月不知のセレネー

海獺屋ぼの

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第一章 二つの鍵盤

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「あの、課長すいません」
 企画二課に戻るとすぐに課長のデスクに向かった。正直気が重い。課長から貰っている仕事も山積みなのだ。ここで新規クリエイターのお守りなんて言ったら顔を真っ赤にして怒り出すかもしれない。
「ああ、分かってるから大丈夫だよ」
 課長はそれだけ言うと私に名刺箱を差し出した。
「あの……。これは?」
「午後には辞令出ると思うけどお前配置換えな。新部署の部長代理だ……。おめでとさん」
「へ?」
 思わず変なところから声が出る。新部署? 部長代理?
「西浦副社長からのご指名だ。ま、頑張れよ。お前の仕事は全部こっちでなんとかするから」
 課長は呆気なく言うと私の肩に軽くグーパンチした。彼なりの不器用な激励……。なのだと思う。
 どうやら私は思っていたよりもずっと厄介なことに首を突っ込んだらしい。課長の反応でようやくそれを理解した。
 ふと貰ったばかりの名刺に目を遣る。そこには「クリエイター発掘部 部長代理 春川陽子」という見慣れない部署名と見慣れた私の名前がアンバランスに書かれていた。その名刺はまるでおもちゃのように見える。子供が見よう見まねで作った。そんなタチの4悪いジョークグッズのように。
 それから私は自分のデスクでやりかけの仕事を片付けた。できうる限り中途半端に仕事を残したくない。素直にそう思う。
 ああ、なぜこうなってしまったのか。私は自分の運命をほんの少しだけ恨んだ。そして首を横に振る。
 仕方ない。こうなってしまったらやれることをやろう。目の前に出されたご飯は美味しく平らげるみたいに。今居る場所で頑張れることだけが私にとって唯一の取り柄なのだから……。
 仕事の引き継ぎを終えると胸に大きな穴が空いたような気分になった。いよいよ終わり。さよなら企画二課、こんにちはクリエイター発掘部。そんな栄転とも左遷とも言えないような配置換えを心の中で諳んじる。
 さて、新天地でのパートナーについてもう一度目を通そう。私は自身の両頬を両手のひらで叩くと西浦さんから貰った封筒を再び開いた。そして資料の最後の二枚。二人の応募書類を取り出した――。

 退社後。私は同期のあかりと一緒にささやかな飲み会をした。場所は新宿駅前の居酒屋。人数は二人。そんなささやかな祝賀会っぽい飲み会だ。
「陽子ー! 栄転おめでとう」
 あかりはそう言うと嬉しそうにグラスを上に掲げた。中にはブドウジュース。そんな見た目だけなら赤ワインに見える液体が入っている。
「ありがとう。栄転かどうかは微妙だけどね……」
「なぁに言ってんの! 主任から部長代理だよ! 大出世だよ。三階級特進じゃない!?」
 あかりは興奮しながらそうまくし立てた。この子は前からこうなのだ。とかく喧しく姦しい。
「まぁねぇ。三階級特進に変わりはないけど……」
 私は歯切れの悪い言葉を並べるとため息を吐いた。まぁ、あかりの言うことも外れてはいないのだ。今日の午前中まで私は主任だったし、課長代理と課長をすっ飛ばしたとなれば確かに三階級特進だろう。
「ね! そうじゃん! いいなぁ。部長職ぅ」
 あかりは甘ったるそうな声で言うと上目遣いに「いいなぁ」と繰り返した。
「いや、部長じゃないよ。部長、だ・い・り」
 私はそんな風にあえて『代理』の部分を強調して言った。あくまで代理なのだ。おそらく実際の部長相当の役職は西浦さんがするのだと思う。
「んもう! 陽子は頭固いんだから!」
「別に固くはないよ。……ただ、あんまり浮かれてもいらんないってだけ」
 そう、本当に浮かれてはいられないのだ。せっかく築いてきた企画二課主任というキャリアを捨てて畑違いの場所に飛ばされてしまった……。考えようによってはピンチとも言える気がする。
「ハハハ、またまたぁ……。大丈夫だよ! 陽子なにげに器用だし何とかなるって」
 あかりはそんな無責任なことを言うとブドウジュースを一気に喉に流し込んだ――。

 あかり……。もとい本条灯と私は入社当時からの付き合いだ。同期入社で同部署。そして同い年。そんな関係だった。
 入社当時。私とあかり以外にも同期の社員は何人かいた。でもみんな何かしらの理由を付けて三年以内に退職していった。スキルアップしたいだとか、実家の家業を継ぐだとか……。そんな大義名分を掲げていた気がする。……大義名分。オブラートに包まず言えば『逃げる口実』だ。
 自社を悪く言うのはどうかと思うけれど株式会社ニンヒアは世間的にはブラック企業なのだと思う。サービス残業をさせるタイプのブラックではない。パワーハラスメント。その一言で全てが説明がつくタイプのブラック。
 だからだろう。営業部の同期は特に早く辞めていった。まぁ、仕方ない。あの部署には鬼が住んでいるのだ。西浦有栖と双璧を成す鬼の営業部長。広瀬彰良が……。
 幸い、私とあかりは営業部への転属を命じられることはなかった。ずっと企画部企画二課。仕事内容は自社アーティストの取材と自社特集雑誌の製作。そんな感じの仕事だ。
 そんな調子だったからか、私たちはずっとこの会社に居続けられた。ある種の居心地と待遇の良さ。そして大きなストレスを抱えながら――。

「でも参ったなぁ。陽子がいなくなったらアーティストさんへのスケジュール調整と根回しが大変そうだよぉ」
 あかりはまるでブドウジュースで酔っ払ったように言うと「マジで」と付け加えた。
「それは……。ほんとごめん。たぶん他の子たちが分担すると思うから……」
「それは! わかって……。るよ? でもさぁ。やっぱり陽子じゃなきゃダメなんだよぉ。特に……。あの『バービナ』のヴォーカルさん? あの子って癖強いからさぁ」
 あかりは心底うんざりといった感じで深いため息を吐いた。『おい、あんた。さっきまでおめでとうって言ってはしゃいでただろ?』とツッコミたくなる。
「京極さんねぇ……。あの子は確かにね」
「そうそう! マジであの子って田舎のヤンキーみたいじゃん!? 怖くて怖くて」
「プッ! 田舎のヤンキーって……」
 あかりの素直過ぎる物言いに私は思わず吹き出してしまった。確かにその通りなのだ。実際『バービナ』のヴォーカルはかなりヤンキー気質だと思う。
「そうだよー。京極さんに限らずウチのアーティストさんってみんな怖いじゃん……」
 完全な偏見だ。と口から出かかった言葉を私は飲み込んだ。私だって最初はそうだったのだ。怖いとか暴力的だとか。入社当時はそんな歪んだ見方をしていた気がする。
「まぁ、アレだよアレ……。配置転換したからってそのことに関わらないわけじゃないんだから心配しないで」
 気がつくと私はそんなその場しのぎなことを口走っていた。そしてすぐにまた一言多かったと後悔する。
「そう? でも新部署の仕事もあるのに大丈夫?」
 あかりは甘い声でお伺いを立てるような言い方をした。『大丈夫?』と言いつつもやらせようという魂胆が見え見えだ。
 この子はいつもこうだ。ずるい女。思い返せばアーティストへの根回し担当が私になったのも最初はあかりからのこの『お願い!』からだった気がする。
「んぁもう! 分かったよ! やるよ! やれば良いんでしょ!?」
 私は吐き捨てるように言うとビールを一気に飲み干した――。
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