月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第二章 フユシオン

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「あの、なんでしょうか?」
 冬木さんは不安そうな声でジュンくんに問い返した。そこには見ず知らずの男性に対する警戒の色が浮かんでいる。
「ああ、いや……。もし難しいならいいんですが……」
 ジュンくんも冬木さんの警戒心を察したのか、丁寧な言い方でそんな前置きをした。私は『これじゃ就職面接みたいじゃないか』と心の中だけでツッコミを入れる。
「実は僕、冬木さんの小説のファンでして……」
 ジュンくんはそう言うとテーブルに店に入る前に見せてくれた三冊の小説を並べた。
「ファン……。あ、ありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです」
 冬木さんはそう言うと照れ隠しのように頬を爪の先で掻いた。緊張と喜びで表情が忙しい。
「私の本まで……! ありがとうございます」
 今度は半井さんまで身を乗り出した。そして冬木さんと同じように戸惑いの表情を浮かべる。心なしか半井さんは冬木さんよりあたふたしているようだ。
「実はこうやって一緒にお仕事できるって聞いてすごく嬉しいんです」
 ジュンくんは珍しく真剣な表情でそこまで言うと「ふぅ」と小さなため息を吐いた。そして「あの、よろしければサインいただけますか?」と付け加えた。付け加えた……。というよりそれが本題なのだろう。要は『ファンなんでサイン欲しいです』って話だ。
 それからジュンくんは冬木さんと半井さん、あと川村さんからサインを貰った。
「フフフ、サインなんて何年ぶりかなぁ」
 川村さんは自身の著作に筆ペンでサインしながら嬉しそうに言った。かなり達筆で彼女が誰か知らなかったら『川村本子』とはとても読めないと思う。
「字お上手ですね」
「あら、ありがとう。これでも作家してるからねぇ。ある程度綺麗に見えるなら良かったわ」
 川村さんはそう言うとニッコリ笑った。そしてその瞬間、自分が失礼なことを言ってしまったと気づく。またやらかしてしまった。その道のプロの仕事を褒めるのは時としてかなり失礼なのだ。釈迦に『瞑想お上手ですね』と言ったのと大差ない……。それぐらいには失礼だと思う。
 しかし川村さんはそんな私の失言を額面通りの意味で受け取ってくれた。きっと人ができているのだろう。もしニンヒアの部長連中に同じようなことを言ったら『お前は何を偉そうに批評してんだ?』と袋だたきに合うと思う。まぁコレに関しては弊社の管理職たちが心が狭い気もするけれど。
 三人分のサインが終わるとジュンくんは彼女たちに深々と頭を下げた。その様子を見て私は西浦さんの意図が少しだけ分かったような気がした。おそらく京極さんではダメなのだ。こればかりは相性としか言えないけれど、高木冬木タッグの方が上手くいく気がする。
「本当に感激です! 冬木さんも半井さんも川村さんも大好きな作家さんだったので」
 ジュンくんは本気で嬉しそうだ。こんな彼を見るのは初めてかも知れない。
「そんなに喜んで貰えて私も感激です!」
 冬木さんはそう言うと顔を真っ赤にして恥ずかしそうにモジモジした。そうする彼女は実年齢よりかなり幼く見える。
「あの……。もし差し支えなければ何ですが」
 ふいにジュンくんが悶絶している冬木さんにそう声を掛けた。
「はい! 何でしょう!?」
「……僕は冬木さんの異世界奇譚がすごく好きなんですよね。実は高校の頃からずっと読んでました」
「えー!? 本当ですか? わ、わ。嬉しい」
「それで……。あの、もう続編書かないのかなぁって……」
 ジュンくんはそこまで話すと「いや、色々あると思うので催促とかじゃないです」と付け加えた。要は彼女の代表シリーズの続きがあるか聞きたいらしい。
「うーん……。そうですね」
 冬木さんはさっきまでの悶絶した態度とは一変して困惑した表情を浮かべた。そして深いため息を吐く。
「書くつもりではいます……。ただ、だいぶ先になると思います……」
 彼女はそう言うと焦点の定まらない視点を半井さんの方へ向けた。そして冬木さんの代わりに半井さんが口を開いた――。

「実は今、私が冬木先生の小説の校正校閲してるんですが……」
 半井さんは少しバツが悪そうに言うと申し訳なそうに「それで……。今はちょっと忙しくて」と続けた。
「いえいえ、半井先生は悪くないんです。私が無理言ったから……」
 今度は冬木さんが半井さんを庇うように首を大きく横に振った。どうやらジュンくんは彼女たちの地雷を踏んでしまったらしい。
「……すいません。余計なこと聞いてしまったみたいですね」
 ジュンくんは二人のやりとりを見て慌てて謝った。『失言してしまった』。彼の顔にはそう書いてあるように見える。
「いえいえ。読者さんが待ってくれてるのに……。本当にすいません」
 冬木さんはジュンくんと半井さんの両方に深々と頭を下げた。きっと彼女としては責任を感じているのだ。『作家 冬木紫苑』としての。
「実は……。以前は兄に校正手伝って貰ってたんです」
 ふいに冬木さんが独り言のように呟いた。そして「ただ、もう兄は居ないんです。二年前に交通事故で亡くなりました」と続ける。
 冬木さんはそこまで話すと窓の外に目を遣った。色と光の強弱だけの世界。きっと彼女の目にはそんな色の洪水が映っているのだろう。
「……春川さん、高木さん。もしよろしければ私のお話を聞いていただけませんか? ちょっと込み入った話ですが一緒にお仕事するのであれば聞いていただきたいんです」
 冬木さんはそう言ってから視線を私たちの方へ戻した。不思議と目の焦点が私たちにしっかりと合っている。
 覗き込んだ彼女の瞳はとても澄み切っていた。そして同時に何もかも知っているようにも見えた。無垢な純粋さと痛みを伴った経験。その両方が彼女の目には宿っているように感じる。
「もちろんです。……というよりも聞かせていただきたいです」
 私は反射的にそう返した。正直仕事抜きにしても知りたいと思う。冬木紫苑という一人の女性について。
「では……。ちょっと長い話になりますが」
 冬木さんは前置きしてから自身の生い立ちについて聞かせてくれた――。
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