月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第三章 月不知のセレネー

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 それから私たちは午前中いっぱい意見のすり合わせをした。『バービナ』のツアースケジュールとクリエイター発掘プロジェクトの両立。それは思っていたよりずっと時間的制約が厳しいらしい。
「――ってことで今回はこの流れで行きましょう。基本は大阪公演の一週間前に鍵山さんにこちらに来て貰う。Bプランとして大阪公演の翌々日に私と『バービナ』サイドで甲府に行くって感じね」
 私は話し合った内容を確認するとエクセルのシートにタイムテーブルを打ち込んでそれをすぐにプリントした。
「さっすが陽子さん。この手のスケジューリングぱないよね」
「まぁ……。こんぐらいはね」
「ねぇねぇ。もし良かったらウチらの専属マネしてみない? 陽子さんがいてくれたらめっちゃ便利……。いや、めっちゃ助かると思うんだ」
 京極さんは冗談めかして言うとニッと歯を見せて笑った。綺麗で真っ白で健康的な歯が小さい口元から覗く。
「京極さん。今あなた便利って言い掛けなかった?」
「ハハハ……。気のせいだよ気のせい。それより……」
「やんないよ。これ以上仕事増やしたら私死んじゃう」
「そっかぁ。そうだよねぇ」
 京極さんはさして残念でもなさそうに言うと「うん。そうだよね」と頷いた。
「もうこんな時間ね……。高橋さんお時間大丈夫ですか?」
 西浦さんは時計に目をやると高橋さんにそう話を振った。
「大丈夫……です。今日は一日ニンヒアさんにお邪魔するって社には伝えてありますので」
「なら良かったです。どうでしょう? 一旦休憩にしませんか? ちょっとお昼には早いですが、今なら喫茶店空いてるでしょうし」
「そうですね。そうしましょうか」
 高橋さんは私の渡したプリントをしまいながらそう言うと静かに立ち上がった。どうやら今日は彼もニンヒアで一仕事あるようだ。まぁ、仕事がなかったらわざわざ私たちと打ち合わせなんかしないとは思うけれど。

 時刻は一一時半。私たちはニンヒア近くの喫茶店に向かった。レンガに蔦が絡まった古くからある建物。社長と西浦さんの密会場所。そんな店だ。
 店に入るとすぐに店員がやってきて私たちを奥の六人掛けの席に案内してくれた。私たちも店員に余計なことは何も言わない。どうやら西浦さんが来ただけでこの店の店員はどう動くか理解しているらしい。
「ふぅ……。どうにか午前中は降らなかったですね」
 西浦さんは店の窓を覗きながら言うとポケットからタバコを取り出した。続いて京極さんと高橋さんもタバコを取り出す。
「あ! 吸っても大丈夫ですか?」
 ポケットからタバコを取り出してすぐ、高橋さんは私にそんな風に確認した。私は「どうぞどうぞ」と当たり障りなく答える。まぁ確認中に京極さんはタバコに火を付け終わっていたのであまり意味がないけれど。
「それにしても今回は本当に面白い企画ですねぇ。あの鍵山海月さんの娘さんとのコラボですもんねぇ」
 高橋さんはタバコに火を付けるタイミングを逃したのか火の付いていないタバコを左手に持ったままそう言った。
 鍵山海月さん。たしか鍵山さんのお母さんだったっけ……。そんな当たり前のことを思い返した。選考書類と惣介の話から得た情報で彼女のことはある程度知っていたけれど、私が思っていたよりもずっと海月さんは有名人らしい。
「ええ、そうなんですよ。私どもとしても彼女とお仕事できてとても良かったです」
 西浦さんはそんな当たり障りのない返答をした。裏に何かある。そう勘ぐってしまうくらいにはつまらない返答だ。
「それに作詞のほうもすごいですよね。オフレコなんで社でも僕と社長以外は知らないですが冬木さんも参加するんですもんね」
「フフフ、ええ、本当にそうですね」
「こんな大きなプロジェクトをこうして弊社でプロモーションさせていただけるなんて本当に光栄です。毎度のことですがニンヒアさんには感謝しかないですねぇ」
 高橋さんは営業染みた言い方をするとようやくタバコに火を付けた。
「いえいえ、ニンヒアとしても御社にはお世話になりっぱなしですので」
 西浦さんはそんな心にもなさそうなことを言うと穏やかに笑って見せる。
 私はそんな二人の会話を聞きながら黙って横に座っていることしかできなかった。明らかに二人は腹の探り合いをしているのだ。狐と狸の化かし合い。そんなありふれた形容詞が浮かぶほどに。
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