月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第一章 二つの鍵盤

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「ただいまぁ」
 自宅に帰ると私はいつも通りリビングに向かってそう声を掛けた。。
「おかえり。晩飯は?」
「済ませてきたよ。京介は? もう食べた?」
 私はバッグをハンガースタンドに掛けながらそう返した。そして流れるようにヘアゴムを外してほどけた髪に手ぐしをかける。
「うん。もう食べたよ。じゃあこれは冷蔵庫に入れとくか……」
 彼はそう言うと手慣れた手つきでサラダと煮魚にラップを掛けて冷蔵庫にしまった。兼業主夫。いや、夫ではない。同居人。一応の肩書きは彼氏だ。
 阿久津京介。彼が私の部屋に転がり込んでどれくらい経っただろう? かれこれもう三年近く経った気がする。報酬付き自宅警備員。(ちなみに彼は在宅ワークしている。だから自宅警備兼主夫兼フリーライターだ)
「先にお風呂入っちゃっていいよ。俺はもう少し仕事してから入るから」
「そう? じゃあお先」
 なんて献身的な彼氏だろう。本当に至れり尽くせりだ。明らかに私より彼の方が家事は熟している気がする。高性能彼氏……。まぁ難点をあげるとすれば彼の兄貴と私が犬猿の仲だということだけだと思う。
 それから私はお言葉に甘えて先にシャワーを浴びた。熱いお湯が身体中に纏わり付いた汚れと疲れを流し去っていく。最高に気持ちいい。体内に残っていたアルコールも消え去っていくようだ。
 ある程度シャワーを浴びると身体中隈無く洗った。陰部は特に。他意は無い。キレイキレイにしたいだけだ。身体中がきれいになるのは良いことだ。素直にそう思う。
 身体中ピカピカにしてから湯船に浸かる。すると「ふぅー」とオッサンみたいな声が口からこぼれた。これじゃ、どっちが女子か分かんないな……。と半ば自虐的な考えが浮かんだ。まぁ、事実だし仕方ないだろう。私は外で働く音楽レーベルの企画部社員。彼は多くの時間を自宅で過ごすフリーライターなのだから。

 風呂から上がると身体に付いた水滴をしっかり拭き取った。拭き上げた肌は赤ちゃんみたいにピチピチしている。私もまだまだ捨てたもんじゃないな。と今度は中途半端に自画自賛した。入浴中はいつもこうだ。アップダウンが激しい。そんな一喜一憂が起こる。
「お先いただいたよぉ」
 私は風呂場から出るとリビングでパソコン作業している京介に声を掛けた。彼は「あいよ」とだけ返した。その反応はまるで古女房のようにも見える。
「スーツ、クリーニング出すなら玄関横のカゴに入れといてね」
 リビングに戻ると京介にそんなことを言われた。私は「分かったぁ」とまるで母親に勉強の催促をされた子供のように返した。実際そんな関係なのだ。京介は良妻賢母、私はクソガキ。そんな感じの関係だと思う。
「そういえば辞令出てね」
 私は冷蔵庫でビールを漁りながら京介にそう話を振った。。
「ふぅーん……。そう」
 京介はまるで興味がないみたいに生返事をする。おそらく今は作業に集中していのだ。私はそんなことお構いなしに続ける。
「新規立ち上げの部署に異動になったんだ。一応はプロジェクトリーダー的な感じだね」
「すごいじゃん。おめでとう」
「うん。ありがとう」
「で? どんな部署?」
 そんな会話をしながら私は冷蔵庫から取ってきた缶ビールを一本京介の前に差し出した。そして彼の前に向かい合って座る。
「えーとねぇ。なんか作詞作曲関連でクリエイターを発掘する部署って感じだね。ほら、ウチのアーティストってみんな自分らで曲作りしてるからさ。ちょっと新しいことしたかったんじゃない?」
 そう言いながら私は缶ビールのプルタブを開けた。開けた瞬間。プシューという気持ちいい音が鳴る。
「……にしても急だね。しかもこんな時期に辞令なんて珍しくない?」
「うーん、確かにそうだね」
 彼に言われて初めて気がついた。本来、新部署の立ち上げにはそれなりの金と時間と労力が掛かるはずなのだ。
「なんかさぁ……。また陽子ちゃんの不運が始まったんじゃないの?」
 京介はまるで茶化すみたいにそんなことを言った。すこぶる腹が立つ。そんな言い方だ。
「いやいや……。まさか」
 私は苦笑いして首を横に振る。
「マジでさ。陽子は人が良すぎるんだよね。ほら、君って頼まれると断れない性格じゃん? どうせ今日だって辞令受けて曖昧に返事したら決まっちゃった感じでしょ?」
 図星だ。さすが高性能彼氏。単に家事のできるフリーライターではない。ボーッとしていそうでしていない。実際はかなりの切れ者なのだ。……そんな私の思いを余所に彼は続ける。
「はぁ……。だからいつも言ってるでしょ? もっとちゃんと考えて決めなよ」
 京介にそうお説教されて私は『はい。すいませんでした。私がわろうございました。京介大先生には敵いませんな』と心の中で嫌みたっぷりに呟いた。もちろん口には出さない。言ったところで京介は怒ったりはしないだろうけれど、私だってそんな売り言葉をするほど子供ではないのだ。
「そうね……。気をつけるわ」
 私はそれだけ返すと下唇を軽く噛んだ。本当に腹が立つ――。
 
 それから私たちは互いにビールを飲んだ。テーブルにはビーフジャーキーとナッツ。あとは私の会社の資料が置かれている。
「これが企画書?」
 そう言うと京介は企画書を手に取った。
「一応社外秘だから丁寧に扱ってね……。本当は持ち帰りもNGなんだから」
「ふぅーん。相変わらず面倒な会社だね」
 面倒な会社。その言葉はとても的を射ていると思う。実際弊社はとても守秘義務にうるさい会社なのだ。だから万が一書類の持ち出しがバレれば左遷は免れないだろう。ま……。とは言っても多くの社員はそれを当たり前にやっているのだけれど。
「えーと……。新人クリエイター発掘プロジェクトのモニター募集について……」
 京介は独り言のようにぼそぼそ呟くとそんな風に企画書を読み上げた。
「うん。モニターとして今回二名選んだみたいよ? どこから見つけてきたのかは知んないけどね」
「だろうね。何となくだけど業界のコネで見繕った感ある人選だもん……」
 京介はそう言うと癖みたいに「ふんふん」と小さく鼻を鳴らした。そして引き続き企画書を読み進める。
 私はそんな京介の姿を眺めながら缶ビールを喉に流し込んだ。あかりと一緒に飲んだときとは違う味がする。ビターでスイートな。そんな味だ。京介と一緒に飲むお酒はいつだって甘美に感じられる。
 何となくテレビの電源を入れた。そして電源が入ると同時に後悔した。
 これだから夜の民放は嫌いだ。芸人が戯けたりアイドルがかわい子ぶったり。私が見たいのはそんなものじゃない。もっともっと。実になるものが見たい。
「ふーむ」
 私がそんな風に退屈しながらテレビを見ていると京介が難しそうに唸った。
「なんか気になるとこあった?」
「いや……。気になるっていうか。これは偶然なの?」
 そう言いながら京介はクリエイター二人の応募用紙の備考欄を指差した。
「ん? ああ。たぶん違うと思うよ」
「じゃあ意図的か……」
「おそらくね」
 京介がそこに反応するであろうことは予想していた。……というよりもそこに反応しない人間はまずいないと思う。私自身、最初にそこに目がいったのだ。まぁ、その件に関して西浦さんに確認をしなかったわけだけれど……。
 
 今回、西浦さんが選んだクリエイター二名には分かりやすい特徴があった。特徴というか個性というと障害というか……。そんなものだ。
 ざっくばらんに言えば二人とも視覚障害者なのだ。一人は先天的に。もう一人は後天的に目が見えなくなったらしい。
 私はこの人選に少しだけ西浦有栖の腹の中を覗いた気がする。彼女はどんなことだって利用するのだ。一見すると穏やかな淑女のようだけれどとんでもない。あの人はやはり魔物らしい。
 さて、これからどうしようか。と一瞬迷いに似た感覚を覚える。迷ったって今更仕方ないのに。
 
 ――とりあえず二人に会ってみよう。会って、話して、一緒に楽曲を作ってみよう。私はいつだってそんな風にやってきたのだ。体当たり。それ以外にやり方を知らない。
 京介は相変わらず難しい顔をしていた。そして「まぁ頑張りな」と優しく微笑むと企画書をそっとテーブルの上に戻した――。

 二人のクリエイターと直接対面したのはそれから間もなくのことだ。
 先に会ったのは作詞家志望の女性――。紫村御苑だった。
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