月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第四章 月の墓標

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 透子さんはバッグを漁ると中から名刺入れを取りだした。そしてそこから二枚抜き取って私に差し出す。
「これは……」
「そこに書かれてるのが私の本職だよ。……一応二つともね」
 私は受け取った名刺をまじまじと眺めた。一枚には『株式会社麻葉興産 取締役 浦井透子』。もう一枚には『株式会社浦井製薬研究所 専務取締役 浦井透子』と書かれている。浦井製薬……。たしかこの製薬会社は麻葉興産の系列だったと思う。
「まぁ名ばかり役員よ。ほとんど会社に顔なんか出さないもん。たまーに口座に役員報酬振り込まれたり、役員会にお呼ばれするだけ。……要は腰掛けみたいなもんだね」
 透子さんはそこまで話すと深いため息を吐いた。
「もしかして……。透子さんの名字の浦井って麻葉興産創業者の浦井源治郎の浦井……。なんですか?」
「そうそう。源治郎ってのはウチの先々代だね。ちなみに今の会長は私のおじいさまがやってるよ。んで! 私の父親が現社長ってわけ」
 透子さんはそう言ってから「別に隠してたわけじゃないんだ。ただ……。言うタイミングがさ」と弁明するみたいに続けた。でもそれは明らかに嘘だと思う。その証拠に私は惣介からも京介からもそんな話は聞いたことがないのだ。だからおそらく透子さんは意図的に息子たちにそのことを口止めしていたのだろう。
「そうですか」
「うん。ま! ともかくだよ! このコネ使って今回はみーくんの治療しちゃおうと思ってさ。あ! 海月ちゃん気にしないでね。ウチのおじいさま、遠藤のおじさまたちなら喜んでやらせて欲しいっていってたからさ」
 透子さんはそう言うと再び海月さんの手を優しく握った。こんなに綺麗な虎の威を借る狐を見たのは初めてかも知れない――。

 転院の話が一段落すると海月さんは深々と頭を下げて帰って行った。私と透子さんはそんな彼女はJR新宿駅の改札から見送った。心なしか海月さんの表情はニンヒアに来たときより幾分明るくなったように感じる。
「さてと……。じゃあ今度は陽子ちゃんの方もどうにかしなきゃだね」
「え?」
 私は透子さんが言っている意味が分からなかった。私の方っていったい何の話だろうか?
「アレでしょ? 海月ちゃんの娘さんに陽子ちゃん用事あるんでしょ? たぶんだけど今回の転院の流れで娘さんもこっち来ると思うからさ。だからそのときにでも彼女と話したら良いよ。まぁ、惣介から聞いた話だと……。ちょっとやっかいかもだけどねぇ」
 透子さんはまるで何かを知っているような口ぶりで言うと大きく背伸びをした。どうやらこの人は何もかもお見通しだったらしい。

 それから私はニンヒアに戻って事のあらましを西浦さんと京極さんとジュンくんに話した。西浦さんも最初こそ考え込んでいたけれど、最後には「とりあえず遠藤さんたちが東京に来てから考えましょう」と納得してくれた。西浦さん的には当然の反応だと思う。
「んで? ウチらはこれからどうしたらいいかな?」
 私の説明が終わると京極さんにそう聞かれた。
「そうね……。たぶん近日中には遠藤さん転院されると思うからそれまではバンド内のことに集中して貰っていいよ。あなたたちだってツアー近いしね」
「そっか。了解……。じゃあジュン。一旦スタジオにメンバー集めて練習しようか?」
 京極さんはそう言うとスマホを取り出してすぐに他のバンドメンバー二人にLINEを送った。この子もやるとなったら行動が早いのだ。
「じゃあ陽子さん。何かあったら連絡ちょうだい。初台のスタジオにいっからさ」
 京極さんはそう言うと軽くため息を吐いた――。

「ただいまー」
 仕事を終えた私は寄り道せずに自宅に戻った。珍しく早い時間の帰宅だ。
「おかえりなさい。今日は早いね」
「まあね……。今日透子さんに会ったよ」
「ん? ああ、本人から聞いたよ。……陽子。ウチの母方の家のこと聞いたんだって?」
 京介はそう言うとばつが悪そうな苦笑いを浮かべた。
「うん。聞いた聞いた! 得体が知れないと思ってたけどまさか麻葉興産の親族だとは思わなかったよ」
「……ごめんね。本当は陽子には言っといた方が良かったんだけどさ」
「まぁいいよ。別に気にしてないからさ。つーか……。私も同じ立場だったら言えなそうだしね」
 そうなのだ。もし私が大企業の社長令嬢だったとしても気軽にそのことを吹聴しないと思う。特に麻葉興産ともなればその規模は尋常ではないのだ。そう考えると京介の気持ちも十二分に理解できる気がする。
「それよりもだよ! 別件で厄介ごとあってね……」
「別件?」
「いや、別件って言っても繋がりはあるんだけどさ。ねぇ? 惣介って今からウチ来れないかな?」
 私がそう言うと京介は不思議そうな顔をした。そりゃそうだ。京介は知らないのだ。惣介がこの前持ってきた例の写真を。
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