ヌース、兎、ズッキーニ

脱水カルボナーラ

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第八話 州ガモ地蔵通し

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「会長、信じてくださるんですか」
マチルダ会長は私どころか滝川よりも少し小柄の男性だったが、誰よりも頼り甲斐のある迫力を有している人物である。彼の眼鏡の奥から怪しげに輝く目が、私のマスクの奥の目を見越しているようだった。
「キケケ、信じるも何も、今はそれしか状況を打開する糸口がないからなあ」
会長はまた蛙が喉を鳴らす時の音のような愉快な笑い声を放ってから、上空に浮かぶ黒い粘状の球体を見上げた。
「まずい……!」
球体の表面が波打ちはじめ、ぼたぼたと球体から溶け落ちるように切り離された不定形のゲル状の物体が、我々の方を目掛けて水飴爆弾のように降り注ぐ。
「皆さん! この黒いやつに捕まらないようにしてください! 危険です」
私は精一杯声を絞り出して、眼前の状況を何一つ理解できていない哀れな州ガモの住人たちに呼びかけた。着弾した黒い粘体はすぐに人々を飲み込まんと意思を持って蠢き、草原を這い回り始める。
「店長! このままじゃ負けちゃうっす、戦えるのは僕らだけっすよ」
滝川はいつの間に想像力を駆使するコツを掴んだのか、その手にピストルを構えている。背中を預けられる人間の選択肢が滝川のみであるのは些か不安で、何なら滝川の打った弾は私が喰らうのではないかとすら思ったが、このままでは州ガモの中心人物を全員喪ってしまいかねない事態であることがそれ以前の大問題である。私は腹を括り、また脳内の無限から眼前の惨状を打開するべく武器を呼び寄せた。
「ええい、仕方ない。滝川、お前はあっち側の婦人会の皆さんを!」
「はいっす!」
滝川は慣れた手つきで鉛玉をぶちこみながら、戦場を優雅に駆けて、追い詰められて我々と少し離れたところに行ってしまった婦人会のグループの方へ向かった。
「全く、私はただの喫茶店のオーナーだぞ!」
私は次々と降り注ぎ、町会の皆を捕らえようとする黒い物体を、鬼神の如き鎌捌きで一心不乱に切り刻んだ。なかなか、一騎当千というのはクセになるものである。命の保証さえあればもっといい。人間は、生き物は弱い者いじめを好むように遺伝子に刻み込まれているのだから。
「バニ沢さん……」
私がまた一つ、黒いのを破砕して着地すると、ルクス夫人は恐怖に慄いた顔で、盾にしているつもりなのか小さなハンドバッグをリスのような格好で持って震えながらこちらに歩み寄ってきた。
「夫人、皆さんも下がっていてください! ここは私が……」
私がそうやって皆を誘導しながら、次に破壊する黒い粘体の優先順位を決めるため辺りを見回すと、会長が逃げ遅れていることに気がついた。
「会長! 何やっているんですか!」
会長は怯えるどころか、落ち着き払って黒い雨の降り注ぐ晴れた草原の上に浮かぶ球体を、少年のような眼差しで見つめている。その兜から垂れる結び飾りだけが、会長の間近にフロイトの分身が降ってくる衝撃で激しく揺れていた。まずい、このままでは間に合わない。私は本物の兎になったつもりで、脚に力を込めて会長の方へ駆け出した。
私はこの時、明らかに自惚れていた。後々考えてみれば、州ガモの首魁を務めるあのマチルダ・アルブレヒト会長を、この私が助ける。そんなこと、ありうるはずがないのだ。会長は私が鎌を振り下ろす刹那で少年時代を懐古していた。
「想像……想像のう。儂も若い頃はよくごっこ遊びをしたもんだ。ケンちゃんは魔法使い、カタバミは僧侶、そんで、ワシは——」
会長は愉快そうに大きくのけぞった。そんな姿勢、絶対に腰をいわしてしまうだろうと私は思った。
「大魔王! ケケケケケケケケ」
会長が喉笛の骨を楽器のように鳴らして笑うと、会長の被っている兜の中心の装飾が眩く輝き出して、上空の黒い球体がそれを反射して点滅し始めた。地面が轟き、草原は何か大きな力の波動で揺れている。
「喰らえ、州ガモ地蔵通し!」
会長が空をまっすぐ見据える。瞬間、兜の中心から太い光の束が放たれ、黒い球体の中心を目掛けて凄まじいエネルギーの矢が飛んで、やがてそれを見事に貫いた。爆裂音が響き、黒い球体と降り注いだ黒い粘体は瞬く間にその輪郭を崩壊させて霧のように消えた。
 次に我々が瞬きを終えると、先ほどまでの騒動は文字通り跡形もなくなっていた。ふるさと会館は破壊されていなかったし、我々は元通りの席に座っていた。
「さすが会長、あの一瞬であんな芸当を……」
「いやあ、本当に全てが思った通りになるってのは気持ちいいねえ」
会長は心なしか楽しそうであった。町会の他の皆は無理もないが理解が追いついておらず取り乱して何やら言い合っているので、いつもただでさえうるさい役員会がいよいよ混沌を極めている。
「ちゅうもーく!」
会長の鶴の一声で、皆は目を覚ましたかのように黙って、こちらを向いた。会長に逆らえる人間はこの州ガモにはいないし、会長に逆らおうと思う人間はこの州ガモにはいない。
「えー。先ほど身をもって体験したと思うがバニ沢たちから聞いた通り、我々州ガモはその精神なんたらとかいう兵器に狙われておる」
「どうすればいいの。疎開は嫌よ!」
「市民が戦争に巻き込まれるなんて! 私たちもすぐに死んじゃうんだわ」
米屋と三丁目のスナックのママが次々に、日常が緊急事態に転じたショックで倒れそうな声をあげた。
「案ずるな。さっき、実際にバニ沢と滝川ちゃん、それに儂が直々にやったのを見たろ。我々は想像力と生き残る意志さえあれば、あれに負けることなどない。とにかくイデアに巻き込まれたら、戦うんだ。州ガモの住人は州ガモで死ぬべし。いいか、異変を感じたらすぐに考えろ。脳味噌で刃を研げ。知恵の牙を、意志の剣を持ちさえすれば、州ガモの住人があんなものに負けるわけがない」
会長は机を拳で叩きながらそう熱弁した。我々はそれに口を挟むことなど決してせず、ただ会長の頭の上に揺れる兜とその影に差す後光にひれ伏し、感服し、釘付けになっていた。
「儂はこれから役場に戻って、自警団にも緊急事態を宣言する。昼中にはニュースを放映するから、目撃者の皆は、家族や近所の人には恐怖を煽りすぎず適切に、状況を説明してくれい。州ガモが何者かに狙われているというのであれば、我々も黙ってるわけにはいかん。すでに仲間も殺されちゃってるしねえ。ともかく、これ以上の犠牲は一人たりとも出さんぞ!」
会長の一喝で、卵から孵りたてのひよこのように騒いでいた町会の連中はすっかり、州ガモの住人としての強き誇りを取り戻したようだ。
「おおっ! 州ガモ! 州ガモ! 州ガモ!」
強大な州ガモのナショナリズムの波。州ガモの住人は州ガモがある限り、州ガモに骨を埋めるために生きてゆくのだ。私も、滝川も、雰囲気に飲まれた檸檬も、この建物の中にいる全員が拳を高く突き上げ、三分間にわたるシュプレヒコールを続けた。
「して、檸檬くん。先ほど聞きそびれちゃった話の続きだけど、聞かせてくれるかい。あんた一体、どこから来た?」
コールが止んですぐ、会長が静まり返った会場で檸檬に問うたので、皆はすぐさま会長と檸檬に視線を集中させた。すっかり忘れていたが、フロイトのことを皆に信じてもらえても、このタイミングでやってきた他所者の檸檬を信用させることが何よりも難しいことであった。それに、かくいう私と滝川も檸檬については“カレーを美味しそうに食べる”こと、それから“時折奇妙な言動をする”以外の一切を知らない。成り行きで匿ってしまった彼女は昨日、「このまま野垂れ死ぬ」と確かに言った。あの恐ろしい兵器と共に現れた謎の少女、檸檬は一体どこで、何を見て育ってきたのか。私と滝川も不謹慎ながら興味津々であったし、それに彼女が州ガモの皆に敵ではないと信じてもらうにはそれを開示することがマストであるとも考えていた。
 会長は、檸檬の海藻のような髪の毛から覗く青白い顔を見て微笑んだ。
「君を信用させてくれ。州ガモの連中はちょっと疑り深いが、悪い奴らじゃあないんだ。そこのバニ沢と滝川ちゃんのようにね」
この時、檸檬の頭が心なしかぴくりと動いたような気がした。
「ちょっと会長! バニ沢店長は確かに檸檬さんのこと疑ってましたけど、僕は最初っから快く迎えましたよ! 看板娘としてね」
この滝川という生物。全く油断も隙もなく、私の顔に泥を塗ることと自分をさも素晴らしい人物かのように仕立て上げることに関してだけは一丁前だ。私が滝川に減給する旨を言い渡そうとしたその時、俯いていた檸檬が口を開いた。
「分かった。話そう。そもそも、私もよくこの状況を理解していないのだが——」
彼女の小さな声が静寂の中に微かに響いた。
 しかし、今になって思い返してみても、檸檬の語った彼女の数奇な人生は、想像を絶するものである。私のカレーを口にしてよく正気を保っていられたものだ。彼女の話を聞き終えた時に、私は心からそう思うことになる。
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