9 / 9
第九話 州ガモに悲劇は通じない
しおりを挟む
皆が檸檬に注目し、檸檬は何十もの視線に晒されることに慣れていないのか少し戸惑った様子であった。彼女はカップ焼きそばの湯ぎりをしているときの私と同じくらい慎重に話し始めた。
「私は、檸檬。生まれた時からそう呼ばれていた。下——とにかく、空のない場所、“ここ”より下の場所から来た。つい昨日まで、そこにいた」
昨日私がどこから来たのか尋ねた時と同じように「下」から来たと檸檬は言った。
「社会的地位じゃなくて、物理的に下って意味なら、地下から来たってことっすか?」
滝川が我々が一様にして頭に浮かんだであろう疑問を投げかけると、檸檬は「多分」とだけ答えた。私は檸檬の浮世離れした言葉遣いや感覚は独特の感性によるものというより、人が生きていく上で獲得するであろう最低限の知識や語彙が、その「下」での生い立ちにより得られていないことに依るものではないかと考えた。一体、このカレーの味すら知らなかった少女はこれまで「下」で何を見て聞いて、食べてきたのであろうか。州ガモの外にも地下街は点在している。私も上等なソーセージを購入する目的等で、州ガモの外の地下街の肉屋にまで出向いたことはあるが、檸檬のように著しく何かが欠如しているような人は見かけたことがない。「下」は本当に地下なのであろうか。
「昨日までその場所に居たと言ったが、君はなぜ“下”をよりによって昨日——初めて州ガモに対しフロイトが牙を剥いた日——に出てきたんだね」
マチルダ町会長は柔らかな声で話していたが、眼鏡の奥から鋭い視線を檸檬へと投げかけていた。会長個人としては檸檬を信用してやりたいのだろうが、州ガモの頭領としては疑いの晴れるまで毅然とした態度を取らねばならないのであろう。しかし、真剣な時の会長のその威厳たるや! 私の合挽肉よりも安い言葉では言い表せぬほど凄まじいものである。
「フロイトに、負けたんだ。我々は完全に敗北した。“下”はあの時、壊滅した。私は、私だけはからがら逃げ延びた、それでこの街へ出たんだ」
檸檬は青白い顔でステンドグラスから差し込む光を見て、我々は奇しき憂いを纏った絵画のような、檸檬の病的で美しい痩せた顔をただ眺めていた。
檸檬は一度深く息をしてから、今度は雪崩を起こしたように勢いよく語り始めた。
「私は物心がついた時からつい昨日に至るまで、“下”と呼ばれる場所で暮らしていた。あそこでは生みの親の顔も、与えられた名前も知らないような子供たちが集められ、養育されていた。私もその一人だった。私たちはそれぞれ新しい名前をもらって、“下”で白い服を着た大人たちの管理の下、暮らしていた」
「なんかベタな設定ねえ。古い映画みたい」
沈黙の中、肝の据わっているルクス夫人だけが配布されたペットボトルのお茶を一口飲みながらそう言った。私も檸檬でない人物が身の上を語った時同じように話されたら、途中で笑い転げていたであろう。問題は、これを語っているのがベタなどという単語では到底形容することのないイレギュラーを煮詰めたような少女、檸檬である点である。
「“下”では毎日一度、“夜”と呼ばれる時間に食事が出た。そして決まった時間に私たちは集められ、色のない部屋で文字と、言葉を教わった。ひたすら。何度も文字を読んで書いた。そうしてあらかた言葉と文字を学び終わると、私たちは今度、部屋の中でずっと本を読んだ。他に何も与えられず時間を持て余していた私たちはたくさんの本を読んだ。どの本も文字のみが刻まれていて、挿絵や扉絵のたぐいは一切使われていなかった。どれも同じ大きさで、同じ色をした本だった。色々な本を読んだ。ある冒険家の世界旅行の話、ある亡国の姫の話、ある科学者が発狂する話、ある子供が屋根裏に城を建てる話——はじめのうち私たちは学んだ言葉を当てはめながらじっくりと本を読んだ。段々それに慣れてくると、今度は取り憑かれたように本を読み漁り、ここではない広く色づいている世界、そこにある食べ物、生き物、道具、人々。そういった遍く世のすべてに想いを馳せた。本を読み始めてしばらく経つと、今度は大人から紙とペンと辞書を与えられた。私たちは本を読みながらたくさんの絵を描いた。猫とはこういう生き物なのではないか、この登場人物はきっとこういう顔をしている、銃とはこういう形なのではないか。時に喧嘩をしながら、私たちは本に出てくる知らないものやことについて絵を描き続けた。辞書を使うのでなく直接大人に知らないものについて尋ねることもできたが、私たちにとって納得のいく答えが与えられることはなかった。本で描かれるここではないいつしかの、幾つもの世界に憧れた私たちは消灯された後もずっと、狭い部屋の中で文字でのみ感じることのできる色や匂いやかたちや味に思いを馳せて語り合った。
本を読むようになってから何度か、私たちは本でないものを観る日を与えられた。そういう日の朝は決まっていつもの朝食でなく甘い液体を飲まされ、そのあとは椅子に座らされて、様々な写真や絵というものを見せられた。あの日は決まってなぜか極端に頭が重くなった。だから焦がれてやまない、本に記された文字たちの正体が目の前にあるはずなのに興奮をすることができなかった。意識が明瞭になる頃には、もうあれらを観る時間は終わっていて、私たちは曖昧な視界でようやく捉えたぼやけた記憶だけを手にした。そうして外への憧れはいっそう募っていった」
ここまで語って、檸檬はようやく一息ついた。我々は語られる檸檬の恐ろしく想像を絶する生涯に全く想像や理解が追いつかず、何かを尋ねようとも思えなかった。檸檬の無知は大人によって意図的に作り上げられたものであったのだ。檸檬はこれまで得るはずだったものを見せられることすらせず、
滝川だけが呑気に誰も手をつけていない差し入れの茶菓子を喰らいながら話を聞いていた。
檸檬は私たちが凍りついてしまっていることに構わず、また話し始めた。
「私たちはある日「十五歳」になった。私たちはいつもの部屋に集められ、大人にそう告げられたんだ。その日、大人たちはこれまで頑なに話さなかった外の世界について、初めて私たちに話し始めた」
この時、檸檬の虚な目に微かに怒りの色が滲んだように見えた。本当のところはどうだか判らないが、私の豊かな感受性がそう感じたのだ。
「君たちは選ばれた子供達。君たちはこれからこの場所で人を守るために戦うのだ、と。それから私たちは大人たちから、“下”が日本国という国の政府によって秘密裏に運営されている施設であるということ、外の世界で起こっている戦争と——フロイトについての話をされた。“下”はフロイトに対抗するために作られた施設で、民間人に被害が及ばないようにフロイトから日本国に発射される電波を一手に引き受ける役目を負っていると。外の世界やこの世の事象から私たちが極端に隔離された理由は、人間の子供の憧憬と妄想の力を最大限にまで引き上げ、フロイトの精神攻撃と効率的かつ安全に戦わせるためだと。私たちはいつしか読んだ本の表現で言うところの使い捨ての電池、あるいは肉の盾だったんだ。大人たちは、外の世界でも市民が戦争によって大いに苦しめられている、君たちは誇りを持って皆を守って欲しいと私たちに告げた」
檸檬が昨日、我々市民と戦争の関係を大いに誤解していたことの原因は、どうやらこの“大人たち”の嘘によるものであるようだ。檸檬は故人を偲ぶような態度で語り続けた。
「それからは毎日、私たちは不規則に突如やってくるフロイトの精神干渉に対して、イデアの中でイマジネーションを用いて戦った。外の世界はこうなっているのかな。皆が見ている景色はどんなものなのか。本の中の主人公たちが困難を切り抜けるように、せめてイデアの中でだけは自由でありたいと強く思うことで、フロイトの攻撃に抗い続けた。いつしか本物の空を見ることを夢見て。そんな日々を過ごすうち、精神が壊れてどこか別の場所へ連れて行かれる仲間も出始めた。それでも残された私たちは同じように外への渇望を想像力に変えて戦い続けた。そして昨日だ。昨日のフロイトは何かが違った——とても強かった。思い出すことが出来ないが、とにかく最悪だったんだ。今まで生きてきた事実をへし折られるような、そういうものを見せられたことだけは覚えている。怖かった」
檸檬は呼吸を荒げていた。「無理しないでいい、休みながら話しなさい」と会長は依然として険しい面持ちで伝えたが、檸檬は取り憑かれたように語るのを辞めなかった。今思えばこれは彼女なりに事実と向き合って語ることで、寝食を共にした家族を弔おうとしていたのかもしれない。
「私たちの中で最も強かった仲間がやられたのを皮切りに、次々に皆殺されていった。“下”の人間全員がフロイトにより重度の精神汚染状態に陥り、フロイトに操られた連中が“下”の施設を破壊し始め、施設内は滅茶苦茶な有様になった。私は辛くもイデアから脱出することに成功し、生き残った仲間のうちの一人——苺という名前だった——と運よく再開できた。私たちはしたいの転がっている“下”の中を歩き回り、ようやく出口を見つけた」
檸檬は唇を震わせた。
「“下”を出ると外は水に囲まれていた」
水に囲まれていたというのは川か海か、はたまた地底湖なのか。溶けかけの氷のように輪郭がぼやけた檸檬の言葉から彼女の記憶と全く同じ光景を思い描くというのは、やはり無理があることのように感じる。
「そこに一隻の小さな船があった。そして私たちがそれに飛び乗ろうとした瞬間に。苺がフロイトの攻撃に遭い、苺の意識はイデアに飛ばされてしまった。苺は倒れる間際にこっちを見たんだ。目が合った。確かにあの時は、苺の目が“逃げろ”と訴えているように感じた。だから私は苺が目覚めるのを待たずに、一人で船を出した。それから気を失った」
檸檬は俯いてしまった。最早そのような檸檬の姿はほとんど事実を語るというよりかは咎人が懺悔をするそれに見える。
「私は仲間……家族の苺に助らられたんだ。しばらく水だけの景色が続いて、私はいつしか眠っていた。目が覚めると——この街に流れ着いていた。そして、バニ沢と滝川の店に……」
檸檬は脱走兵の如き苦悶と罪悪感に苛まれた顔をしながら、ようやくそこで口を閉じ、州ガモふるさと会館に一寸の沈黙が訪れた。
「州ガモに辿り着いたってことは、日本海側か東京湾か……その辺から来たってことかいね」
鮮魚店の羽渕氏はこのようにして、少しでも水域や船の話が出てくると決まって腕を組みながら話に加わりたがるのだ。誰がこの鉛のような重たい空気を打破してくれるか。茶菓子を依然として貪り喰らう滝川以外の皆がそう感じていたであろうこの雰囲気、まさか羽渕氏が解決してくれるとは!
「私はどこから来たのだろうか。今ここにいる私は、どこかから来た誰でもないのかもしれない。国を守るという使命を捨て、“下”から出たあの時、私は私も置いていってしまったんだ。何者でもなくなってしまったんだ。それに外は今まで教えられてきたのとは違って、結局戦争とは無縁の世界だった。私たちは今まで一体、何を守るためにあんな場所に居たのだろうか。私は読んだ本の主人公のようにはなれなかったんだ。カレーは本当に美味かった」
なぜこの哀れな青白い娘の生涯を、今日までかつて誰も知らなかったのか。私はその事実に憤りすら覚えた。
「私は、家族を見捨てた。最後に見た苺の目……思い出すごとに私に助けを求めていたように感じてくるんだ。今フロイトはこの平和な街を襲っている。フロイトがもう意味のない存在となった私を狙っている可能性は否定しきれない。それに、犠牲者まで出てしまった。目が覚めた。もうここに残るつもりはない。世話になった。迷惑をかけて、申し訳なかった」
檸檬はそう言って立ちあがろうとしたが、我々の方を見て立ちすくんでしまった。
「あ、あの……」
州ガモの連中はすっかり檸檬の話で心を揺さぶられてしまったらしく、会長までもが涙ぐみながら檸檬の壮絶な生い立ちに同情していた。ふるさと会館にはいつしか鼻を啜る音が響き始め、皆ぐすぐすしくしくと音を立てて泣いている。一番初めに檸檬に厳しい目を向けた呉服屋の女将に至っては、とめどない涙と鼻水によって上等なハンカチーフをすっかりだめにしてしまっていたし、かくいう私もマスクの中で一筋の涙を溢していた。情緒溢れる州ガモの人間ならば、彼女の話を聞けば皆おしなべてそうするであろう。だから素知らぬ様子で茶菓子を平らげている滝川こそ、一刻も早くこの義理人情の街州ガモから追放するべきなのではないだろうか。檸檬は目の前で起きている号泣の渦を見て、我々が犠牲者を一斉に偲び出したのだと勘違いしたらしく、何度もぎこちない声で「その、すまなかった」と繰り返し謝っていた。我々はそんないじらしい檸檬の姿を見て、さらに泣いた。
ようやく皆が落ち着きはじめ、涙によって失った分を取り戻すために会長が水を一杯飲み、これから話し始めようという姿勢を見せた。檸檬は立ち去るタイミングを完全に見失ってしまい、また席に座って俯いている。
「ゲフン。まず檸檬君、非礼を詫びた上で君に話がある。バニ沢と滝川ちゃんに我々も賛成するよ。君を州ガモの仲間として迎え入れよう。明日までにIDを発行して人参房に届ける」
檸檬の濁った瞳に、微かに喫驚の光が走った。
「なんで——」
檸檬が会長の方を見上げると、会長は慈悲深き菩薩と遜色ない笑みを浮かべた。
「第一に、フロイトが攻撃を続ける限り、我々州ガモの住民は必ず攻略せねばならない。現状ただ一人、君はフロイトに繋がる手がかりであり、誰よりもフロイトと戦ってきた経験がある。我々を助けてくれ。それにもう一つ。州ガモの人間たるもの、そんな青白い顔であんな切ない事を云う娘っ子を、ただ見送ることなど断じて出来ぬ。何故なら——」
我々は今、マチルダ町会長が町会長たる所以を、ここぞとばかりに見せつけられている。私と、それからあの滝川を含めた州ガモの町内会一同は、一斉に立ち上がって檸檬の方を向いた。
「州ガモの幸せ、私の幸せ。私の幸せ、貴方の幸せ。貴方の幸せ、私の幸せ。皆の幸せ、州ガモの幸せ」
州ガモの住民が小学校に入学して一番に教わるスローガンを我々は会長に続いて斉唱し、ふるさと会館の空気は震えた。このスローガンは大昔に当時の小学生が考えたものらしく、それが今も受け継がれているらしい。檸檬はどうするべきか分からずに、ただ我々を見ていた。
「まあ、あれっすよ。要するに州ガモのみんなは檸檬さんのこと仲間だと思ってるってことっすよ! これからもここにいていいんすよ!」
滝川という狡猾な生き物は、こういう時にだけたい焼きの尻尾を掠め取るトンビの如く出しゃばってくるのだ。その丸眼鏡の奥に覗く貴様の軽薄な眼差し、檸檬を騙せても私の目は誤魔化せない! 滝川は檸檬の顔を覗き込んで励ますように微笑んだ。
「しかし……なぜ余所者の私を信じる。私が皆を騙しているのかもしれないのだぞ」
檸檬はどうしても自身が裁かれるべきであり、誰からも手を差し伸べられるべき存在ではないと思い込んでいるらしい。確かにそうすることで、ある意味では凄惨な過去と共存し折り合いを付け、痛み続けることで痛みを和らげることが出来るのかもしれない。しかし我々州ガモの住民はありがた迷惑であろうと、他人に対しても幸福を追い求める勇気というものを与えたくなってしまうのだ。檸檬は流れ着く場所を間違えたのかもしれないが、間違えた先が州ガモであった時点で、彼女がこうなることは必然であったのだ。
「いいから! 檸檬さんももう、立派な州ガモの住民ですよね? 皆さん」
滝川が町内会の皆の方を見、我々は深く頷いた。
「そういうこと」
会長がそう言うと檸檬はまだ呆然としていたが、先ほどよりかはほんの少し顔に血が通っているように感じられた。
その後はマチルダ町会長が“透明人間”の正体がフロイトであるという事を伝え、州ガモで一丸となり二度と犠牲者を出さぬよう施策を行うべきであると告げ、我々は両手を掲げて賛成し、今後の方針について大まかに話し合って、フロイトの襲撃で始まったパニック役員会は閉会した。皆がふるさと会館を後にしはじめた。
「さっきは本当にごめんねえ。あんたはこれから可愛い服着て、美味しいもの食べて、いろんなとこに行きなさい。そして情緒あふれる州ガモの住民として、これからもここにいなさいな」
我々も一旦人参房に戻ろうかという頃、呉服屋の女将がわざわざこちらへやってきてまた瞳を潤わせながら、未だ呆然としたままの檸檬の肩を持ってそう語りかけた。
「それにしてもねえバニ沢さん、去年の産業祭りのシャツなんて、あまりにも可哀想よ!」
女将は檸檬の着ているシャツの裾を持って私に抗議した。
「いやあ、申し訳ないです。とりあえず着替えをばと思ってタンスをひっくり返してみたのですが、本当にそれしか無かったんです」
私は苦笑いをして肩をすくめた。
「んもう。明日檸檬ちゃんにいい服、持っていくから」
女将は柔らかく微笑んでそう告げると私と滝川にお辞儀して、立ち去っていった。
女将を見送り、マチルダ町会長をはじめとした面々に挨拶を済ませてからようやく我々はふるさと会館を出て人参房へと戻った。
「私は、檸檬。生まれた時からそう呼ばれていた。下——とにかく、空のない場所、“ここ”より下の場所から来た。つい昨日まで、そこにいた」
昨日私がどこから来たのか尋ねた時と同じように「下」から来たと檸檬は言った。
「社会的地位じゃなくて、物理的に下って意味なら、地下から来たってことっすか?」
滝川が我々が一様にして頭に浮かんだであろう疑問を投げかけると、檸檬は「多分」とだけ答えた。私は檸檬の浮世離れした言葉遣いや感覚は独特の感性によるものというより、人が生きていく上で獲得するであろう最低限の知識や語彙が、その「下」での生い立ちにより得られていないことに依るものではないかと考えた。一体、このカレーの味すら知らなかった少女はこれまで「下」で何を見て聞いて、食べてきたのであろうか。州ガモの外にも地下街は点在している。私も上等なソーセージを購入する目的等で、州ガモの外の地下街の肉屋にまで出向いたことはあるが、檸檬のように著しく何かが欠如しているような人は見かけたことがない。「下」は本当に地下なのであろうか。
「昨日までその場所に居たと言ったが、君はなぜ“下”をよりによって昨日——初めて州ガモに対しフロイトが牙を剥いた日——に出てきたんだね」
マチルダ町会長は柔らかな声で話していたが、眼鏡の奥から鋭い視線を檸檬へと投げかけていた。会長個人としては檸檬を信用してやりたいのだろうが、州ガモの頭領としては疑いの晴れるまで毅然とした態度を取らねばならないのであろう。しかし、真剣な時の会長のその威厳たるや! 私の合挽肉よりも安い言葉では言い表せぬほど凄まじいものである。
「フロイトに、負けたんだ。我々は完全に敗北した。“下”はあの時、壊滅した。私は、私だけはからがら逃げ延びた、それでこの街へ出たんだ」
檸檬は青白い顔でステンドグラスから差し込む光を見て、我々は奇しき憂いを纏った絵画のような、檸檬の病的で美しい痩せた顔をただ眺めていた。
檸檬は一度深く息をしてから、今度は雪崩を起こしたように勢いよく語り始めた。
「私は物心がついた時からつい昨日に至るまで、“下”と呼ばれる場所で暮らしていた。あそこでは生みの親の顔も、与えられた名前も知らないような子供たちが集められ、養育されていた。私もその一人だった。私たちはそれぞれ新しい名前をもらって、“下”で白い服を着た大人たちの管理の下、暮らしていた」
「なんかベタな設定ねえ。古い映画みたい」
沈黙の中、肝の据わっているルクス夫人だけが配布されたペットボトルのお茶を一口飲みながらそう言った。私も檸檬でない人物が身の上を語った時同じように話されたら、途中で笑い転げていたであろう。問題は、これを語っているのがベタなどという単語では到底形容することのないイレギュラーを煮詰めたような少女、檸檬である点である。
「“下”では毎日一度、“夜”と呼ばれる時間に食事が出た。そして決まった時間に私たちは集められ、色のない部屋で文字と、言葉を教わった。ひたすら。何度も文字を読んで書いた。そうしてあらかた言葉と文字を学び終わると、私たちは今度、部屋の中でずっと本を読んだ。他に何も与えられず時間を持て余していた私たちはたくさんの本を読んだ。どの本も文字のみが刻まれていて、挿絵や扉絵のたぐいは一切使われていなかった。どれも同じ大きさで、同じ色をした本だった。色々な本を読んだ。ある冒険家の世界旅行の話、ある亡国の姫の話、ある科学者が発狂する話、ある子供が屋根裏に城を建てる話——はじめのうち私たちは学んだ言葉を当てはめながらじっくりと本を読んだ。段々それに慣れてくると、今度は取り憑かれたように本を読み漁り、ここではない広く色づいている世界、そこにある食べ物、生き物、道具、人々。そういった遍く世のすべてに想いを馳せた。本を読み始めてしばらく経つと、今度は大人から紙とペンと辞書を与えられた。私たちは本を読みながらたくさんの絵を描いた。猫とはこういう生き物なのではないか、この登場人物はきっとこういう顔をしている、銃とはこういう形なのではないか。時に喧嘩をしながら、私たちは本に出てくる知らないものやことについて絵を描き続けた。辞書を使うのでなく直接大人に知らないものについて尋ねることもできたが、私たちにとって納得のいく答えが与えられることはなかった。本で描かれるここではないいつしかの、幾つもの世界に憧れた私たちは消灯された後もずっと、狭い部屋の中で文字でのみ感じることのできる色や匂いやかたちや味に思いを馳せて語り合った。
本を読むようになってから何度か、私たちは本でないものを観る日を与えられた。そういう日の朝は決まっていつもの朝食でなく甘い液体を飲まされ、そのあとは椅子に座らされて、様々な写真や絵というものを見せられた。あの日は決まってなぜか極端に頭が重くなった。だから焦がれてやまない、本に記された文字たちの正体が目の前にあるはずなのに興奮をすることができなかった。意識が明瞭になる頃には、もうあれらを観る時間は終わっていて、私たちは曖昧な視界でようやく捉えたぼやけた記憶だけを手にした。そうして外への憧れはいっそう募っていった」
ここまで語って、檸檬はようやく一息ついた。我々は語られる檸檬の恐ろしく想像を絶する生涯に全く想像や理解が追いつかず、何かを尋ねようとも思えなかった。檸檬の無知は大人によって意図的に作り上げられたものであったのだ。檸檬はこれまで得るはずだったものを見せられることすらせず、
滝川だけが呑気に誰も手をつけていない差し入れの茶菓子を喰らいながら話を聞いていた。
檸檬は私たちが凍りついてしまっていることに構わず、また話し始めた。
「私たちはある日「十五歳」になった。私たちはいつもの部屋に集められ、大人にそう告げられたんだ。その日、大人たちはこれまで頑なに話さなかった外の世界について、初めて私たちに話し始めた」
この時、檸檬の虚な目に微かに怒りの色が滲んだように見えた。本当のところはどうだか判らないが、私の豊かな感受性がそう感じたのだ。
「君たちは選ばれた子供達。君たちはこれからこの場所で人を守るために戦うのだ、と。それから私たちは大人たちから、“下”が日本国という国の政府によって秘密裏に運営されている施設であるということ、外の世界で起こっている戦争と——フロイトについての話をされた。“下”はフロイトに対抗するために作られた施設で、民間人に被害が及ばないようにフロイトから日本国に発射される電波を一手に引き受ける役目を負っていると。外の世界やこの世の事象から私たちが極端に隔離された理由は、人間の子供の憧憬と妄想の力を最大限にまで引き上げ、フロイトの精神攻撃と効率的かつ安全に戦わせるためだと。私たちはいつしか読んだ本の表現で言うところの使い捨ての電池、あるいは肉の盾だったんだ。大人たちは、外の世界でも市民が戦争によって大いに苦しめられている、君たちは誇りを持って皆を守って欲しいと私たちに告げた」
檸檬が昨日、我々市民と戦争の関係を大いに誤解していたことの原因は、どうやらこの“大人たち”の嘘によるものであるようだ。檸檬は故人を偲ぶような態度で語り続けた。
「それからは毎日、私たちは不規則に突如やってくるフロイトの精神干渉に対して、イデアの中でイマジネーションを用いて戦った。外の世界はこうなっているのかな。皆が見ている景色はどんなものなのか。本の中の主人公たちが困難を切り抜けるように、せめてイデアの中でだけは自由でありたいと強く思うことで、フロイトの攻撃に抗い続けた。いつしか本物の空を見ることを夢見て。そんな日々を過ごすうち、精神が壊れてどこか別の場所へ連れて行かれる仲間も出始めた。それでも残された私たちは同じように外への渇望を想像力に変えて戦い続けた。そして昨日だ。昨日のフロイトは何かが違った——とても強かった。思い出すことが出来ないが、とにかく最悪だったんだ。今まで生きてきた事実をへし折られるような、そういうものを見せられたことだけは覚えている。怖かった」
檸檬は呼吸を荒げていた。「無理しないでいい、休みながら話しなさい」と会長は依然として険しい面持ちで伝えたが、檸檬は取り憑かれたように語るのを辞めなかった。今思えばこれは彼女なりに事実と向き合って語ることで、寝食を共にした家族を弔おうとしていたのかもしれない。
「私たちの中で最も強かった仲間がやられたのを皮切りに、次々に皆殺されていった。“下”の人間全員がフロイトにより重度の精神汚染状態に陥り、フロイトに操られた連中が“下”の施設を破壊し始め、施設内は滅茶苦茶な有様になった。私は辛くもイデアから脱出することに成功し、生き残った仲間のうちの一人——苺という名前だった——と運よく再開できた。私たちはしたいの転がっている“下”の中を歩き回り、ようやく出口を見つけた」
檸檬は唇を震わせた。
「“下”を出ると外は水に囲まれていた」
水に囲まれていたというのは川か海か、はたまた地底湖なのか。溶けかけの氷のように輪郭がぼやけた檸檬の言葉から彼女の記憶と全く同じ光景を思い描くというのは、やはり無理があることのように感じる。
「そこに一隻の小さな船があった。そして私たちがそれに飛び乗ろうとした瞬間に。苺がフロイトの攻撃に遭い、苺の意識はイデアに飛ばされてしまった。苺は倒れる間際にこっちを見たんだ。目が合った。確かにあの時は、苺の目が“逃げろ”と訴えているように感じた。だから私は苺が目覚めるのを待たずに、一人で船を出した。それから気を失った」
檸檬は俯いてしまった。最早そのような檸檬の姿はほとんど事実を語るというよりかは咎人が懺悔をするそれに見える。
「私は仲間……家族の苺に助らられたんだ。しばらく水だけの景色が続いて、私はいつしか眠っていた。目が覚めると——この街に流れ着いていた。そして、バニ沢と滝川の店に……」
檸檬は脱走兵の如き苦悶と罪悪感に苛まれた顔をしながら、ようやくそこで口を閉じ、州ガモふるさと会館に一寸の沈黙が訪れた。
「州ガモに辿り着いたってことは、日本海側か東京湾か……その辺から来たってことかいね」
鮮魚店の羽渕氏はこのようにして、少しでも水域や船の話が出てくると決まって腕を組みながら話に加わりたがるのだ。誰がこの鉛のような重たい空気を打破してくれるか。茶菓子を依然として貪り喰らう滝川以外の皆がそう感じていたであろうこの雰囲気、まさか羽渕氏が解決してくれるとは!
「私はどこから来たのだろうか。今ここにいる私は、どこかから来た誰でもないのかもしれない。国を守るという使命を捨て、“下”から出たあの時、私は私も置いていってしまったんだ。何者でもなくなってしまったんだ。それに外は今まで教えられてきたのとは違って、結局戦争とは無縁の世界だった。私たちは今まで一体、何を守るためにあんな場所に居たのだろうか。私は読んだ本の主人公のようにはなれなかったんだ。カレーは本当に美味かった」
なぜこの哀れな青白い娘の生涯を、今日までかつて誰も知らなかったのか。私はその事実に憤りすら覚えた。
「私は、家族を見捨てた。最後に見た苺の目……思い出すごとに私に助けを求めていたように感じてくるんだ。今フロイトはこの平和な街を襲っている。フロイトがもう意味のない存在となった私を狙っている可能性は否定しきれない。それに、犠牲者まで出てしまった。目が覚めた。もうここに残るつもりはない。世話になった。迷惑をかけて、申し訳なかった」
檸檬はそう言って立ちあがろうとしたが、我々の方を見て立ちすくんでしまった。
「あ、あの……」
州ガモの連中はすっかり檸檬の話で心を揺さぶられてしまったらしく、会長までもが涙ぐみながら檸檬の壮絶な生い立ちに同情していた。ふるさと会館にはいつしか鼻を啜る音が響き始め、皆ぐすぐすしくしくと音を立てて泣いている。一番初めに檸檬に厳しい目を向けた呉服屋の女将に至っては、とめどない涙と鼻水によって上等なハンカチーフをすっかりだめにしてしまっていたし、かくいう私もマスクの中で一筋の涙を溢していた。情緒溢れる州ガモの人間ならば、彼女の話を聞けば皆おしなべてそうするであろう。だから素知らぬ様子で茶菓子を平らげている滝川こそ、一刻も早くこの義理人情の街州ガモから追放するべきなのではないだろうか。檸檬は目の前で起きている号泣の渦を見て、我々が犠牲者を一斉に偲び出したのだと勘違いしたらしく、何度もぎこちない声で「その、すまなかった」と繰り返し謝っていた。我々はそんないじらしい檸檬の姿を見て、さらに泣いた。
ようやく皆が落ち着きはじめ、涙によって失った分を取り戻すために会長が水を一杯飲み、これから話し始めようという姿勢を見せた。檸檬は立ち去るタイミングを完全に見失ってしまい、また席に座って俯いている。
「ゲフン。まず檸檬君、非礼を詫びた上で君に話がある。バニ沢と滝川ちゃんに我々も賛成するよ。君を州ガモの仲間として迎え入れよう。明日までにIDを発行して人参房に届ける」
檸檬の濁った瞳に、微かに喫驚の光が走った。
「なんで——」
檸檬が会長の方を見上げると、会長は慈悲深き菩薩と遜色ない笑みを浮かべた。
「第一に、フロイトが攻撃を続ける限り、我々州ガモの住民は必ず攻略せねばならない。現状ただ一人、君はフロイトに繋がる手がかりであり、誰よりもフロイトと戦ってきた経験がある。我々を助けてくれ。それにもう一つ。州ガモの人間たるもの、そんな青白い顔であんな切ない事を云う娘っ子を、ただ見送ることなど断じて出来ぬ。何故なら——」
我々は今、マチルダ町会長が町会長たる所以を、ここぞとばかりに見せつけられている。私と、それからあの滝川を含めた州ガモの町内会一同は、一斉に立ち上がって檸檬の方を向いた。
「州ガモの幸せ、私の幸せ。私の幸せ、貴方の幸せ。貴方の幸せ、私の幸せ。皆の幸せ、州ガモの幸せ」
州ガモの住民が小学校に入学して一番に教わるスローガンを我々は会長に続いて斉唱し、ふるさと会館の空気は震えた。このスローガンは大昔に当時の小学生が考えたものらしく、それが今も受け継がれているらしい。檸檬はどうするべきか分からずに、ただ我々を見ていた。
「まあ、あれっすよ。要するに州ガモのみんなは檸檬さんのこと仲間だと思ってるってことっすよ! これからもここにいていいんすよ!」
滝川という狡猾な生き物は、こういう時にだけたい焼きの尻尾を掠め取るトンビの如く出しゃばってくるのだ。その丸眼鏡の奥に覗く貴様の軽薄な眼差し、檸檬を騙せても私の目は誤魔化せない! 滝川は檸檬の顔を覗き込んで励ますように微笑んだ。
「しかし……なぜ余所者の私を信じる。私が皆を騙しているのかもしれないのだぞ」
檸檬はどうしても自身が裁かれるべきであり、誰からも手を差し伸べられるべき存在ではないと思い込んでいるらしい。確かにそうすることで、ある意味では凄惨な過去と共存し折り合いを付け、痛み続けることで痛みを和らげることが出来るのかもしれない。しかし我々州ガモの住民はありがた迷惑であろうと、他人に対しても幸福を追い求める勇気というものを与えたくなってしまうのだ。檸檬は流れ着く場所を間違えたのかもしれないが、間違えた先が州ガモであった時点で、彼女がこうなることは必然であったのだ。
「いいから! 檸檬さんももう、立派な州ガモの住民ですよね? 皆さん」
滝川が町内会の皆の方を見、我々は深く頷いた。
「そういうこと」
会長がそう言うと檸檬はまだ呆然としていたが、先ほどよりかはほんの少し顔に血が通っているように感じられた。
その後はマチルダ町会長が“透明人間”の正体がフロイトであるという事を伝え、州ガモで一丸となり二度と犠牲者を出さぬよう施策を行うべきであると告げ、我々は両手を掲げて賛成し、今後の方針について大まかに話し合って、フロイトの襲撃で始まったパニック役員会は閉会した。皆がふるさと会館を後にしはじめた。
「さっきは本当にごめんねえ。あんたはこれから可愛い服着て、美味しいもの食べて、いろんなとこに行きなさい。そして情緒あふれる州ガモの住民として、これからもここにいなさいな」
我々も一旦人参房に戻ろうかという頃、呉服屋の女将がわざわざこちらへやってきてまた瞳を潤わせながら、未だ呆然としたままの檸檬の肩を持ってそう語りかけた。
「それにしてもねえバニ沢さん、去年の産業祭りのシャツなんて、あまりにも可哀想よ!」
女将は檸檬の着ているシャツの裾を持って私に抗議した。
「いやあ、申し訳ないです。とりあえず着替えをばと思ってタンスをひっくり返してみたのですが、本当にそれしか無かったんです」
私は苦笑いをして肩をすくめた。
「んもう。明日檸檬ちゃんにいい服、持っていくから」
女将は柔らかく微笑んでそう告げると私と滝川にお辞儀して、立ち去っていった。
女将を見送り、マチルダ町会長をはじめとした面々に挨拶を済ませてからようやく我々はふるさと会館を出て人参房へと戻った。
0
お気に入りに追加
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる
フルーツパフェ
大衆娯楽
転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。
一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。
そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!
寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。
――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです
そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。
大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。
相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる