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参 呼びかける真名(なまえ)
《二》ほんとうの名前を教えてあげたい【後】
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「解るか、この違いが。
今この瞬間、お前が本来の花嫁として在れば、お前の気の乱れだけでハクコの眷属がお前の異変をとらえ、この場にやって来たはずだ。また、お前がハクコを想うだけで、奴がお前を助けに来ることも。
───だが」
のどに置かれた百合子のひじに、ぐっと力が入り、咲耶は嘔吐きそうになる。
「私が今、お前ののどをつぶす。お前は、瀕死の状態となる。中途半端な仮の花嫁は、すぐには死ねない。苦しんで、もがくお前を終わらせてやるために、その首をへし折ってやろう。それで、死ねるはずだ」
そんな恐ろしいことを、実行する能力も気力も持ち合わせているのだと、百合子は言っていた。
(どうして百合子さんは、こんなことをするの───?)
咲耶の訴えかける思いに気づいたように、百合子は冷たく笑った。美しさと残酷さを秘めた眼差しが咲耶に注がれる。
「人が人を殺めるのに、納得できる理由があると思うな。それは大抵、身勝手な心に基づく愚かな行いだ。理不尽なものでしかない。
そして」
言うなり百合子の腕が外され、咲耶は急に取り込めた酸素にむせ返り、反射で涙があふれた。身体中から力が抜け、その場にくずれるようにして座りこむ。
「……お前がいるのは、そういう世界だ。理不尽な暴力がまかり通る、場所だ」
先ほどまでの口調からうって変わった百合子の声は、何かをあきらめたようにも聞こえる、力のない寂しい響きのものであった。
咳き込みながら、涙でにじんだ視界のまま見上げれば、百合子の顔が悲しみに満ちていた。
「今なら、まだ間に合う。仮の花嫁であるうちは、お前や───私がいた『あの世界』に戻れる」
咲耶は驚いて、百合子をまじまじと見た。ゆっくりと、うなずき返される。
「帰れるのだ。今なら、まだ。……親御は、健在か?」
声が出せない咲耶は黙って首を縦に振ってみせた。百合子の目が、細められる。
「ならば、なおさら帰ったほうがいい。お前がいなくなったことを、案じているはずだ」
その言葉は、咲耶の胸の奥底をえぐった。あえて触れずにいた部分に、土足で踏み込まれた気がした。
「ハクコの眷属が、あの犬だけでは、お前とハクコが同時に窮地に追い込まれたとき、あれはどちらを選ぶと思う?
お前は、あの者を賢いと言ったな? 私からすれば、賢さよりも情で動く性質に見えたが。理性よりも感情が優先される『賢い眷属』は、付き合いも浅く花嫁としても不完全なお前を、選ぶかな?」
百合子の問いかけは、容赦ない。答えの出ている問答に、意味はなかった。咲耶の……いや、ハクコの甘さを指摘しているのだ。
「解ったか? お前はこのまま『こちら』に居ても、意味がないどころか、無駄に命を落とす危険性をはらんでいるのだ。
親御が健在なら『あちら』に戻って、その庇護のもとにあるべきだ。お前が帰ると決めたなら、私と闘十郎が責任をもって───」
「帰れません!」
百合子の言葉をさえぎって、叫ぶように咲耶は言った。
のどはまだ痛く、胸のつかえが下りたわけではない。百合子の語る事実も、いまの咲耶には、変えようがないけれども───。
「私は……帰れません。まだハクに、名前を教えてあげられてない」
いらだったように、百合子はしゃがみこみ、咲耶をのぞきこんだ。肩に、手が置かれる。
「だから帰れると言っているのだ。お前が『こちら』に喚ばれたのは、不幸なこと。
契りの儀を前に逃亡していれば、殺されていただろうし、逃げずにいても、ハクコに“痕”を付けられる際、死んでいたかもしれぬのだ。そういう……理不尽な世界にいるのだぞ?」
咲耶の肩をゆさぶる百合子の必死の形相に、ようやく咲耶は、自分が百合子に嫌われていたのではなく、心配されていたのだと気づいた───咲耶よりも、ずっとずっと前に、この地に降りた花嫁。その、知識と経験からなる憂慮でもって。
百合子の真意に、咲耶は胸をうたれながらも、自分の想いを貫くために口を開く。
「でも、百合子さん……私は生きていて、あの人の名前を知っているんです」
咲耶の言葉に、百合子は信じられないといわんばかりに、首を左右に振った。
「それは、つまらない責任感がなせる自己欺瞞だ。名前を知っている? それが、なんだというのだ。
先ほども言ったが、これからお前に災厄が降り掛かっても、助けてもらえぬような事態に陥るかもしれぬのだぞ。それと引き換えにする価値が、あやつの名前にあるというのか?
実際お前はたやすく私の手に落ち、そしてハクコもその眷属も、お前を助けにくることはなかったではないか」
突きつけられる事実は、咲耶の心をわずかに苛む。誰にも助けてもらえずに、死ぬかもしれない───。
……自分の感覚は、麻痺しているのだろうか? それでも、咲耶の脳裏に浮かぶのは、白い幼い獣と生真面目な犬、年若い頑固な少女で。向けられた眼差しも言葉も、偽りのないものだと解るから───。
「私は、帰れません。というより……今日、いまさっき百合子さんに言われて、私、気づいちゃったんですけど」
泣きたいほど、愛しい感情。そんなものが、この短期間で自分のなかで育つとは、咲耶自身、思いもよらないことだった。
「帰れない……じゃなくて。私、どうやら、帰りたくないみたいなんです」
自然とこぼれ落ちる笑み。最初は、ハクコに求められるから残るのだと思っていた。けれども、いまは。
「私が、ハクに、真実の名前を教えてあげたい。ただ、そのために……帰りたくないんです」
「───愚かだな」
百合子の激情は去り、その瞳は、ふたたび冴えた静けさを取り戻していた。おもむろに立ち上がる百合子に、咲耶は思わず言った。
「百合子さんも……そうだったんじゃないですか? たぶん、美穂さんも」
帰れないから、この世界にいるのではなく。帰りたくない理由があるから、この世界にいる。だから、自分たちは花嫁でいるのだろう───。
「……いずな、戻れ」
咲耶に応えない百合子は、応えないことで咲耶の言葉を肯定していた。手もとに戻ったイタチを見せるように、百合子が言った。
「あとで、いずなに椿油を届けさせる」
───それが百合子流の、咲耶をこの世界に迎え入れるという、返答だった。
今この瞬間、お前が本来の花嫁として在れば、お前の気の乱れだけでハクコの眷属がお前の異変をとらえ、この場にやって来たはずだ。また、お前がハクコを想うだけで、奴がお前を助けに来ることも。
───だが」
のどに置かれた百合子のひじに、ぐっと力が入り、咲耶は嘔吐きそうになる。
「私が今、お前ののどをつぶす。お前は、瀕死の状態となる。中途半端な仮の花嫁は、すぐには死ねない。苦しんで、もがくお前を終わらせてやるために、その首をへし折ってやろう。それで、死ねるはずだ」
そんな恐ろしいことを、実行する能力も気力も持ち合わせているのだと、百合子は言っていた。
(どうして百合子さんは、こんなことをするの───?)
咲耶の訴えかける思いに気づいたように、百合子は冷たく笑った。美しさと残酷さを秘めた眼差しが咲耶に注がれる。
「人が人を殺めるのに、納得できる理由があると思うな。それは大抵、身勝手な心に基づく愚かな行いだ。理不尽なものでしかない。
そして」
言うなり百合子の腕が外され、咲耶は急に取り込めた酸素にむせ返り、反射で涙があふれた。身体中から力が抜け、その場にくずれるようにして座りこむ。
「……お前がいるのは、そういう世界だ。理不尽な暴力がまかり通る、場所だ」
先ほどまでの口調からうって変わった百合子の声は、何かをあきらめたようにも聞こえる、力のない寂しい響きのものであった。
咳き込みながら、涙でにじんだ視界のまま見上げれば、百合子の顔が悲しみに満ちていた。
「今なら、まだ間に合う。仮の花嫁であるうちは、お前や───私がいた『あの世界』に戻れる」
咲耶は驚いて、百合子をまじまじと見た。ゆっくりと、うなずき返される。
「帰れるのだ。今なら、まだ。……親御は、健在か?」
声が出せない咲耶は黙って首を縦に振ってみせた。百合子の目が、細められる。
「ならば、なおさら帰ったほうがいい。お前がいなくなったことを、案じているはずだ」
その言葉は、咲耶の胸の奥底をえぐった。あえて触れずにいた部分に、土足で踏み込まれた気がした。
「ハクコの眷属が、あの犬だけでは、お前とハクコが同時に窮地に追い込まれたとき、あれはどちらを選ぶと思う?
お前は、あの者を賢いと言ったな? 私からすれば、賢さよりも情で動く性質に見えたが。理性よりも感情が優先される『賢い眷属』は、付き合いも浅く花嫁としても不完全なお前を、選ぶかな?」
百合子の問いかけは、容赦ない。答えの出ている問答に、意味はなかった。咲耶の……いや、ハクコの甘さを指摘しているのだ。
「解ったか? お前はこのまま『こちら』に居ても、意味がないどころか、無駄に命を落とす危険性をはらんでいるのだ。
親御が健在なら『あちら』に戻って、その庇護のもとにあるべきだ。お前が帰ると決めたなら、私と闘十郎が責任をもって───」
「帰れません!」
百合子の言葉をさえぎって、叫ぶように咲耶は言った。
のどはまだ痛く、胸のつかえが下りたわけではない。百合子の語る事実も、いまの咲耶には、変えようがないけれども───。
「私は……帰れません。まだハクに、名前を教えてあげられてない」
いらだったように、百合子はしゃがみこみ、咲耶をのぞきこんだ。肩に、手が置かれる。
「だから帰れると言っているのだ。お前が『こちら』に喚ばれたのは、不幸なこと。
契りの儀を前に逃亡していれば、殺されていただろうし、逃げずにいても、ハクコに“痕”を付けられる際、死んでいたかもしれぬのだ。そういう……理不尽な世界にいるのだぞ?」
咲耶の肩をゆさぶる百合子の必死の形相に、ようやく咲耶は、自分が百合子に嫌われていたのではなく、心配されていたのだと気づいた───咲耶よりも、ずっとずっと前に、この地に降りた花嫁。その、知識と経験からなる憂慮でもって。
百合子の真意に、咲耶は胸をうたれながらも、自分の想いを貫くために口を開く。
「でも、百合子さん……私は生きていて、あの人の名前を知っているんです」
咲耶の言葉に、百合子は信じられないといわんばかりに、首を左右に振った。
「それは、つまらない責任感がなせる自己欺瞞だ。名前を知っている? それが、なんだというのだ。
先ほども言ったが、これからお前に災厄が降り掛かっても、助けてもらえぬような事態に陥るかもしれぬのだぞ。それと引き換えにする価値が、あやつの名前にあるというのか?
実際お前はたやすく私の手に落ち、そしてハクコもその眷属も、お前を助けにくることはなかったではないか」
突きつけられる事実は、咲耶の心をわずかに苛む。誰にも助けてもらえずに、死ぬかもしれない───。
……自分の感覚は、麻痺しているのだろうか? それでも、咲耶の脳裏に浮かぶのは、白い幼い獣と生真面目な犬、年若い頑固な少女で。向けられた眼差しも言葉も、偽りのないものだと解るから───。
「私は、帰れません。というより……今日、いまさっき百合子さんに言われて、私、気づいちゃったんですけど」
泣きたいほど、愛しい感情。そんなものが、この短期間で自分のなかで育つとは、咲耶自身、思いもよらないことだった。
「帰れない……じゃなくて。私、どうやら、帰りたくないみたいなんです」
自然とこぼれ落ちる笑み。最初は、ハクコに求められるから残るのだと思っていた。けれども、いまは。
「私が、ハクに、真実の名前を教えてあげたい。ただ、そのために……帰りたくないんです」
「───愚かだな」
百合子の激情は去り、その瞳は、ふたたび冴えた静けさを取り戻していた。おもむろに立ち上がる百合子に、咲耶は思わず言った。
「百合子さんも……そうだったんじゃないですか? たぶん、美穂さんも」
帰れないから、この世界にいるのではなく。帰りたくない理由があるから、この世界にいる。だから、自分たちは花嫁でいるのだろう───。
「……いずな、戻れ」
咲耶に応えない百合子は、応えないことで咲耶の言葉を肯定していた。手もとに戻ったイタチを見せるように、百合子が言った。
「あとで、いずなに椿油を届けさせる」
───それが百合子流の、咲耶をこの世界に迎え入れるという、返答だった。
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