのだ。健次と栞が別れることを待ち望んでいたのだ。
だからこそ私は自分が酷く憎らしく思えた。酷い女だと思った。
『他人の不幸がこんなに嬉しいと感じるウチは最低な人間だ』
そう考えながらも感情はそれとは真逆に動いていた。
私はいつからこんなに最低な人間になってしまったのだろう?
そんな風に自分を責めても、その『嬉しさ』だけは消えてはくれなかった。
私は自信の中にある『欲望』に心底嫌気が差す。
こんな醜い『欲望』なんてなければいいのに……。そう思った。
数日後。私は栞にお別れを言うために彼女の家を訪ねた。
拙いながら手紙も書いたし、きちんとお別れしたい。
「あら。いらっしゃい」
本子さんはいつもと変わらない調子でドアから顔を覗かせた。
「おばさん。こんにちは! 栞おる?」
私がそう聞くと本子さんは困った顔をした。
「ごめんね……。栞は先に東京に行ったのよ」
「へ? そうなん?」
「とにかく上がってちょうだい! 栞から預かってるものがあるの!」
川村家のリビングは引っ越しに追われているのか、かなり散らかっていた。
本棚は空になり、収められていた書籍はヒモで結ばれていた。
「ごめんね。私も月子ちゃんにはちゃんと挨拶しないさいって言ったんだけど……」
そう言うと本子さんはオレンジジュースをクッキーを出してくれた。
「いえ……。栞の気持ちは分かる気がするから……」
「そう……。ほら、あの子って内気でしょ? 月子ちゃんが友達になってくれるまでこっちで仲いい子いなかったみたいだし。栞はいつも月子ちゃんの話をしてたのよ。だから私はあなたにはすごく感謝してる。本当にありがとうね」
雑然としたリビングは死にかけている蝉のように見えた。
まだ辛うじて命の灯が灯っているだけの。そんな蝉のように。
「こっちこそ栞にはほんまに仲良くしてもらいました。あの子がいなくなってほんまに寂しくなります……」
「そうよね……。あ、そうそう。これを頼まれての!」
本子さんは大きな封筒を取り出した。
「これは?」
「なんか新作の小説らしいのよ。ここ一ヶ月ぐらいあの子必死に書いてたからそれだと思うわ」
おそらく『アルテミスデザイア』だろう。
「ありがとうございます……。あの……。これ栞に渡しておいて貰えますか?」
私は本子さんから封筒を受け取ると代わりに自身の手紙を彼女に預けた。
「ありがとう。向こうで落ち着いたら返事出すように栞には言っておくわ……」
「はい、お願いします」
それだけ話すと私は栞の家を後にした――。
家に帰ると私は栞からの荷物を開いた。封筒にの中には二○○枚くらいの原稿用紙が入っている。
原稿用紙の一番上には『アルテミスデザイア』と書かれ、その下に小さく『鴨川月子に捧ぐ』と書かれていた。
それから私はその物語の世界にゆっくりと足を踏み入れた……。
素人の私が読んでもその物語はとても情緒的だった。
主人公『月華』の視点でストーリーが進み、幼なじみのギタリスト、敏腕ベーシスト、癖の強いドラマーと協力しながら夢を叶えるために奔走する……。という物語だった。
私をモデルにしたという割に『月華』の性格は理想的な主人公だと思えた。
才能があり、一生懸命で……。でも人として不器用な面もきちんとある。
気が付くと私は『月華』に感情移入いしていた。
彼女を応援するというより、私が彼女自身であるような気持ちになっていた。
気が付くと物語を一気に読み切っていた。二○○ページもあるのに休むことなく……。
『アルテミスデザイア』を読み終えると、私はしばらく放心状態だった。
まるで『月華』の人生を一気に走り抜けたような気分だ。
別れの言葉こそ交わさなかったけれど、この物語が栞の気持ちそのものだと思えた。
口から出た言葉以上に。
私はまた栞に会えるのだろうか? そんなことを考えていた。
彼女の描いた物語のように生きられるだろうか? そんな風に考えていた。
『アルテミスデザイア』が文芸賞を受賞したと知ったのはそれからしばらく後のことだ。
私たちがもう少し大人になって。もう少しだけ割り切れるようになってからの――。
健次は酷く落ち込み、部活どころではなかった。
私は思っていたよりもずっと落ち着いていた。いや、落ち着きすぎていた。
栞が引っ越すのは悲しいし、健次と別れたのはショックだった。でもそれだけだ。ただ……。酷い自己嫌悪には苛まれたけれど……。
正直な気持ち、健次と栞が別れたのが私は嬉しかった。悲しみを超えるほど嬉しかった。
きっと私はずっと願っていたのだ。健次と栞が別れることを待ち望んでいたのだ。
だからこそ私は自分が酷く憎らしく思えた。酷い女だと思った。
『他人の不幸がこんなに嬉しいと感じるウチは最低な人間だ』
そう考えながらも感情はそれとは真逆に動いていた。
私はいつからこんなに最低な人間になってしまったのだろう?
そんな風に自分を責めても、その『嬉しさ』だけは消えてはくれなかった。
私は自信の中にある『欲望』に心底嫌気が差す。
こんな醜い『欲望』なんてなければいいのに……。そう思った。
数日後。私は栞にお別れを言うために彼女の家を訪ねた。
拙いながら手紙も書いたし、きちんとお別れしたい。
「あら。いらっしゃい」
本子さんはいつもと変わらない調子でドアから顔を覗かせた。
「おばさん。こんにちは! 栞おる?」
私がそう聞くと本子さんは困った顔をした。
「ごめんね……。栞は先に東京に行ったのよ」
「へ? そうなん?」
「とにかく上がってちょうだい! 栞から預かってるものがあるの!」
川村家のリビングは引っ越しに追われているのか、かなり散らかっていた。
本棚は空になり、収められていた書籍はヒモで結ばれていた。
「ごめんね。私も月子ちゃんにはちゃんと挨拶しないさいって言ったんだけど……」
そう言うと本子さんはオレンジジュースをクッキーを出してくれた。
「いえ……。栞の気持ちは分かる気がするから……」
「そう……。ほら、あの子って内気でしょ? 月子ちゃんが友達になってくれるまでこっちで仲いい子いなかったみたいだし。栞はいつも月子ちゃんの話をしてたのよ。だから私はあなたにはすごく感謝してる。本当にありがとうね」
雑然としたリビングは死にかけている蝉のように見えた。
まだ辛うじて命の灯が灯っているだけの。そんな蝉のように。
「こっちこそ栞にはほんまに仲良くしてもらいました。あの子がいなくなってほんまに寂しくなります……」
「そうよね……。あ、そうそう。これを頼まれての!」
本子さんは大きな封筒を取り出した。
「これは?」
「なんか新作の小説らしいのよ。ここ一ヶ月ぐらいあの子必死に書いてたからそれだと思うわ」
おそらく『アルテミスデザイア』だろう。
「ありがとうございます……。あの……。これ栞に渡しておいて貰えますか?」
私は本子さんから封筒を受け取ると代わりに自身の手紙を彼女に預けた。
「ありがとう。向こうで落ち着いたら返事出すように栞には言っておくわ……」
「はい、お願いします」
それだけ話すと私は栞の家を後にした――。
家に帰ると私は栞からの荷物を開いた。封筒にの中には二○○枚くらいの原稿用紙が入っている。
原稿用紙の一番上には『アルテミスデザイア』と書かれ、その下に小さく『鴨川月子に捧ぐ』と書かれていた。
それから私はその物語の世界にゆっくりと足を踏み入れた……。
素人の私が読んでもその物語はとても情緒的だった。
主人公『月華』の視点でストーリーが進み、幼なじみのギタリスト、敏腕ベーシスト、癖の強いドラマーと協力しながら夢を叶えるために奔走する……。という物語だった。
私をモデルにしたという割に『月華』の性格は理想的な主人公だと思えた。
才能があり、一生懸命で……。でも人として不器用な面もきちんとある。
気が付くと私は『月華』に感情移入いしていた。
彼女を応援するというより、私が彼女自身であるような気持ちになっていた。
気が付くと物語を一気に読み切っていた。二○○ページもあるのに休むことなく……。
『アルテミスデザイア』を読み終えると、私はしばらく放心状態だった。
まるで『月華』の人生を一気に走り抜けたような気分だ。
別れの言葉こそ交わさなかったけれど、この物語が栞の気持ちそのものだと思えた。
口から出た言葉以上に。
私はまた栞に会えるのだろうか? そんなことを考えていた。
彼女の描いた物語のように生きられるだろうか? そんな風に考えていた。
『アルテミスデザイア』が文芸賞を受賞したと知ったのはそれからしばらく後のことだ。
私たちがもう少し大人になって。もう少しだけ割り切れるようになってからの――。
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