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大いなる誤解の前兆

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「おはようございまーす!」

「っ!?」

 朝一番。
 イサが挨拶をしながらフロアに入った瞬間、がしゃんと盛大な衝撃音が聞こえた。

(ん?)

 驚いて音の発生源を見れば、こちらを凝視したまま固まっているジャンの姿がある。

 いつも通りかっちりと詰め襟の白衣を着込んでいる彼は、フロアに差し込んだ朝日に照らされながら発光しているかのように輝いていた。きらきら光る銀糸の髪が目にも眩しい。

(……あれ?)

 けれど、ジャンはイサと目が合うなりなぜかおろおろと慌てたように目線を彷徨わせた。
 僅かに頬が赤いように見えるが、気のせいだろうか。

 何だろう、と思いながらイサが視線を巡らすと、ジャンの足元に彼の私物である紺青色の万年筆が転がっていた。
 銀色の縁取りがなされた美しい品で、指示棒の役目も担うものだ。
 他に落ちているのは硝子製のインク壺と、資料だろう植物紙が束になった金属製のクリップボード。
 どうやらそれが先程の音の元であるらしい。

「ムール統括長? 大丈夫ですか?」

 いつも慎重なジャンが物を落とすなど珍しい、と思いながらイサが声をかけ近づこうとすると、なぜかジャンの肩がびくりと反応した。

「な、なんでもない!」

「え」

 突然叱責するように言われたイサは驚いてその場に立ち止まった。
 何かまずいことをしただろうかと思わず肩を竦める。けれど、ごほん、と咳払いが聞こえてそろりと目を向けると、バツ悪そうな顔のジャンと視線が合う。

「すまない。本当に何でもない」

「は、はあ……」

 苦い顔のジャンに謝られ、イサはよくわからないもののこくりと頷いた。
 すると、ほっとしたようにジャンが表情を緩める。かと思えば、彼は足元に落ちた備品を拾いもせずにそのままイサの方へ大股で歩いてきた。

(あれっ?)

 これにはイサは内心少し驚いた。几帳面なジャンが私物を床に放置するとは思わなかったからだ。
 フロアを歩く調子もいつもより少し早い気がして、イサはすぐ前に来た上司の顔をまじまじと見上げた。

(何だか……ムール統括長の雰囲気が、いつもと違うような……気のせい?)

 イサはジャンの様子に違和感を感じた。

 昨日、いや一昨日までのジャンとは何だか纏う空気というか、イサを見る彼の表情などが以前とは違って見える気がするのだ。

 どう言えば良いのか、表情に変化があるというか。
 ジャンは普段なら冷静であまり感情を表に出すタイプでは無く、他人への対応も淡白で一貫している。
 けれど、今日の彼には冷たさなど感じられず、氷色の瞳からも鋭さが取れている。
 むしろどこか優しくさえ見えて、イサは自分の中のジャンへの印象が変わったからだろうか? と内心首を傾げていた。
 
「その、体調は大丈夫か」

 すると、目の前に来たジャンにやや抑えた声で問われる。
 それでようやく、イサは彼が自分のことを心配してくれていることに気が付いた。

 落とした物に目もくれず第一にイサを気遣ってくれたらしい。
 イサは嬉しさで思わず笑顔になった。

「はい、全然平気です。今日も頑張ります!」

 元気よくそう答えると、ジャンがふわりと目元を和らげる。それから彼女の頭に昨日と同じくぽんと片手を置いて、綺麗に微笑んだ。

「そうか。期待している」

「は、い……」

 朝日できらきらと文字通り輝いている上司から、まさに輝く笑顔でそう言われて、あまりの破壊力にイサの顔が赤くなった。ぶわ、と上がってきた熱のせいで返事の言葉が妙に途切れてしまう。

 けれどそんな事には気づかずに、ジャンはにこにこと機嫌良さそうなまま元の場所へと戻り、床に転がる万年筆を拾い上げていた。

(う……わあ……し、心臓に悪い! 何あれ! 何あの顔! 最早暴力!!)

 ジャンの白衣の背中を眺めながら、イサは熱くなった頬を手で抑えつつ、心の内で文句めいた呟きを漏らした。
 気遣いは嬉しいが自分の容姿についてもっと自覚してほしい。美形過ぎる上司というのも困りものである。

(これは、ちょっと気をつけないといけないなぁ)

 イサは自分の席で業務開始の準備をしながら、いまだどきどきと五月蝿い自分の心臓に向けて注意を促した。
 従来、ギャップというのは往々として恋愛感情に発展しがちだ。漫画などでよくあるパターンである。
 しかし、ジャンはイサの手が届くような相手ではない。
 そもそもある種本当の意味で別世界の人間である。

 イサは元の世界に帰る予定だし、望みのない恋などまっぴらごめんだ。
 それに、上司として真剣にイサの心配をしてくれたジャンに失礼だと思った。
 彼がクビにしないでくれたおかげでイサはここで働けるのだ。
 その思いにちゃんとした形で報いるべきだろう。

(よし、今日も頑張ろう!!)

 机の上に業務資料をセットしながらイサはそう意気込んだ。
 そんな彼女を、少し離れた場所でジャンが眩しそうに見つめている。

 ―――という二人の以前とは明らかに変わったやり取りを、幾人かの案内人達が口をあんぐり開けて驚きの表情で見ていたのだが、イサも、そしてジャンも全く気が付いていないのだった。

 まさかそれが、とんでもない誤解を生み出すことになるとは、この時の二人はまだ、知らない。
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