月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第三章 月不知のセレネー

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 店内にはジャズが流れていた。アルトサックスの音が心地良い。この店は音楽選びのセンスがピカイチなのだ。西浦さんが常連になるのも分かる気がする。
 ふと窓に目を遣る。そこには雨の水滴で細かい筋ができていた。どうやら降り始めたらしい。
「降ってきちゃいましたね」
 私は独り言のように呟いた。西浦さんは窓辺に視線を向けると「そうね」とだけ返した。そしてタバコをもみ消すと「ジュンくん。冬木さんとはどう? 仲良くやってる?」と急に話題を変えた。
「ええ、おかげさまで仲良くお仕事させて貰ってます」
 ジュンくんはこれまた当たり障りのない返答をした。ここは面接会場か? 思わずそんな皮肉を言いたくなる。
「そう。なら良かったわ。冬木さんもねぇ。苦労されたから心配してたのよ。ほら、あの子の家って色々と特殊でしょ? お母様は忙しいしね……。京極さんは? 鍵山さんとはどう?」
 今度は京極さんが話を振られた。京極さんはタバコを口にくわえたまま「えーと」と言い淀む。
「まぁまぁですね。私とは畑違い過ぎて話に着いてけないとこありますがどうにかって感じです」
「フフフ、まぁ、でしょうね。あの子はクラシック専門ですもんねぇ。でも京極さんにも良い勉強になると思うわよ? 古い言い回しだけど『温故知新』って大切なのよ。ずっとパンクロックばかりだと曲調が単調になるからね」
「……そうっすねぇ。うん! そうだと思います。確かにウチらの曲調って似たり寄ったりになりがちだった……。あ、ジュンごめんね」
 京極さんは自分の言ったことに気づいたように言葉を止めるとジュンくんに謝った。そりゃそうだ。今現在の『バービナ』の楽曲の九割はジュンくんの作曲したものだし、それを否定するのはジュンくんの仕事を否定したのと同義だと思う。
「ハハハ、いいよ別に。俺も……。反省しなきゃだしね。俺としては今後は京極さんにも作曲して貰いたいかな。逆に今回の経験活かして作詞もしてみたいしね」
 ジュンくんはそんな風に大人な対応をした。フォローしといてフォローし返されるあたり実に京極さんらしいと思う。
 私はそんな彼らのやりとりを微笑ましく眺めていた。良いチーム。素直にそう思える。
 そうこうしていると雨は本降りになった。大粒の雨粒が窓ガラスの上を滝のように流れている。これじゃ本社に戻るまでにずぶ濡れだな……。そう考えると酷く憂鬱な気分になった。換えのスーツ余ってたっけ? そんな生活感丸出しの思考にもなった。まぁそんなこと悩んだって何の解決にもならないのだけれど――。

 喫茶店での休憩を終えると私たちは本社に駆け足で戻った。案の定全員ずぶ濡れ。高橋さんに至っては眼鏡が曇りに曇って目が見えないほどだ。
「あの、西浦副社長」
 ロビーで濡れた服を拭いていると不意に受付の女の子に声を掛けられた。
「はいはい。どうしたの?」
「あの、実は京北新聞社の浦井様が副社長に面会したいって来社されたんですが……」
「京北新聞? 何かしら?」
 西浦さんは心底心当たりがないみたいな反応をすると首を傾げた。でも……。私は完全にその記者に心当たりがあった。本当の本当の本当に最悪だ。
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