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第六章~③
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怒りの余り顔を上げ、殴り倒してやろうかと思ったところ、意外な事が起こった。周囲にいた男達が彼の腕を捻りあげナイフを取り上げただけでなく、手錠を嵌めたのだ。
「な、何するんだ」
余りに突然の行動で藤子も驚愕した。しかし井尻兄妹だけは、何故か変わらず無表情のままだった。
「銃刀法違反の現行犯及び、殺人の容疑で逮捕する」
男達の一人が紙を取り出し、彼に突き出しそう言った。
「じゅ、銃刀法はともかく、殺人の容疑ってなんだよ」
「詳しくは署で聞く。大人しくしろ」
「お、おい待てよ。田北さんと話をさせてくれ」
「これは田北の指示だ。諦めろ」
そのまま彼は言葉を失った状態で公園の外に止めていた車の中へ放り込まれ、そのまま立ち去った。予想外の展開に藤子は呆然と彼らを見送る。
残されたのは藤子達三人だけだ。しばらくして我に返り、口を開いた。
「どういうことなの」
しかし二人は黙ったまま、晶が胸ポケットからスマホを取り出し、耳に当てて誰かと話し出した。
「はい。そうですか。約束通り、これで終わりにします。だからそちらもお願いしますよ」
「誰と話しているの」
薫に小声で尋ねると、彼女は耳元で囁いた。
「田北です。スマホをずっと通話中にしていて、矢代との会話を彼に聞かせていたのです」
「そんなことをしていたの。聞いていないわよ」
「すみません。二人の話が終わったら説明しますので」
彼女はそう言って再び口を噤んだ。止む無く藤子も静かに待った。それからすぐに会話を終えた晶は、スマホをポケットに入れて頭を下げ説明し始めた。
「騙したような形になり、申し訳ありません。ただこうでもしないと、真実が明らかにならないと判断しました。お許し下さい」
「あなたはまだ公安と繋がっていたのね」
「いえ、足を洗ったのは本当です。ただ辞める際、田北と取引をしました。雄太の死の真実だけは明らかにしたい。だからもしあれが自殺でなく殺人だった場合は、犯人を放置せずしかるべき措置をするようお願いしたのです」
「しかるべき措置ってどういう意味よ。それに田北は、雄太が矢代に殺されたと知らなかったっていうの」
「当初は自殺だと思っていたけれど、殺人の可能性もあると疑っていたという方が正しいでしょうね。しかし事故で処理し、あなたを巻き込む作戦に取り掛かっていた。その為真実を明らかにすれば、竜崎達を追い込めなくなると恐れて目を瞑っていたようです」
「矢代に騙された振りをしていたってことかしら」
「はい。また私達も途中まで騙されていました。しかし藤子さんが竜崎に近づき自白させた後、田北を追い込んだ際に自殺自体を疑い出したと知って気付いたのです」
「だから田北と取引をしたのね」
「そうです。ここに来る前、私は藤子さんにどんな決着を望まれるかを確認しましたよね。そこで刑罰は期待していないけれど、真実を明らかしたいとおっしゃった」
「そうよ。矢代が犯人だという自白を取り付けても、今更確たる証拠は見つけられないでしょう。しかも裁判にかけようとすれば、公安は絶対に阻止すると思ったからじゃない」
「私達も同意見でした。しかしあのまま真実を闇に葬ることは許し難い。だから田北に矢代の自白を取りつけ全ての事情が把握できれば、しかるべき処置をするよう取り引きを申し出ました。それはあなたの暴走を止める事です」
「私が真実を知れば、マスコミなどにリークして騒ぎを起こされては困る。そう思ったとでもいうの」
「はい。田北も私達の口は封じられても、藤子さんまで黙らせることは難しい。そこであなたが真実を知り、納得できる情報を聞き出せた時点で幕引きを図る約束をしました。彼がナイフを取り出した様子や、彼の自白を録音したものを公安に提出し破棄できれば、少なくともマスコミまでは動かせなくなる。口先だけで見聞きした事を発表しただけなら、いくらでも潰せると彼らは考えた。その代わり公安としても、エスの仲間を殺した人物を野放しには出来ない。本人が殺したと認めたならば、排除の必要性が出てきます」
「それで思惑が一致し、あなた達の取引は成立したのね」
「そうです。申し訳ありません。ただこの方法でしか、雄太が何故死ななければならなかったのか、分からないと思ったのです。それだけは避けたかった」
「いいえ。私はあなた達にまた裏切られたと思った。それなら彼の告白自体、本当だったのかも疑わしくなる。でもあれが真実だと分かっただけでも気が晴れたわ。けれど気になるのは、矢代の扱いが今後どうなるかという点よ」
藤子の言葉に、晶は不安げな表情をして尋ねた。
「やはり事件を公にした上で、罰して欲しいとお思いですか」
「いえ、そうじゃない。ただ公安が排除すると聞いて、まさか殺されはしまいかと心配になったの」
首を振って答えると、薫が目を見張って興奮しながら言った。
「あいつは雄太さんを殺した奴ですよ。しかも極端な差別主義者です。藤子さんにも酷い暴言を吐いたじゃないですか。そんな男の身を案じるなんて信じられません」
「しかし裁判にかけたとしても、一人殺しただけなら死刑にならないわよね。もちろんあの男の考え方は許し難いわよ。雄太を殺した動機を聞いた時は、殺してやりたいとも思ったわ」
「だったらどうして」
「人を恨み復讐したいという気持ちは、決して前向きではなく生産的でもないからよ。それはかえって自分の心を蝕んでしまう。雄太が残した財産を巡り兄夫婦と決別した私は、そう痛感しているの」
結末を知っているらしい彼女は黙ってしまった。藤子はさらに続けた。
「それに竜崎やあなた達の話を聞く限り、雄太は遅かれ早かれ自ら死を選んだ可能性が高かった。それを矢代は早めただけに過ぎなかったのかもしれない。だから罰を与えられたとしても、命を奪いたいとまでは思えないの。敢えて言えば、反省してあの差別的思考さえ改めてくれれば、世の中の為になるとは思う。無理かもしれないけどね」
自虐的に笑った藤子を見て、黙って聞いていた晶が質問してきた。
「彼の母親、綿貫に関してはどうお考えですか。彼女もあなたを騙し、賠償金までせしめたのです。お金を取り戻し、罰したいとは思いませんか」
「いいえ。お金は元々私の物ではないし、彼女が怪我をして辛い目に遭ったのは確かだから。それに息子を助けたいとの想いから、また雄太の命を救えればと考えた咄嗟の行動だったなら、責める訳にはいかないでしょう。しかも後遺障害が残って寝たきりになる恐れもあったのだから、多少の慰謝料を貰ったぐらいでは割に合わないわよ」
「そうですか。実はあの親子関係もまた訳ありなので、綿貫に同情する点が多いのです。藤子さんにそう言って頂けるのなら彼女も喜ぶでしょう」
彼によると、彼女も身内がいない天涯孤独の身だったらしい。その為水商売をしながら生計を立てていた所、ある公安刑事がエスとして雇ったようだ。
その内探っている相手からより詳細な情報を得たいと張り切った彼女は、独断で肉体関係を持ったという。その結果妊娠をしてしまい、生まれたのが矢代だった。
その先輩刑事から二人を引き継いだのが、井尻兄妹をスカウトした羽村という刑事らしい。彼は公安の為を想って取った行動だと聞き責任を感じたようだ。その為養護施設に入れられた子供を含め、二人を見守っていたという。だからこそやがて成長した矢代もエスとして雇い入れたと説明された。
「矢代が差別的な思想を持ったのは、そんな環境で育った反動から来ていたのでしょう」
「彼と雄太とは親しかったの」
「いえ、雄太が渡部と名を変えあのマンションに住み始めてからの付き合いで、合えば挨拶する程度だったはずです。共通の雇い主だった羽村から、かなり昔に名前や生い立ちなどだけは耳にした事があります。でも私達を含め、それまで接点はありませんでした」
「でも彼が極端な差別主義者だと、田北は知っていたはずでしょう。それなのに何故あんな男を、雄太の見張りにつけていたの」
「あのマンションを含め、彼の行動確認をしていたのは矢代だけではありません。単に仕事を割り当てられた、エスの一人に過ぎなかったのです。さすがに田北も殺すとまでは考えていなかったのでしょう。しかしそれが仇になりました。あいつは特殊な状況を利用し、かつ後で事故に見せかけあなたを巻き込む為に、最も効果的な日と時間、方法を選んだのだと思われます」
藤子は溜息をついた。いくつもの要因が重なり、こうした不幸な結果を招いたのだろう。ただ血は繋がらないとはいえ弟であるにもかかわらず、それまで縁遠かった自分が彼を偲ぶのはおこがましい。井尻兄弟達は長い間、雄太と交流を持ち続けた仲間だ。彼らの悲しみに比べれば、藤子の思いなど比べ物にならなかった。
その為二人に頭を下げた。
「有難う。これで雄太も浮かばれると思う。私も自己満足に過ぎないけれど、胸のつかえが取れたわ。後は雄太の意志を汚さないよう、前に進むことにします」
「いいえ。私達も役に立てたのなら幸いです。これからのご活躍を期待しております」
晶がそういい、薫と揃って頭を下げた。こうして彼らと別れたのである。そして次なる行動へと移ったのだった。
藤子はまず雄太の家を取り壊し売却も急いだ。雄太が作った逃走ルートを早期に隠滅する為である。この点については田北にも連絡し、裏の家も同じように処分して欲しいと告げた。彼も公になっては困るからだろう。息のかかった業者を紹介してくれた。
そこなら例え隣家と繋がる穴を発見しても、黙って何もなかったかのように埋めてくれるという。その方がこちらも有難いので、指定された業者に全てを任せた。
遺産を全て現金化する段取りを取ると共に、藤子は執筆を開始した。その内容は、突然不審な死を遂げた男の正体が別名を名乗っていた弟と知らされた姉により、死の真相や別人に成りすましていた謎を辿るミステリ小説だった。
調べていく内に、多額の遺産があることや同性愛者だった事実を知るなど、限りなく雄太の身に起こったノンフィクションに近いフィクションである。ただ目撃者が犯人だという点は大きく変えた。後に矢代や綿貫がマスコミの餌食になっては困ると考えたからだ。
これをデビューさせてくれた中川のいる文潮堂ではなく、別の出版社を通して製本し販売する計画を立てた。これはこれまでの業界における常識だと、まずあり得ない流れである。他から声をかけてくれる会社があっても、まずは世に出してくれた版元から三冊程度出した後、というのが暗黙の了解とされていたからだ。
しかし藤子はその通例を破っただけでなく、もっと思い切った行動を取った。雄太が亡くなって一年が経ち、桜が咲き始めた頃である。
出版された作品の宣伝をする為、久しぶりに記者会見を開きメディアに顔を出した。その際、周囲を驚愕させたのだ。何故なら作品を書いて籠っている間、太っただけでなく手術により顔も変えていたからである。
雄太の事件がきっかけで世間が騒いだ時にも話題にされたが、会社を退職した後にコンプレックスを解消しようと決意した際、整形と性転換をしたとのプロフィールは公表していた。しかし今回の会見時では、元の顔に再整形して登場したのだ。
けれど体は女性のままだったからだろう。男には戻らず、ふっくらとした年相応のオバサンになってしまったのはご愛嬌だ。
当然周囲から称賛されていた美しい容姿は失った。それでも美魔女とまで呼ばれ不自然な仮面を脱ぎ取った藤子の心は、解放感に満ち溢れていた。
また実の親に捨てられ保曽井家の養子となった経歴や、実の両親は既に自殺している点など、過去の生い立ちも含め洗いざらい白状した。そうすれば美奈代が握っていた唯一の脅迫材料を消せる。そう考えた末の決断だった。
さらに藤子は作家、白井真琴としての活動を辞めるとも宣言した。その代わり、今後は本名の保曽井藤子として活動すると告げた。その上で三か月後に任期が切れる、限界集落を抱え過疎化した某自治体の長への立候補を表明し、意図的に世間を騒がせたのである。
思惑通り、会見場に集まった記者達は我先にと手を挙げ、身を乗り出し数々の質問を投げかけてきた。
「本に書かれていたように、弟さんは殺されたのですか」
「ある組織のスパイだったと書かれていましたが、公安のエスだったのですか」
「あなたと同じ養子の兄が弟さんの遺産を受け取れなかった際、相続争いは起こらなかったのですか」
しかし藤子は淡々と答えた。
「物語をどのように読み取るかは読者の自由です。書かれている内容が作者の実体験に基づく場合もあれば、想像を膨らませたものもあるでしょう。ですが私の作品はあくまでフィクションです。それが何らかの事実と仮に一致していたとしても偶然であり、架空の世界で起こった出来事だとお断りしておきます。それが小説ですから」
それでは納得しない記者達が、さらに次々と責め立てた。
「そうはいっても小説の中と同じくあなたは性転換をして性別を変え、顔も整形していたではないですか。それは事実ですよね」
「作品上で、主人公は自らの容姿にコンプレックスを抱き精神を病んだと書かれていますが、事実作者であるあなたもうつ病に罹って会社を辞められていますよね。それなのに何故、姓は女性のままで顔だけを元に戻されたのですか」
何を言われ聞かれても、話す内容は同じだった。
「作品の内容と対比させたプライベートな質問には、一切お答えできません。今回の記者会見はあくまで私の新作発表の為であり、かつ今後本名で作家を続けつつ政治活動を行うとの決意表明の場です。これからについての質問なら、出来る限りお答えいたします」
「な、何するんだ」
余りに突然の行動で藤子も驚愕した。しかし井尻兄妹だけは、何故か変わらず無表情のままだった。
「銃刀法違反の現行犯及び、殺人の容疑で逮捕する」
男達の一人が紙を取り出し、彼に突き出しそう言った。
「じゅ、銃刀法はともかく、殺人の容疑ってなんだよ」
「詳しくは署で聞く。大人しくしろ」
「お、おい待てよ。田北さんと話をさせてくれ」
「これは田北の指示だ。諦めろ」
そのまま彼は言葉を失った状態で公園の外に止めていた車の中へ放り込まれ、そのまま立ち去った。予想外の展開に藤子は呆然と彼らを見送る。
残されたのは藤子達三人だけだ。しばらくして我に返り、口を開いた。
「どういうことなの」
しかし二人は黙ったまま、晶が胸ポケットからスマホを取り出し、耳に当てて誰かと話し出した。
「はい。そうですか。約束通り、これで終わりにします。だからそちらもお願いしますよ」
「誰と話しているの」
薫に小声で尋ねると、彼女は耳元で囁いた。
「田北です。スマホをずっと通話中にしていて、矢代との会話を彼に聞かせていたのです」
「そんなことをしていたの。聞いていないわよ」
「すみません。二人の話が終わったら説明しますので」
彼女はそう言って再び口を噤んだ。止む無く藤子も静かに待った。それからすぐに会話を終えた晶は、スマホをポケットに入れて頭を下げ説明し始めた。
「騙したような形になり、申し訳ありません。ただこうでもしないと、真実が明らかにならないと判断しました。お許し下さい」
「あなたはまだ公安と繋がっていたのね」
「いえ、足を洗ったのは本当です。ただ辞める際、田北と取引をしました。雄太の死の真実だけは明らかにしたい。だからもしあれが自殺でなく殺人だった場合は、犯人を放置せずしかるべき措置をするようお願いしたのです」
「しかるべき措置ってどういう意味よ。それに田北は、雄太が矢代に殺されたと知らなかったっていうの」
「当初は自殺だと思っていたけれど、殺人の可能性もあると疑っていたという方が正しいでしょうね。しかし事故で処理し、あなたを巻き込む作戦に取り掛かっていた。その為真実を明らかにすれば、竜崎達を追い込めなくなると恐れて目を瞑っていたようです」
「矢代に騙された振りをしていたってことかしら」
「はい。また私達も途中まで騙されていました。しかし藤子さんが竜崎に近づき自白させた後、田北を追い込んだ際に自殺自体を疑い出したと知って気付いたのです」
「だから田北と取引をしたのね」
「そうです。ここに来る前、私は藤子さんにどんな決着を望まれるかを確認しましたよね。そこで刑罰は期待していないけれど、真実を明らかしたいとおっしゃった」
「そうよ。矢代が犯人だという自白を取り付けても、今更確たる証拠は見つけられないでしょう。しかも裁判にかけようとすれば、公安は絶対に阻止すると思ったからじゃない」
「私達も同意見でした。しかしあのまま真実を闇に葬ることは許し難い。だから田北に矢代の自白を取りつけ全ての事情が把握できれば、しかるべき処置をするよう取り引きを申し出ました。それはあなたの暴走を止める事です」
「私が真実を知れば、マスコミなどにリークして騒ぎを起こされては困る。そう思ったとでもいうの」
「はい。田北も私達の口は封じられても、藤子さんまで黙らせることは難しい。そこであなたが真実を知り、納得できる情報を聞き出せた時点で幕引きを図る約束をしました。彼がナイフを取り出した様子や、彼の自白を録音したものを公安に提出し破棄できれば、少なくともマスコミまでは動かせなくなる。口先だけで見聞きした事を発表しただけなら、いくらでも潰せると彼らは考えた。その代わり公安としても、エスの仲間を殺した人物を野放しには出来ない。本人が殺したと認めたならば、排除の必要性が出てきます」
「それで思惑が一致し、あなた達の取引は成立したのね」
「そうです。申し訳ありません。ただこの方法でしか、雄太が何故死ななければならなかったのか、分からないと思ったのです。それだけは避けたかった」
「いいえ。私はあなた達にまた裏切られたと思った。それなら彼の告白自体、本当だったのかも疑わしくなる。でもあれが真実だと分かっただけでも気が晴れたわ。けれど気になるのは、矢代の扱いが今後どうなるかという点よ」
藤子の言葉に、晶は不安げな表情をして尋ねた。
「やはり事件を公にした上で、罰して欲しいとお思いですか」
「いえ、そうじゃない。ただ公安が排除すると聞いて、まさか殺されはしまいかと心配になったの」
首を振って答えると、薫が目を見張って興奮しながら言った。
「あいつは雄太さんを殺した奴ですよ。しかも極端な差別主義者です。藤子さんにも酷い暴言を吐いたじゃないですか。そんな男の身を案じるなんて信じられません」
「しかし裁判にかけたとしても、一人殺しただけなら死刑にならないわよね。もちろんあの男の考え方は許し難いわよ。雄太を殺した動機を聞いた時は、殺してやりたいとも思ったわ」
「だったらどうして」
「人を恨み復讐したいという気持ちは、決して前向きではなく生産的でもないからよ。それはかえって自分の心を蝕んでしまう。雄太が残した財産を巡り兄夫婦と決別した私は、そう痛感しているの」
結末を知っているらしい彼女は黙ってしまった。藤子はさらに続けた。
「それに竜崎やあなた達の話を聞く限り、雄太は遅かれ早かれ自ら死を選んだ可能性が高かった。それを矢代は早めただけに過ぎなかったのかもしれない。だから罰を与えられたとしても、命を奪いたいとまでは思えないの。敢えて言えば、反省してあの差別的思考さえ改めてくれれば、世の中の為になるとは思う。無理かもしれないけどね」
自虐的に笑った藤子を見て、黙って聞いていた晶が質問してきた。
「彼の母親、綿貫に関してはどうお考えですか。彼女もあなたを騙し、賠償金までせしめたのです。お金を取り戻し、罰したいとは思いませんか」
「いいえ。お金は元々私の物ではないし、彼女が怪我をして辛い目に遭ったのは確かだから。それに息子を助けたいとの想いから、また雄太の命を救えればと考えた咄嗟の行動だったなら、責める訳にはいかないでしょう。しかも後遺障害が残って寝たきりになる恐れもあったのだから、多少の慰謝料を貰ったぐらいでは割に合わないわよ」
「そうですか。実はあの親子関係もまた訳ありなので、綿貫に同情する点が多いのです。藤子さんにそう言って頂けるのなら彼女も喜ぶでしょう」
彼によると、彼女も身内がいない天涯孤独の身だったらしい。その為水商売をしながら生計を立てていた所、ある公安刑事がエスとして雇ったようだ。
その内探っている相手からより詳細な情報を得たいと張り切った彼女は、独断で肉体関係を持ったという。その結果妊娠をしてしまい、生まれたのが矢代だった。
その先輩刑事から二人を引き継いだのが、井尻兄妹をスカウトした羽村という刑事らしい。彼は公安の為を想って取った行動だと聞き責任を感じたようだ。その為養護施設に入れられた子供を含め、二人を見守っていたという。だからこそやがて成長した矢代もエスとして雇い入れたと説明された。
「矢代が差別的な思想を持ったのは、そんな環境で育った反動から来ていたのでしょう」
「彼と雄太とは親しかったの」
「いえ、雄太が渡部と名を変えあのマンションに住み始めてからの付き合いで、合えば挨拶する程度だったはずです。共通の雇い主だった羽村から、かなり昔に名前や生い立ちなどだけは耳にした事があります。でも私達を含め、それまで接点はありませんでした」
「でも彼が極端な差別主義者だと、田北は知っていたはずでしょう。それなのに何故あんな男を、雄太の見張りにつけていたの」
「あのマンションを含め、彼の行動確認をしていたのは矢代だけではありません。単に仕事を割り当てられた、エスの一人に過ぎなかったのです。さすがに田北も殺すとまでは考えていなかったのでしょう。しかしそれが仇になりました。あいつは特殊な状況を利用し、かつ後で事故に見せかけあなたを巻き込む為に、最も効果的な日と時間、方法を選んだのだと思われます」
藤子は溜息をついた。いくつもの要因が重なり、こうした不幸な結果を招いたのだろう。ただ血は繋がらないとはいえ弟であるにもかかわらず、それまで縁遠かった自分が彼を偲ぶのはおこがましい。井尻兄弟達は長い間、雄太と交流を持ち続けた仲間だ。彼らの悲しみに比べれば、藤子の思いなど比べ物にならなかった。
その為二人に頭を下げた。
「有難う。これで雄太も浮かばれると思う。私も自己満足に過ぎないけれど、胸のつかえが取れたわ。後は雄太の意志を汚さないよう、前に進むことにします」
「いいえ。私達も役に立てたのなら幸いです。これからのご活躍を期待しております」
晶がそういい、薫と揃って頭を下げた。こうして彼らと別れたのである。そして次なる行動へと移ったのだった。
藤子はまず雄太の家を取り壊し売却も急いだ。雄太が作った逃走ルートを早期に隠滅する為である。この点については田北にも連絡し、裏の家も同じように処分して欲しいと告げた。彼も公になっては困るからだろう。息のかかった業者を紹介してくれた。
そこなら例え隣家と繋がる穴を発見しても、黙って何もなかったかのように埋めてくれるという。その方がこちらも有難いので、指定された業者に全てを任せた。
遺産を全て現金化する段取りを取ると共に、藤子は執筆を開始した。その内容は、突然不審な死を遂げた男の正体が別名を名乗っていた弟と知らされた姉により、死の真相や別人に成りすましていた謎を辿るミステリ小説だった。
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これをデビューさせてくれた中川のいる文潮堂ではなく、別の出版社を通して製本し販売する計画を立てた。これはこれまでの業界における常識だと、まずあり得ない流れである。他から声をかけてくれる会社があっても、まずは世に出してくれた版元から三冊程度出した後、というのが暗黙の了解とされていたからだ。
しかし藤子はその通例を破っただけでなく、もっと思い切った行動を取った。雄太が亡くなって一年が経ち、桜が咲き始めた頃である。
出版された作品の宣伝をする為、久しぶりに記者会見を開きメディアに顔を出した。その際、周囲を驚愕させたのだ。何故なら作品を書いて籠っている間、太っただけでなく手術により顔も変えていたからである。
雄太の事件がきっかけで世間が騒いだ時にも話題にされたが、会社を退職した後にコンプレックスを解消しようと決意した際、整形と性転換をしたとのプロフィールは公表していた。しかし今回の会見時では、元の顔に再整形して登場したのだ。
けれど体は女性のままだったからだろう。男には戻らず、ふっくらとした年相応のオバサンになってしまったのはご愛嬌だ。
当然周囲から称賛されていた美しい容姿は失った。それでも美魔女とまで呼ばれ不自然な仮面を脱ぎ取った藤子の心は、解放感に満ち溢れていた。
また実の親に捨てられ保曽井家の養子となった経歴や、実の両親は既に自殺している点など、過去の生い立ちも含め洗いざらい白状した。そうすれば美奈代が握っていた唯一の脅迫材料を消せる。そう考えた末の決断だった。
さらに藤子は作家、白井真琴としての活動を辞めるとも宣言した。その代わり、今後は本名の保曽井藤子として活動すると告げた。その上で三か月後に任期が切れる、限界集落を抱え過疎化した某自治体の長への立候補を表明し、意図的に世間を騒がせたのである。
思惑通り、会見場に集まった記者達は我先にと手を挙げ、身を乗り出し数々の質問を投げかけてきた。
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「あなたと同じ養子の兄が弟さんの遺産を受け取れなかった際、相続争いは起こらなかったのですか」
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「物語をどのように読み取るかは読者の自由です。書かれている内容が作者の実体験に基づく場合もあれば、想像を膨らませたものもあるでしょう。ですが私の作品はあくまでフィクションです。それが何らかの事実と仮に一致していたとしても偶然であり、架空の世界で起こった出来事だとお断りしておきます。それが小説ですから」
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「そうはいっても小説の中と同じくあなたは性転換をして性別を変え、顔も整形していたではないですか。それは事実ですよね」
「作品上で、主人公は自らの容姿にコンプレックスを抱き精神を病んだと書かれていますが、事実作者であるあなたもうつ病に罹って会社を辞められていますよね。それなのに何故、姓は女性のままで顔だけを元に戻されたのですか」
何を言われ聞かれても、話す内容は同じだった。
「作品の内容と対比させたプライベートな質問には、一切お答えできません。今回の記者会見はあくまで私の新作発表の為であり、かつ今後本名で作家を続けつつ政治活動を行うとの決意表明の場です。これからについての質問なら、出来る限りお答えいたします」
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