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1巻

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 男は、真っ直ぐに私を見据えた。
 強く、濃い金色に輝く瞳。下手な嘘をついても、見透かされそうな。

「俺の名はレオン。レオン・エヴァンジェリスタ・ド・グラディウス。グラディウス三公爵家の一つ、通称エヴァンジェリスタ公の当主だ」
「さん、こうしゃく」

 三人の公爵様。彼がそのうちの一人。エヴァンジェリスタとは?
 ……よくわからない。偉い人だということはわかったが。
 男は辛抱強く解説を続けた。

「グラディウス公爵家、というのがもともとあって、ここ一千年くらいは三つに分かれているのだ。優劣はない。単に一族の運営上、三家で動かすのが最適、と昔々の当主が判断したらしい。それがグラディウス三公爵、と呼ばれる所以ゆえんだが、それぞれに従う者たちからすれば、区別がないと困るだろう? どの公爵家に属するか。それで通称がある。レオン、の後にくる〝中間名〟をとって俺は〝エヴァンジェリスタ公〟と呼ばれている」

「若いのにいいご身分」も何も、本当に立派なご身分だった。美貌に若さに権力。まあ素晴らしいこと。非常識に広いベッドもやむなし。二名以上の複数利用可。わかるわかる。群がる花々。めくるめく酒池肉林の世界……
 私は納得して神妙に頷いた。神妙な顔をしているつもりだったが、そうではなかったのかもしれない。金髪男、もといエヴァンジェリスタ公は、「君は何か失礼なことを考えているのではないか」とぶつぶつ言っていたが、「君は俺のことをレオンと呼べばよい」と寛大にも仰せられた。

「いきなり名前で呼ぶなんて恐れ多いですよ」
「恐れている顔には到底見えないがな」
「顔につきましては、ひらにご容赦を。でも、本当ですよ。これからお世話になる方、それも〝一族の当主〟たる方を名前でなんて」
「……意外にまっとうなことを言う。人の寝台で全裸で寝ていた割には」
「だから、望んで脱いだわけではありません!」
「まぁ、眼福だったし、望んだかどうかなんてどうでもいいさ」
「ご自分で振っておいてどうでもいいとか、本当に偉い人ってのは……」

 なんて気ままなんだ。

「とにかく、俺の呼称は俺が決める。君は俺をレオン、と呼ぶように」

 最後は、柔らかくも否とは言わせない威厳で、私を黙らせた。
 仕方がない。
 私はふぅっと一つ息を吐いた。

「レオン、様」
「それでいい。今は、な」

 レオン・エヴァンジェリスタ・ド・グラディウス公爵様は、意味深にそう言って、満足気に微笑んだ。

「……さて、リヴェア」
「! ……はい」

 今、さらっと、名前呼びされた! まぁ、いいけれど。エミールさんとか言われても気持ち悪いしね。とはいえ艶のあるテノール、ずん、と腰にくるので不意打ちはやめていただきたい。

「理屈はわからないが、君はここにいる。星の並びだか超常的な力が働いたのか、正確な理由はたぶん誰にもわからない。ならば俺がすべきことは、君の戸籍を作ることだ。ついでに、身分も。この二つは不可欠だ。これからの君のために」

 レオン様は淡々と言った。
 思考の切り替えが早い。とても切れる人のようだ。この人の権力は、張りぼてではないのだろう。

「俺の傍らにいるとなると、ただ身元を作るだけでは心許こころもとない。身分がいる。グラディウス家は実力主義だが、実力を発揮したこともない者をいきなり登用するのはさすがに無理だ。身分があれば、ある程度なら問題はないが」

 何から何まで、おっしゃる通り。〝俺の傍らに〟、というところについて、もう少し説明を求めたいところだが。

「俺の一存でどうにでもなるとはいえ、辻褄合わせや根回しは相当必要だろう。……さて、まだ夜半だし、宴の後で今日は公休だし、ちと気が引けるが……」

 あいつを呼ぶか。
 独り言のように、レオン様はそう付け加えた。
 あいつとは?

「俺の副官だ」

 黙って首を傾げた私に答えるように、レオン様は言った。

「とんでもなく優秀な男でな。あらゆる分野に突き抜けていて、不得手な事など何もないんじゃないか? 俺はいつもあいつに、天才は早死にするというからもう少し阿呆になれ、お前がちょっとくらい阿呆になってもその辺の秀才十人分くらいにはなるから、と言ってやっているんだ」

 屈託ない笑顔で、レオン様は言った。
 純粋に、その人のことを高く評価しているようだ。この人自身も相当な切れ者だろうに、副官のことをこんなにも褒めちぎるなんて。
 ……素敵な、人だ。ご身分や、姿形だけじゃなく。
 私はあらためてレオン様に見入った。見惚れた、といったほうが正しかったかもしれない。
 レオン様はそんな私をちょっと真顔でしげしげと見てから、にやりとした。
 色気のある悪党面、という感じ。

「いい目をするじゃないか。その調子だ」

 わけのわからないことを口にする。
 私は我に返って、思わずおうむ返しに問いかけた。

「……どんな目ですか、それ」
「隙だらけで、男をその気にさせる目だ」
「からかわないで下さいな」

 とたんに、不快な記憶がいくつもフラッシュバックする。
 女というだけで、どれだけ辛い思いをしたか。きっと私が辛かっただけじゃなく、周りにも迷惑をかけたり、不快にさせたりしていたのかな。きっとそうに違いない。私のせいで。
 少し気持ちがどんよりしかかったが、レオン様の次の行動に私はのけぞった。

「⁉ ……ちょっと、レオン様、何してらっしゃる……⁉」
「……あぁ、思った通りだ」

 私の隙をついて、レオン様はいつの間にか立ち上がっていた。体操座りをする私の前に移動し、両肩に手を置いて身を屈めて顔を寄せている。
 私の、うなじに。

「……君、いい香りをしている。数種の香草と、柑橘一種、あとは……君自身の香りだ」

 レオン様は、私のうなじの匂いを嗅いでいたのだ!
 薄暗い寝室。若い男女。男の吐息をうなじに受けて、女はえも言われぬ感覚に身を震わせ……
 って、状況だけみればとっても色っぽいんですけれど!
 首元に感じるのは吐息ではなく、鼻息。興奮してるのではなくって、匂いを嗅いでる⁉

「……ものすごく、いい香りだ。まずは、君のその香水? を調合させて、君にまとわせて。それからちょっとばかり君が興奮するといいのか。たぶん、それでこの香りに……」

 切れ者。素敵な人。私、先ほど確かにそう思いました。ええ、確かに。でも、その前に。
 ……匂いフェチの変態公爵でいらっしゃいましたか。
 私が美形公爵様の衝撃の嗜好しこうに固まっているうちに、彼は最後に一つ、深呼吸をして立ち上がった。
 たいへん、ご機嫌が麗しいご様子だ。
 正直、ドン引きで彼をまじまじと見ていると、レオン様は朗らかに、

「君のその香水、気に入ってるからつけているのだろう? ……安心しろ、俺が同じものを作ってやる。というか、指示して作らせよう」

 と、のたもうた。
 いいえ、お気持ちだけで十分です、と即答することなく、私はかろうじて礼儀正しく沈黙を守る。
 この方は香水をプレゼントして私を喜ばせたいのではない。
 香水をプレゼントして私につけさせて、あろうことか興奮させて私の発する体臭と香水のハーモニーを楽しみたいと思っているのだ(詳細に解説すると改めてマニアックだ)。
 そんなものを貰ったら、今すぐつけてみろ、とか言われて、さらに、私が興奮するためにどんな不届きなことをされるのやら。考えたくもない。
 一人震えている間に、レオン様はすい、と表情を引き締めた。
 長い指を変わった形に組んで唇にあてると、一瞬、びゅっ、と鋭い音を立てた。いわゆる「指笛」とはまったく異なる、かなり特殊な音だ。
 すると、どこからかすぐに、似たような音が短く二回、かすかに聞こえた。
 天井から?

「すぐに、あいつをここへ。大人の女性が一人、隠れるくらいの絨毯じゅうたんを担いでくるようにと」

 レオン様は顔を天井に向けて、短く言った。
 するともう一度、天井から先ほどの音が短く二回聞こえた。了解、という意味なのだろう。
 リアル忍び! 便利だな!

「廊下の衛兵に伝言するより、このほうが早いんだ」

 と、レオン様は言った。
 でしょうね、と私は黙って頷く。あれは何? どうやって、誰に頼んだの? とか解説を求めるのは野暮な気がする。必要があれば教えて下さるだろうし、たぶん今は、私にとって必要な情報ではない。

「……それより、彼が来るまでに君のその格好を何とかするか」

 そうだった。今の私は、男物のシャツの中で、体操座り。

「俺の趣味のように思われる。まあ、誤解されたところで何ということはないし、彼には事情は説明するつもりだが。それにしても、君の女性としての尊厳、というものがあるだろう」

 紳士ですね。まあ、公爵様ですものね。

「俺のローブでも着ておくか。で、そのシャツはもう一度俺が着る」

 レオン様は壁際へ歩み寄ると、どこかを軽く押す。すると、どういう仕掛けか、タペストリーが一枚巻き上がった。壁も動いて、ぽっかりと空間が出来上がる。クローゼットらしい。
 いったんレオン様の姿が消え、またすぐ現れる。彼はローブらしき白い柔らかそうな布のかたまりを手にしていた。

「寝台のとばりの中で着替えるといい。そら」

 ローブをぽーんとこちらに放ってくれた。ありがとうございます、と言って私はそれを両手で受け止めようとして……もとい、受け止めて、バランスを崩した。

「うわぁっ‼」

 バランスを崩した私は、ローブを抱きしめたまま、前のめりにベッドの端から転げ落ちた。
 ……そう、ノーパンで(もともと全裸なのだから当然だ)、シャツの中で体操座りの格好のまま。
 ぱんつを穿かないハンプティ・ダンプティがでんぐり返しの最中にばたばたしているところをご想像いただきたい。シャツから膝が抜けない。
 でも身動きすると、真上から私の、お尻や恥ずかしいところが……!
 冗談じゃない! もちろんAVでもない!

「‼ ……助け、いや、見ないで下さい‼」
「……見るなと言われてもな。まぁ、これ以上は近寄らないから落ち着いて膝を抜け」
「そこは見ないと言って下さいよっ」

 自主的に羞恥プレイを披露する羽目になり、起き上がってシャツを脱ぎ、ローブに着替えた頃には私は涙目になっていた。
 何を言ってもこっぱずかしくなるだけなので、黙ったままシャツを手に、壁際にいた(確かに、近寄らないという約束は守ったらしい)レオン様に近づく。脱いだシャツを今から着るというので、わざわざ畳むのも何だし、着せて差し上げようと思ったのだ。

「……ああ、ありがとう」

 シャツを手渡しされると思っていたらしいレオン様は、軽く目をみはった後、すぐに私に背を向けた。手を借りることが当たり前なのだろう。ごく、自然な動作だ。
 白くなめらかな肌には、意外にもあちこちに大小の傷があった。背中には程よく筋肉がついている。無理をして作った硬い筋肉ではない。しなやかに、美しく鍛えられた男性の背中。後方で、十重とえ二十はたに守られているだけの公爵様ではないのかもしれない。
 シャツの袖に手を通してもらい、前に回ってボタンを止めている最中に、控えめなノックの音とともに、「カルナック大佐殿がお見えです」と、衛兵の声がした。
 ……カルナック大佐。レオン様いわく、天才肌の副官。
 入れ、と応答するレオン様の声と同時に、扉が開いた。長身の男性が、絨毯じゅうたんを一巻、肩に担いでいる。この真夜中に(夜半、とレオン様が言っていた)、お気の毒なことである。とても珍妙な光景だ。
 私は同情しつつその男性を眺めた。
 レオン様のシャツと似たような、でも、レオン様のそれよりはもう少し体の線が出る黒シャツに黒のパンツ、黒のブーツ。黒づくめで、先ほど「副官」と聞いていなければ、この人が忍びかと思ってしまう出で立ちである。覆面していたら完璧なのに、と思いながらお顔を拝見し。

「……」

 固まった。

「……こちらを、床に置いても?」
「ああ、その辺に置いてくれ。用途はいずれわかる」
「……もう、わかったような気が致しますが」
「だろうな」
「何事かと思いました。あなたが、こんな時間にこのようなことを」
「悪かった。しかし、どうしても内密に、そつなく根回しすべき緊急事態が発生したのだ」
「あなたが女性のことでやらかすとは」
「やらかしてはいないが、まあ成り行き上だ」

 気安い会話が隣で交わされる中、私はまだ石化していた。
 ……カルナック大佐は、猛烈な美形でした。人外レベルの美形でした。的確な言葉が見つかりません。
 耳を覆うか覆わないか、くらいの真っ直ぐな銀髪。宝石のような濃い紫色の瞳。左右対称に、完璧に配置された目、鼻、口。玲瓏れいろうたる美貌は、女子の好物、細マッチョ体型と相まって、神の手による彫像のようだ。手足は長くて、当然、というべきか、長身である。二メートルくらいはあるだろう。
 この容姿でさらには天才。天は二物を与えずというけれど、ありったけ与えられている感じだ。

「……リヴェア。俺の副官のカルナック大佐だ」
「オルギール・ド・カルナックと申します」

 涼やかな、テノール。レオン様の艶っぽい声とはまた違う。
 彼は無表情に私を見つめた。

「……リヴェア・エミールです」

 どうにかこうにか、私も名乗る。声を出したことによって、私はようやく平静を取り戻すことができた。
 カルナック大佐は、紫水晶のような瞳で、私を冷静に観察しているようだ。
 どのような判断を下したのかわからないが、程なくして彼は軽く頷く。そして右手の拳を左肩にあて、うやうやしいと言ってよいほど深く、腰を折った。
 騎士様の正式な挨拶だろうか?
 そんな彼を、レオン様は興味深気に眺めながら、珍しいな、と呟いた。


     * * *


 薄暗い寝室での立ち話を中断し、私たちはレオン様の居間に移動した。寝室とは内扉でつながっている。
 広い。でもだだっ広いわけではない。重厚で、けれども堅苦しすぎない、落ち着いた調度品が並べられている。
 中央にはソファセット。金糸の織り込まれた山吹色の布が張られたソファは、とても座り心地がよさそうだ。壁際には、おそろいの寝椅子もある。
 大きな窓は、ソファより少しだけトーンを落とした色のカーテンで覆われている。
 大きな燭台がいくつも置かれ、タペストリーも寝室とは異なる華やかな柄。黄金色系の布がそこかしこにあしらわれていることもあり、部屋はとても明るく感じた。
 二人にとっては勝手知ったる場所だからだろう。誰がどこに座るかなどの声掛けもなく、さっさと二人は腰を下ろした。さて、私は。
 どこに座ればいいですか? と聞こうとした矢先、レオン様はごく自然に私の手を引いて腰に手を回し、自分の膝の上に私を乗せた。
 もう一度繰り返すが、膝の上に。

「……あの、レオン様。これは、ちょっと」

 公爵様の硬い脚の感触と、至近距離のまばゆい美貌にうろたえ、私は口ごもる。

「閣下。何をなさっておられるのですか?」

 無表情に、カルナック大佐は言った。

「……何って、見ての通りだ、オルギール」

 レオン様の大きな手が私の腰あたりを軽く撫でまわす。
 冗談めかしているとはいえ、居心地が悪いことこの上ない。

「こうやっていると、俺がこの女性に骨抜きに見えるかな?」
「面白がっておられるようには見えますが」

 膝に乗せたくらいでは、骨抜きなどとてもとても。まさかあなたが。
 と、カルナック大佐はにべもなく言い放った。

「ノリの悪い男だな」
「その必要を感じません。本来なら業務時間外ですので」
「その通りだ。呼びつけて悪かった」

 レオン様はさして悪びれもせず、相変わらず私の腰を撫でながら、膝に乗せた私を見上げた。
 そして表情を引き締め、あらためて信頼する部下に目を向ける。

「……オルギールに頼みがある。リヴェア・エミールの戸籍と、身分を大至急作ってほしい。明日、じゃないな。もう夜明け前だから今日中に」
「立ち位置はいかがなさいますか? 骨抜き、とおっしゃいましたが。女性としてでるだけの身分でよろしいなら簡単ですが、今後執務に携わらせるおつもりなら、それ相応にしなくてはならないでしょう」
「君は、今後どうしたい?」

 レオン様は、不届きな手をようやく止めて言った。

「君一人くらい、どのようにでもできる。飼い殺しになりたいか、何をしたいか。何ができるのか」

 寄る辺ない君の希望をかなえよう。
 親切そうな言葉だが、琥珀こはくのような金色の瞳に浮かぶ皮肉な光を見れば、額面通りになど到底受け取れない。
 私の回答次第で、処遇が決まる。下手をするとこの先一生にかかわるだろう。
 ……したいこと? マッパで異世界転移して、したいことなど何もない。
 いまだにまだ、夢オチかもとほんの少し思っているのに。
 何も、思い浮かばない。でも、何ができるのかと問われれば。
 柔道、空手、特に、カンフー。剣道、フェンシング、刀子とうす投げ。弓道、アーチェリー。馬術。もちろん、銃火器の扱いも特殊部隊の教官をこなせるほどの腕前だが、この世界に銃火器はなさそうだ。
 最も得意とするのはゲリラ戦だ。とにかく、軍事全般に長けた私は、「鋼のリヴェア」と二つ名がつくほどだったのだ。
 これを伝えて、危険人物と、今更ながら排除されないだろうか。
 黙って私の答えを待つ二人の気配を感じながら、私は唇を噛みしめた。


     * * *


 今、私はカルナック大佐に担がれて移動中である。
 絨毯じゅうたんに巻かれているので、周囲の様子は見えない。
 カツンカツンとカルナック大佐の軍靴の音だけが、やけに耳に響く。
 静かだが、でも、無人ではないらしい。部屋を出た後、衛兵が挨拶する声がしたし(絨毯じゅうたんを運ぶ手伝いを申し出て、カルナック大佐に即効で断られていた)、歩を進めるごとに、黙ってかかとを鳴らす者(たぶん、敬礼をしている)、お勤めご苦労様です、と声をかける者など、相当数の人間の気配がする。警備の兵士たちなのだろう。
 夜半に絨毯じゅうたんを担ぐ彼は、物凄く違和感があったに違いないが、誰も事情を尋ねようとする者がいないのは、さすがと言うべきか。無駄口は叩かない。よく、躾けられている。
 長い廊下を歩き、階段を数階分は下りた。いくつかの角を曲がる気配ののち、ようやく扉の音がして、室内に入ったとわかる。

「エミール殿。寝台に降ろしましょうか」

 感情のない声で、カルナック大佐は言った。

「……いえ、床に置いて下さい」

 私は、慌てて答えた。さっきまで床に転がしてあった絨毯じゅうたんを、これから自分が寝ることになるだろう寝台に置いてほしくはない。
「入退城記録のない人間」を運ぶために絨毯じゅうたんで隠したのは理解できたが、どこにあったかわからない絨毯じゅうたんに入るのだって本当は嫌だったのだ。

「床に置いて、転がして下さいな。巻いた絨毯じゅうたんから一人で出るのって、結構難しくって」
「わかりました」

 丁寧に絨毯じゅうたんが降ろされる。目をつむってころころと転がり、私はようやく解放された。
 思わず伸びをしながら、大荷物を運んでくれた彼にお礼を言おうと目を向けると。
 鋭く光る、紫の瞳が間近にあった。極上の宝石のようなそれがわずかに細められる。

「⁉」

 私は間一髪で身を反転させ、彼の手から逃れた。跳ね起き、身を低くして次の攻撃に備える。
 無言のまま、次の攻撃は繰り出された。何度も、何度も。
 音もなく、長い手足を使って私を床に沈めようとする彼の動きは、こんな状況でなければ見惚れるほど美しかった。
 舞踊のようだ、と言ってもよかったかもしれない。
 そんなことを考えながら、最小限の動きですべての攻撃をかわす。
 わかっていた。手練てだれの、恐ろしいほどの身のこなしだけれど、彼は本気ではない。
 私の動きを見ているのだ。実力を測るための動き。
 間違いなくワザとだとは思うが、本当にごくわずか、攻撃の手が緩んだ瞬間、私は二、三回バク転をして、彼と距離をとった。

「……どういうおつもり?」
「いい腕をしておられますね、エミール殿」
「ずいぶんと荒っぽいご挨拶ですこと」

 私は精一杯カルナック大佐を睨みつけた。
「挨拶なら先ほど済ませました」と平然と応じる彼は、嫌味なことに息一つ乱していない。
 まあ、私もだけれど。

「試したのね!」

 今更だが、素っ裸に男物のローブを着ている私が戦うのは、色々な意味でハンデだらけだった。
 きっちりと着込んでいたとはいえ、胸ははだけそうだったし、足を上げるたびに大事なところがすうすうして、心許ないことこの上なかったのだ。

「……異世界転移直後で心身ともに衝撃を受けている女性に、よくもこんな仕打ちを……。覚えておくといいわ、呪ってやるんだから」
「あなたに呪われるなら本望ですよ」
「なっ⁉ ……こ、このっ……」

 馬鹿、とか、たらし、とかいう悪態は、すべて私の口の中で消えた。
 オルギール・ド・カルナック大佐は、その凄絶せいぜつな美貌を緩ませ、ふわりと微笑んでいたのだ。
 美神の彫像に命が宿ったようだ。値千金どころか、まさにそれはプライスレス……
 あまりの衝撃に頭のネジが二、三個飛ぶ音がした。

「……」

 カルナック大佐は優雅に膝をつき、びっくりするほど丁重な仕草で私を助け起こした。
 もちろんその間、私は絶賛放心中である。

「エミール殿は、先ほど嘘をつかれたでしょう? できることなど特にない、侍女にでもしてほしいと」

 ……そう。私はさっき、何ができるかと問われて、結局は本当のことを言えなかった。
 侍女にでもしてほしいと答えたのだ。得意なことなど特にないが、誠実に仕事をする自信はあると。侍女はあくまで思いつきで、もちろん下働きでも何でもいいから、と。
 彼は私の手を取って、そっと口づけた。


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