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第八章 作戦実行ー1
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深夜二時を過ぎた頃、誠は徹の家の前にいた。盗人集団が比較的多く住む街とは言え、草木も眠る丑三つ時だ。しかも今は例の連続殺人の件で、裏の仕事は皆控えている。だから出歩く者は、全くと言って言い程見当たらなかった。
一月末のこの時期の夜は、めっぽう冷える。だからか少しでも外気を遮断しようと、シャッターや雨戸を閉めている家が多い。徹の住む長屋も同じだった。
周囲は静寂に包まれている。そんな中、誠は先日和美から受け取った型を使って作成された合い鍵を取り出し、玄関の鍵穴に差し込んだ。
彼女は徹が尋ねてきた日、風呂へ入っている間にハンドバックから長屋の家の鍵を抜き出し、型を取っていた。誠は仮にもノビ集団に属する盗人だ。合鍵があれば家への侵入など容易い。
しかも相手は春香がすり替えた睡眠薬入りの栄養ドリンクを飲み、今頃爆睡しているはずだ。そんな状態なら、彼女から受けた策略を施すなど決して難しい作業ではなかった。
しかし何らかのアクシデントが起こり、ドリンクを口にしなかった場合も想定しておく必要がある。そんな時こそノビとしての腕の見せ所だ。
よっていつものように油断せず音を立てない様に扉を開け、彼らが眠る寝室へと侵入した。事前打ち合わせで教わっていた為、二LDKの間取りもしっかり頭に入っている。
規則的な寝息が二つ聞こえた。徹と良子だろう。どうやら薬が効いているのか、熟睡しているようだ。それでも慎重に、目的の石油ファンヒーターへと近づいた。
それなりに修繕しているとはいっても彼らが住む長屋は古いので、冬は寒く夏は暑い。その為、かなり強力な石油ファンヒーターを使用しているという。
誠が与えられたのは、そのヒーターに仕掛けを施す役割だった。まず不完全燃焼防止装置が作動しないように故障させる。その後空気の取り組み口へ事前に用意しておいた大量の埃を吸い込ませて塞ぐように、と春香から指示を受けていた。
同じものが和美の家にあった為、どうすればよいかは既に学習済みだ。密封させた袋を取り出し、間違えて自分が吸い込まないよう息を吹きかけながら、少しずつ埃を入れていく。こうしておけば、時間が経つにつれ詰まることも確認している。
その上春香が事前にすり替えた栄養ドリンクは、後に警察の捜査が入っても疑われないよう、徹自身に購入させたと聞いていた。もちろん春香の指紋が残らないように渡したらしい。現役のスリ師である彼女だから、できる芸当だろう。
よって二人が予定通り飲んでいたならば、そう簡単に起きるはずもない。そんな状態でヒーターが不完全燃焼を起こせば、一酸化炭素が発生するはずだ。
そうなれば事故または自殺に見せかけ、隣室で眠る忠雄共々中毒死させられる。この一連の計画は、春香が立てたものだ。
上手くいくかどうかは五分五分だが、それでいいと彼女は言っていた。上手く死ねば儲けもので、失敗してもまた別の機会を待てばいいとの話だった。恐らく複数の策略を企てているのだろう。
しかも今は街で起こっている殺人事件によって、集団の幹部が次々と亡くなっている。ここで樋口家の頭領を含めた人達が亡くなれば、彼達が犯人だと警察は思ってくれるかもしれない。追いつめられて自殺したとも取れるからだ。
その上街の幹部が少なくなればなるほど、自分が幹部へ昇格する可能性は高まる。そうなれば実入りも良くなるに違いない。不謹慎かもしれないが、誠にとって連続殺人が続けば続くほど喜ばしい状況だった。
それどころかあの長屋にいる樋口家の人間が皆死ねば、街の運営に欠かせない会社の実権を握るのは、唯一生き残った樋口家の女性だ。そうなれば、彼女達の計画に加担した誠にも、当然大きな見返りが期待できる。
上手く取り入れば、今のような厳しい経済状況から脱せられるに違いない。だからこそ、危険を犯してまで参加したのだ。それ程早く貧困から抜け出したかったのには、それなりの理由がある。
誠が街の住民となったのは九歳の頃だ。知らない大人の手に引かれ、街の仲間が経営する施設へと預けられた時の事を今でも覚えている。母は誠が三歳の時失踪した為、どんな顔をしていたか記憶にない。
そうなった原因を父に問い質してみたが、
「あいつはお前を捨てて逃げた」
としか教えられなかった。それでも大人になった今では、なんとなく分かる。おそらく父の浮気性に愛想を尽かし、誠の育児にも疲れたのだろう。
父は高校を中退して、とび職をしていたらしい。当時はバブル景気に湧いていた頃で給与や待遇も良く、仕事も順調だったようだ。
独身で三食付きの寮生活をしていたから、金の使い道も限られていたのだろう。未成年でありながら、先輩達に連れられて毎日のように夜遊びをしていたという。
そんな中で知り合ったのが誠の母だった。父が十九歳で彼女は十七歳の時だ。年齢を偽って勤めていたスナックのホステスと客の仲だったが意気投合し、付き合うようになったと聞いている。
やがて母の妊娠を機に父は寮から出て、一緒に住む部屋を借りたそうだ。しかし当初は仲が良かったけれど、父は女癖が悪く母の他にも複数の女がいたと発覚してから、状況は一変したらしい。
後にとび職を辞めてホストになる父は、顔も整っていて体も鍛えられていた為か、相当モテたようだ。それが災いし、数々の浮気が母にばれて喧嘩が絶えなくなったという。
ただ浮気をしていたのは、母も同じだったらしい。父と暮らし始める前にも、相当数の男と関係を持っていたという。誠を産んだ後も父が働きに出ている隙を狙って、男を連れ込んでいたそうだ。
育児について、初めは二人共熱心だったらしい。仕事で忙しい父も、休みの日は積極的に世話をして、母の負担を減らす努力はしていたと聞く。
しかし誠がかなり手のかかる子だった為、どんどんと様子が変わっていったという。どうやら周囲の同じ年の子に比べて発育が遅く、短い言葉しか発しなかったからだ。
それが母に、大きなストレスをかけたのだろう。十九歳という若さで子供を産み、遊びたい盛りの時に我慢を強いられただけでも耐えられなかったに違いない。
その為か、ある時から突然誠の世話を放棄し始め、かつての店の客や男友達と遊ぶようになったようだ。
後に知ったが母子家庭で育った母自身も、幼い頃より親からまともに相手をされていなかったらしい。同じく水商売をしていた徹の母方の祖母も男運が悪かったのか、母を産む前から逃げられたと聞いている。
養育費も払われず、生活は苦しかったそうだ。しかも家族からはシングルマザーになったことを責められ、家を追い出されたのである。よって祖母も生きる為には、働くしかなかったのだろう。
だがその分子供に愛情を注いだり、育児に力を入れたりするような余裕が無かったのかもしれない。その為ほったらかしにされて育ったようだ。
そうした影響からか、やがて成長するにつれ母は祖母と疎遠になり、家を出て自分でお金を稼ぐようになったと聞いている。そうした反動で温かい家庭に憧れ、父と関係を持った母は、子供を産んで自分はしっかり育てようとしたのだろう。
だが現実は厳しかった。育児は思った以上に大変で、父が多少手伝ったくらいでは楽になるはずもない。しかも通常より手がかかるとなれば、嫌気が差しても不思議ではなかった。
元々彼女はガサツなところがあり、結局そうした性格も自分の母親から受け継いでいたのだろう。また愛情を注がれた経験が無かったからか、そうした母性も持ち合わせていなかったのかもしれない。
やがて男との浮気が父にばれ、喧嘩はさらに激しくなった。そこでとうとう母は誠を置いて、別の男と一緒に姿を消したのである。
残された父は困惑したようだ。母と籍だけ入れていたが、彼女の母親とは会ったことすらなかったらしい。その為探す当てもなく、また子供を預ける先もなかったという。
それは父方の親にも問題があったからだ。父も母子家庭に育っていた。母と同じ環境に育った点も、彼女と意気投合し結婚した理由の一つだったらしい。
同じように父親の顔を知らず育った父の家庭も貧しく、母親は働いてばかりで碌に父の相手をしなかった。それどころか男を家に連れ込んでは一緒に住み始め、別れたと思えばまた次の男と暮すという生活をしていたようだ。
そうした環境から逃れたかった父は、一度高校に進学したものの、自分で金を稼ぎ自立しようと考えた。その為学校を中退し知人の伝手を使って寮がある会社に入り、とび職を始めたのである。
そんな状況だから、誠を自分の母に預けようとは考えもしなかったのだろう。それ以外の親戚付き合いも全くしてこなかった為、手を差し伸べてくれる人は身内に誰もいなかったらしい。
結局父は会社に泣きついて、再び寮に入れるよう頭を下げた。誠については、近くにある保育園へと預けられたのだ。
けれどとび職の勤務時間は、現場によってまちまちだった。それでも基本は朝七時過ぎから移動し始め八時から働き、夕方五時には終わる。しかしその後会社に戻ってからの雑務もある為、終わるのは夜の七時を過ぎることが多い。
一方保育園は、朝八時半から夕方四時半まで預かるのが原則だった。だがそこは開園が七時からだった為、家庭事情も考慮してもらい、現場に向かう車へ乗る前に誠を預けることを承諾してくれたのだ。
また帰りも延長保育をお願いし、閉園時間が七時なのになんとか面倒を見てくれた。それでもほぼ十二時間預けていた為、料金は馬鹿にならなかったという。
その上肉体労働であり神経も使う危険な仕事だった為、帰宅してから子供の世話をするような気力や体力は全くなかったらしい。
当然ながらそんな大人の事情に、子供は配慮などできなかった。それどころか長い間父親と離れていたからか、顔を合わせば無邪気な顔で喜び騒ぎだしていたという。もちろん夕飯も食べさせなければならない。父自身もお腹を空かしていたはずだ。
幸い寮では食事を作ってくれるおばさんが、子供の分まで用意してくれていた為助かってはいた。その分給与から食費分は引かれたが、自分で準備する手間を考えれば安いものだ。
それでも食べさせるのは、親の役目である。そこで言う事を聞き、大人しくしていれば良かったのかもしれない。
だが誠は母が手を焼いて、放り出した程の子だ。うーとかあーとか大声を出したかと思えば、急に立ち上がって部屋の中を走り回ったりもしたらしい。
心身共に充実した状態であっても、子供の世話は大変だ。ましてや疲れ切った体で、手がかかる子の面倒を看るには限界がある。
それに同僚達は皆、食事を終えれば街の繁華街に繰り出し、酒を飲んだり女と遊んだりしていた。そう思っただけで腹が立ち、
「なんで俺だけが、こんなことをしなければならないんだよ!」
と頻繁に怒鳴り散らしていたという。その頃から誠は度々殴られるようになったのだ。
しかし寮にいる間は周囲の大人達が止めに入ったり、可愛がってくれたりする同僚や食堂のおばさん達がいた。その為度を超すような暴力までは、至らなかったらしい。
問題が起こったのはその頃バブルが崩壊し、会社の業績が一気に悪化したことだ。父が入社した頃は、十代後半なのに年収は軽く五、六百万はあったという。ベテランともなれば、一千万超の収入があったと聞いている。
けれど父が寮に戻った頃から仕事は減り続け、給与もどんどんと下がっていた。それでも何とか会社は耐えていたが、徹が六歳になった頃突然倒産し、廃業に追い込まれたのだ。
これには同僚達も慌てた。いきなり職を失っただけではなく、寮からも追い出され住む場所もなくなったから当然だろう。しかも父には子供までいたのだから、パニックになったとしてもおかしくない。
新たな住居と職探しに、父は奔走したようだ。しかしとび職として雇ってくれる会社は、当時皆無だったという。その時代業界自体不況で仕事が激減しており、人手は余っていた。その為当時二十七歳と若く、働き盛りで経験もそれなりにあった父でも採用されなかったらしい。
多少の蓄えがあったとはいえ、高校を中退してとび職しかやってこなかった父が、突然子連れの無職となったのだ。アパートなどもなかなか入居させてくれるところが見つからなかったという。
かつての同僚や先輩達に声をかけ、なんとか頼み込み部屋を転々としていたが、長居などできるはずもない。彼らも決して裕福ではなく、自分達の生活を維持するだけで必死だったからだ。
その為野宿する場合も珍しくなかった。そうした状態が続いた為、目に余ると心配した周囲からの勧めもあり、父は児童相談所を訪れて誠の保護を依頼したそうだ。
事情を聴いた職員は父が再就職し、住居が決まるまでの間は子供を保護する必要があると考え、幸いにも受け入れてくれた。結果誠は養護施設へと預けられたのである。
子供という足枷が無くなった父は、自らの寝床を確保する為に女の部屋に転がり込むという手段を取った。母と付き合っていた頃から、そうした女性は数多くいたからできたのだろう。
やがて世話になっていたホステスの紹介により、父は寮があるホストの仕事へ就くようになった。女受けのする容姿やこれまでの経験から、父に合った働き口だったようだ。
時代は不景気だったが、バブル期に大層稼いだ者も中にはいる。また父のように金に困り、水商売に身を投じた女達も多くいた。そういった人達のストレスの捌け口として、ホストクラブはそこそこの需要があったらしい。
父はその店でそれなりに稼ぎ、一年で寮を出て部屋を借りられるまでになった。しかし子供を引き取ろうとはせず、気ままな暮らしを続けていたのである。
その頃施設で暮らしていた誠は、小学校へと通い始めていた。それまでは施設内で教育などを受けていた為、大きなトラブルは起こさなかったらしい。
だが外部の子供達と触れ合う機会ができた頃から、周囲の大人達を困らせる行動を取り始めた。例としては、授業中でもじっとしていられず動き回ったり、奇声を出し続けたりしたようだ。
当初は教師達も施設側からの引き継ぎを受けていた為、ある程度の覚悟はしていたという。それでも予想を上回る異常行動に手を焼き、苛立ち始めた。
施設側もこれ程になるとは思っていなかったらしい。入所当時には見られた奇抜な行動も徐々になくなっていたので、そこまで酷くなるとは想像していなかったようだ。
しかし環境の変化に誠はどうやら不安を感じていたようで、症状が悪化してしまったのかもしれない。学校側としては他の保護者から苦情が出始めたので、施設側に対応を求めるようになった。
だが言われた方も、手の打ちようがなかったのだろう。そこで対策を練り始めた施設側の行動が、後に大きな影響を与えたのである。驚いたことに施設でも引き受けられないと判断し、父親の元へ返すのが望ましいという結論を出したのだ。
一月末のこの時期の夜は、めっぽう冷える。だからか少しでも外気を遮断しようと、シャッターや雨戸を閉めている家が多い。徹の住む長屋も同じだった。
周囲は静寂に包まれている。そんな中、誠は先日和美から受け取った型を使って作成された合い鍵を取り出し、玄関の鍵穴に差し込んだ。
彼女は徹が尋ねてきた日、風呂へ入っている間にハンドバックから長屋の家の鍵を抜き出し、型を取っていた。誠は仮にもノビ集団に属する盗人だ。合鍵があれば家への侵入など容易い。
しかも相手は春香がすり替えた睡眠薬入りの栄養ドリンクを飲み、今頃爆睡しているはずだ。そんな状態なら、彼女から受けた策略を施すなど決して難しい作業ではなかった。
しかし何らかのアクシデントが起こり、ドリンクを口にしなかった場合も想定しておく必要がある。そんな時こそノビとしての腕の見せ所だ。
よっていつものように油断せず音を立てない様に扉を開け、彼らが眠る寝室へと侵入した。事前打ち合わせで教わっていた為、二LDKの間取りもしっかり頭に入っている。
規則的な寝息が二つ聞こえた。徹と良子だろう。どうやら薬が効いているのか、熟睡しているようだ。それでも慎重に、目的の石油ファンヒーターへと近づいた。
それなりに修繕しているとはいっても彼らが住む長屋は古いので、冬は寒く夏は暑い。その為、かなり強力な石油ファンヒーターを使用しているという。
誠が与えられたのは、そのヒーターに仕掛けを施す役割だった。まず不完全燃焼防止装置が作動しないように故障させる。その後空気の取り組み口へ事前に用意しておいた大量の埃を吸い込ませて塞ぐように、と春香から指示を受けていた。
同じものが和美の家にあった為、どうすればよいかは既に学習済みだ。密封させた袋を取り出し、間違えて自分が吸い込まないよう息を吹きかけながら、少しずつ埃を入れていく。こうしておけば、時間が経つにつれ詰まることも確認している。
その上春香が事前にすり替えた栄養ドリンクは、後に警察の捜査が入っても疑われないよう、徹自身に購入させたと聞いていた。もちろん春香の指紋が残らないように渡したらしい。現役のスリ師である彼女だから、できる芸当だろう。
よって二人が予定通り飲んでいたならば、そう簡単に起きるはずもない。そんな状態でヒーターが不完全燃焼を起こせば、一酸化炭素が発生するはずだ。
そうなれば事故または自殺に見せかけ、隣室で眠る忠雄共々中毒死させられる。この一連の計画は、春香が立てたものだ。
上手くいくかどうかは五分五分だが、それでいいと彼女は言っていた。上手く死ねば儲けもので、失敗してもまた別の機会を待てばいいとの話だった。恐らく複数の策略を企てているのだろう。
しかも今は街で起こっている殺人事件によって、集団の幹部が次々と亡くなっている。ここで樋口家の頭領を含めた人達が亡くなれば、彼達が犯人だと警察は思ってくれるかもしれない。追いつめられて自殺したとも取れるからだ。
その上街の幹部が少なくなればなるほど、自分が幹部へ昇格する可能性は高まる。そうなれば実入りも良くなるに違いない。不謹慎かもしれないが、誠にとって連続殺人が続けば続くほど喜ばしい状況だった。
それどころかあの長屋にいる樋口家の人間が皆死ねば、街の運営に欠かせない会社の実権を握るのは、唯一生き残った樋口家の女性だ。そうなれば、彼女達の計画に加担した誠にも、当然大きな見返りが期待できる。
上手く取り入れば、今のような厳しい経済状況から脱せられるに違いない。だからこそ、危険を犯してまで参加したのだ。それ程早く貧困から抜け出したかったのには、それなりの理由がある。
誠が街の住民となったのは九歳の頃だ。知らない大人の手に引かれ、街の仲間が経営する施設へと預けられた時の事を今でも覚えている。母は誠が三歳の時失踪した為、どんな顔をしていたか記憶にない。
そうなった原因を父に問い質してみたが、
「あいつはお前を捨てて逃げた」
としか教えられなかった。それでも大人になった今では、なんとなく分かる。おそらく父の浮気性に愛想を尽かし、誠の育児にも疲れたのだろう。
父は高校を中退して、とび職をしていたらしい。当時はバブル景気に湧いていた頃で給与や待遇も良く、仕事も順調だったようだ。
独身で三食付きの寮生活をしていたから、金の使い道も限られていたのだろう。未成年でありながら、先輩達に連れられて毎日のように夜遊びをしていたという。
そんな中で知り合ったのが誠の母だった。父が十九歳で彼女は十七歳の時だ。年齢を偽って勤めていたスナックのホステスと客の仲だったが意気投合し、付き合うようになったと聞いている。
やがて母の妊娠を機に父は寮から出て、一緒に住む部屋を借りたそうだ。しかし当初は仲が良かったけれど、父は女癖が悪く母の他にも複数の女がいたと発覚してから、状況は一変したらしい。
後にとび職を辞めてホストになる父は、顔も整っていて体も鍛えられていた為か、相当モテたようだ。それが災いし、数々の浮気が母にばれて喧嘩が絶えなくなったという。
ただ浮気をしていたのは、母も同じだったらしい。父と暮らし始める前にも、相当数の男と関係を持っていたという。誠を産んだ後も父が働きに出ている隙を狙って、男を連れ込んでいたそうだ。
育児について、初めは二人共熱心だったらしい。仕事で忙しい父も、休みの日は積極的に世話をして、母の負担を減らす努力はしていたと聞く。
しかし誠がかなり手のかかる子だった為、どんどんと様子が変わっていったという。どうやら周囲の同じ年の子に比べて発育が遅く、短い言葉しか発しなかったからだ。
それが母に、大きなストレスをかけたのだろう。十九歳という若さで子供を産み、遊びたい盛りの時に我慢を強いられただけでも耐えられなかったに違いない。
その為か、ある時から突然誠の世話を放棄し始め、かつての店の客や男友達と遊ぶようになったようだ。
後に知ったが母子家庭で育った母自身も、幼い頃より親からまともに相手をされていなかったらしい。同じく水商売をしていた徹の母方の祖母も男運が悪かったのか、母を産む前から逃げられたと聞いている。
養育費も払われず、生活は苦しかったそうだ。しかも家族からはシングルマザーになったことを責められ、家を追い出されたのである。よって祖母も生きる為には、働くしかなかったのだろう。
だがその分子供に愛情を注いだり、育児に力を入れたりするような余裕が無かったのかもしれない。その為ほったらかしにされて育ったようだ。
そうした影響からか、やがて成長するにつれ母は祖母と疎遠になり、家を出て自分でお金を稼ぐようになったと聞いている。そうした反動で温かい家庭に憧れ、父と関係を持った母は、子供を産んで自分はしっかり育てようとしたのだろう。
だが現実は厳しかった。育児は思った以上に大変で、父が多少手伝ったくらいでは楽になるはずもない。しかも通常より手がかかるとなれば、嫌気が差しても不思議ではなかった。
元々彼女はガサツなところがあり、結局そうした性格も自分の母親から受け継いでいたのだろう。また愛情を注がれた経験が無かったからか、そうした母性も持ち合わせていなかったのかもしれない。
やがて男との浮気が父にばれ、喧嘩はさらに激しくなった。そこでとうとう母は誠を置いて、別の男と一緒に姿を消したのである。
残された父は困惑したようだ。母と籍だけ入れていたが、彼女の母親とは会ったことすらなかったらしい。その為探す当てもなく、また子供を預ける先もなかったという。
それは父方の親にも問題があったからだ。父も母子家庭に育っていた。母と同じ環境に育った点も、彼女と意気投合し結婚した理由の一つだったらしい。
同じように父親の顔を知らず育った父の家庭も貧しく、母親は働いてばかりで碌に父の相手をしなかった。それどころか男を家に連れ込んでは一緒に住み始め、別れたと思えばまた次の男と暮すという生活をしていたようだ。
そうした環境から逃れたかった父は、一度高校に進学したものの、自分で金を稼ぎ自立しようと考えた。その為学校を中退し知人の伝手を使って寮がある会社に入り、とび職を始めたのである。
そんな状況だから、誠を自分の母に預けようとは考えもしなかったのだろう。それ以外の親戚付き合いも全くしてこなかった為、手を差し伸べてくれる人は身内に誰もいなかったらしい。
結局父は会社に泣きついて、再び寮に入れるよう頭を下げた。誠については、近くにある保育園へと預けられたのだ。
けれどとび職の勤務時間は、現場によってまちまちだった。それでも基本は朝七時過ぎから移動し始め八時から働き、夕方五時には終わる。しかしその後会社に戻ってからの雑務もある為、終わるのは夜の七時を過ぎることが多い。
一方保育園は、朝八時半から夕方四時半まで預かるのが原則だった。だがそこは開園が七時からだった為、家庭事情も考慮してもらい、現場に向かう車へ乗る前に誠を預けることを承諾してくれたのだ。
また帰りも延長保育をお願いし、閉園時間が七時なのになんとか面倒を見てくれた。それでもほぼ十二時間預けていた為、料金は馬鹿にならなかったという。
その上肉体労働であり神経も使う危険な仕事だった為、帰宅してから子供の世話をするような気力や体力は全くなかったらしい。
当然ながらそんな大人の事情に、子供は配慮などできなかった。それどころか長い間父親と離れていたからか、顔を合わせば無邪気な顔で喜び騒ぎだしていたという。もちろん夕飯も食べさせなければならない。父自身もお腹を空かしていたはずだ。
幸い寮では食事を作ってくれるおばさんが、子供の分まで用意してくれていた為助かってはいた。その分給与から食費分は引かれたが、自分で準備する手間を考えれば安いものだ。
それでも食べさせるのは、親の役目である。そこで言う事を聞き、大人しくしていれば良かったのかもしれない。
だが誠は母が手を焼いて、放り出した程の子だ。うーとかあーとか大声を出したかと思えば、急に立ち上がって部屋の中を走り回ったりもしたらしい。
心身共に充実した状態であっても、子供の世話は大変だ。ましてや疲れ切った体で、手がかかる子の面倒を看るには限界がある。
それに同僚達は皆、食事を終えれば街の繁華街に繰り出し、酒を飲んだり女と遊んだりしていた。そう思っただけで腹が立ち、
「なんで俺だけが、こんなことをしなければならないんだよ!」
と頻繁に怒鳴り散らしていたという。その頃から誠は度々殴られるようになったのだ。
しかし寮にいる間は周囲の大人達が止めに入ったり、可愛がってくれたりする同僚や食堂のおばさん達がいた。その為度を超すような暴力までは、至らなかったらしい。
問題が起こったのはその頃バブルが崩壊し、会社の業績が一気に悪化したことだ。父が入社した頃は、十代後半なのに年収は軽く五、六百万はあったという。ベテランともなれば、一千万超の収入があったと聞いている。
けれど父が寮に戻った頃から仕事は減り続け、給与もどんどんと下がっていた。それでも何とか会社は耐えていたが、徹が六歳になった頃突然倒産し、廃業に追い込まれたのだ。
これには同僚達も慌てた。いきなり職を失っただけではなく、寮からも追い出され住む場所もなくなったから当然だろう。しかも父には子供までいたのだから、パニックになったとしてもおかしくない。
新たな住居と職探しに、父は奔走したようだ。しかしとび職として雇ってくれる会社は、当時皆無だったという。その時代業界自体不況で仕事が激減しており、人手は余っていた。その為当時二十七歳と若く、働き盛りで経験もそれなりにあった父でも採用されなかったらしい。
多少の蓄えがあったとはいえ、高校を中退してとび職しかやってこなかった父が、突然子連れの無職となったのだ。アパートなどもなかなか入居させてくれるところが見つからなかったという。
かつての同僚や先輩達に声をかけ、なんとか頼み込み部屋を転々としていたが、長居などできるはずもない。彼らも決して裕福ではなく、自分達の生活を維持するだけで必死だったからだ。
その為野宿する場合も珍しくなかった。そうした状態が続いた為、目に余ると心配した周囲からの勧めもあり、父は児童相談所を訪れて誠の保護を依頼したそうだ。
事情を聴いた職員は父が再就職し、住居が決まるまでの間は子供を保護する必要があると考え、幸いにも受け入れてくれた。結果誠は養護施設へと預けられたのである。
子供という足枷が無くなった父は、自らの寝床を確保する為に女の部屋に転がり込むという手段を取った。母と付き合っていた頃から、そうした女性は数多くいたからできたのだろう。
やがて世話になっていたホステスの紹介により、父は寮があるホストの仕事へ就くようになった。女受けのする容姿やこれまでの経験から、父に合った働き口だったようだ。
時代は不景気だったが、バブル期に大層稼いだ者も中にはいる。また父のように金に困り、水商売に身を投じた女達も多くいた。そういった人達のストレスの捌け口として、ホストクラブはそこそこの需要があったらしい。
父はその店でそれなりに稼ぎ、一年で寮を出て部屋を借りられるまでになった。しかし子供を引き取ろうとはせず、気ままな暮らしを続けていたのである。
その頃施設で暮らしていた誠は、小学校へと通い始めていた。それまでは施設内で教育などを受けていた為、大きなトラブルは起こさなかったらしい。
だが外部の子供達と触れ合う機会ができた頃から、周囲の大人達を困らせる行動を取り始めた。例としては、授業中でもじっとしていられず動き回ったり、奇声を出し続けたりしたようだ。
当初は教師達も施設側からの引き継ぎを受けていた為、ある程度の覚悟はしていたという。それでも予想を上回る異常行動に手を焼き、苛立ち始めた。
施設側もこれ程になるとは思っていなかったらしい。入所当時には見られた奇抜な行動も徐々になくなっていたので、そこまで酷くなるとは想像していなかったようだ。
しかし環境の変化に誠はどうやら不安を感じていたようで、症状が悪化してしまったのかもしれない。学校側としては他の保護者から苦情が出始めたので、施設側に対応を求めるようになった。
だが言われた方も、手の打ちようがなかったのだろう。そこで対策を練り始めた施設側の行動が、後に大きな影響を与えたのである。驚いたことに施設でも引き受けられないと判断し、父親の元へ返すのが望ましいという結論を出したのだ。
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高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
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