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ワンナイトラブの直前の事情。5.
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博物館の目玉、‘ユリの王子’の正面に立って、食い入るように見つめる若い女性。
なんとなく、ではあるが「日本人かな」と直感が告げた。
だから「そろそろいいか?」と声をかけた。
可能性は低いが、日本人ではない場合を見越して、とりあえずは英語で。
閑散期に、団体行動ではなく博物館を訪れる日本人女性と言葉を交わしてみたくなったのだろう。
ちょっとした出来心ではあったけれど、会話のきっかけにする言葉だったのだと、今ならわかる。
‘ユリの王子’など、生まれてこの方飽きるほど見ている。
べつに、今さら正面から鑑賞したかったわけじゃない。
──黙って物思いに耽っているらしい貴奈の邪魔にならぬよう、カトラリーの音を最低限にして、貴奈を遠慮なく視線で撫でまわしながら、アレクシオスは眼前の若い女性についてあれこれと思いを巡らす。
藍色のドレスは知的な彼女の風貌を引き立てる。
スクエアカットから見える胸元は露出面積は少ないが、滑らかそうな綺麗な肌にネックレスをひとつつけていて、その清楚さが好ましい。
すっきりと整った顔は年齢より幼く見えるが、物言いは落ち着いて冷静だ。
そのギャップがおもしろい、と思う。
さらには歴史、美術史の知識は大したもので、話すうちに彼女は博物館へ就職が決まっていると知った。自分と互角に話ができるのも頷ける。女性とこんなに時を忘れて語り合ったことがあっただろうか。
遺跡観光中に父に見初められた母ならそれなりに話は通じるだろうが、考古学者になりたかったアレクシオスの知識はとうに母のそれを抜き去り、図らずも父の後継者となってからはそんな話をする機会はさらに途絶えて何年もたった。
(この娘ともっと話したい、知り合いたい)
いつの間にか切実にそう感じている自分に、彼は気づいた。
となると、急に心配になってくる。
一緒に食事をしている、とはいえほとんどアレクシオスが一人で喋っている。
もろもろ驚かせてしまったからしかたがない、では済まされない。
会話を楽しんでいるのは、自分だけではないのか。
(げんに今も黙ってるし。結構長いこと黙ってるし)
行儀よく、静かに食事を続ける貴奈を凝視しながら、アレクシオスは落ち着かない気分になってくる。
世界的企業のバックグラウンドは、この娘にとってはまるで意味をなさないどころか、ドン引き材料でしかなかったのかもしれない。
いままで知り合った女性は百パーセント、ドゥーカスの名に喰いついた。
彼が好むと好まざるとにかかわらず。
今日の彼は、貴奈を驚かせない程度にさりげなく、誇りをもって家名を告げたのだ。
初めてのことではなかろうか。
君の前にいるのはそのへんの素性のあやしいガイドじゃないんだよと、身元保証のようなつもりで。
しかし貴奈は(もともと控えめな性格なんだろうとアレクシオスは分析している)目がぎらつくこともなく、彼の目論見とは当然異なり安堵することもなく、沈黙を続けている。
だからやっぱり過ぎる財力なんて害毒に近いんだと、おそらく彼以外の誰にも同意を得られない結論に至って、アレクシオスは思わず舌打ちをした。
びくり、と貴奈が怯えたように肩を震わせる。
「アレク、さん……」
「悪い、マナー違反だ。忘れてくれ」
アレクシオスは慌てて言った。
静かな夜のように綺麗な貴奈の黒い瞳が少しでも翳るのを見たくなくて、アレクシオスは自覚なくうろたえる。
「舌打ちなんかしてすまなかった。嫌な気分にさせただろう」」
貴奈にしてみれば、食事の席でろくな相槌も打たずに黙りこんでしまい、自分こそマナー違反でおまけに詰まらないからあきれさせてしまったのでは、と思っただけなのだが、恐る恐る見上げたアレクシオスは眉尻を下げて苦笑いをしている。
きりりと引き締まった表情が柔らかくくだけて、どきりとするほど魅力的だ。
「厄介な氏素性だから驚かせてしまったようだな」
「厄介だなんて、そんなことは」
黒髪を左右に散らして、貴奈はけんめいに頭を振って否定する。
「すごい」ことはあっても「厄介」だなんて、卑下する必要はない。
この四月からは社会人になるというのに、子供っぽく驚き過ぎた自分が悪い。
「アレクさん、黙ってしまってごめんなさい」
まずは、貴奈はカトラリーを置いて深く一礼した。
予想外の反応に、アレクシオスが目を丸くしていることだろう。
気配だけでわかる。
「確かに、とても驚きました。しばらく口もきけなくなったくらい。本当にすごい立場の方なんだなって」
すごくないよと言っては嘘になるから、アレクシオスはようやく気を取り直してくれたらしい貴奈の言葉に黙って耳を傾ける。
「いいお部屋に変えて下さったことも素敵なレストランも嬉しいサプライズです。私、お礼が足りていなかったですよね。本当に有難うございます」
あらためて律儀にお礼を言われ、アレクシオスは口の中でもごもごと「どういたしまして」と応じた。
「でもね、アレクさん」
すいと綺麗に背筋を伸ばして、貴奈はまっすぐにアレクシオスを見つめた。
なんとなく、ではあるが「日本人かな」と直感が告げた。
だから「そろそろいいか?」と声をかけた。
可能性は低いが、日本人ではない場合を見越して、とりあえずは英語で。
閑散期に、団体行動ではなく博物館を訪れる日本人女性と言葉を交わしてみたくなったのだろう。
ちょっとした出来心ではあったけれど、会話のきっかけにする言葉だったのだと、今ならわかる。
‘ユリの王子’など、生まれてこの方飽きるほど見ている。
べつに、今さら正面から鑑賞したかったわけじゃない。
──黙って物思いに耽っているらしい貴奈の邪魔にならぬよう、カトラリーの音を最低限にして、貴奈を遠慮なく視線で撫でまわしながら、アレクシオスは眼前の若い女性についてあれこれと思いを巡らす。
藍色のドレスは知的な彼女の風貌を引き立てる。
スクエアカットから見える胸元は露出面積は少ないが、滑らかそうな綺麗な肌にネックレスをひとつつけていて、その清楚さが好ましい。
すっきりと整った顔は年齢より幼く見えるが、物言いは落ち着いて冷静だ。
そのギャップがおもしろい、と思う。
さらには歴史、美術史の知識は大したもので、話すうちに彼女は博物館へ就職が決まっていると知った。自分と互角に話ができるのも頷ける。女性とこんなに時を忘れて語り合ったことがあっただろうか。
遺跡観光中に父に見初められた母ならそれなりに話は通じるだろうが、考古学者になりたかったアレクシオスの知識はとうに母のそれを抜き去り、図らずも父の後継者となってからはそんな話をする機会はさらに途絶えて何年もたった。
(この娘ともっと話したい、知り合いたい)
いつの間にか切実にそう感じている自分に、彼は気づいた。
となると、急に心配になってくる。
一緒に食事をしている、とはいえほとんどアレクシオスが一人で喋っている。
もろもろ驚かせてしまったからしかたがない、では済まされない。
会話を楽しんでいるのは、自分だけではないのか。
(げんに今も黙ってるし。結構長いこと黙ってるし)
行儀よく、静かに食事を続ける貴奈を凝視しながら、アレクシオスは落ち着かない気分になってくる。
世界的企業のバックグラウンドは、この娘にとってはまるで意味をなさないどころか、ドン引き材料でしかなかったのかもしれない。
いままで知り合った女性は百パーセント、ドゥーカスの名に喰いついた。
彼が好むと好まざるとにかかわらず。
今日の彼は、貴奈を驚かせない程度にさりげなく、誇りをもって家名を告げたのだ。
初めてのことではなかろうか。
君の前にいるのはそのへんの素性のあやしいガイドじゃないんだよと、身元保証のようなつもりで。
しかし貴奈は(もともと控えめな性格なんだろうとアレクシオスは分析している)目がぎらつくこともなく、彼の目論見とは当然異なり安堵することもなく、沈黙を続けている。
だからやっぱり過ぎる財力なんて害毒に近いんだと、おそらく彼以外の誰にも同意を得られない結論に至って、アレクシオスは思わず舌打ちをした。
びくり、と貴奈が怯えたように肩を震わせる。
「アレク、さん……」
「悪い、マナー違反だ。忘れてくれ」
アレクシオスは慌てて言った。
静かな夜のように綺麗な貴奈の黒い瞳が少しでも翳るのを見たくなくて、アレクシオスは自覚なくうろたえる。
「舌打ちなんかしてすまなかった。嫌な気分にさせただろう」」
貴奈にしてみれば、食事の席でろくな相槌も打たずに黙りこんでしまい、自分こそマナー違反でおまけに詰まらないからあきれさせてしまったのでは、と思っただけなのだが、恐る恐る見上げたアレクシオスは眉尻を下げて苦笑いをしている。
きりりと引き締まった表情が柔らかくくだけて、どきりとするほど魅力的だ。
「厄介な氏素性だから驚かせてしまったようだな」
「厄介だなんて、そんなことは」
黒髪を左右に散らして、貴奈はけんめいに頭を振って否定する。
「すごい」ことはあっても「厄介」だなんて、卑下する必要はない。
この四月からは社会人になるというのに、子供っぽく驚き過ぎた自分が悪い。
「アレクさん、黙ってしまってごめんなさい」
まずは、貴奈はカトラリーを置いて深く一礼した。
予想外の反応に、アレクシオスが目を丸くしていることだろう。
気配だけでわかる。
「確かに、とても驚きました。しばらく口もきけなくなったくらい。本当にすごい立場の方なんだなって」
すごくないよと言っては嘘になるから、アレクシオスはようやく気を取り直してくれたらしい貴奈の言葉に黙って耳を傾ける。
「いいお部屋に変えて下さったことも素敵なレストランも嬉しいサプライズです。私、お礼が足りていなかったですよね。本当に有難うございます」
あらためて律儀にお礼を言われ、アレクシオスは口の中でもごもごと「どういたしまして」と応じた。
「でもね、アレクさん」
すいと綺麗に背筋を伸ばして、貴奈はまっすぐにアレクシオスを見つめた。
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