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7.負けない決意

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『単なる検査入院』のわりには、海里の今回の入院はずいぶん長いように感じた。
 
 確かに毎日、様々な検査を受けてはいるようだが、私が顔を出す朝と夕方は必ず病室にいて、呑気に絵ばかり描いているものだから、ついつい「退院まだなの?」と不満混じりに聞かずにはいられない。
 
「まだだよ」と返す海里はいつものように飄々としていたし、私のことを「まったくせっかちだね」なんて笑った。
 
 だから私はそこでムッとしてしまって、それ以上は追求する気も起きない。
 
 でも本心を言えば、海里のその笑顔はずいぶん無理しているもののように見えた。
 本当は早くここから出ていきたいのに、そうできないことを当たり前として、必死に受け入れようとしているように見えた。
 
(だって……あんなに毎日会ってたのに……会わなくっても平気なのかな……?)
 
 ついつい――別に私が心配する必要もないことを、考えてしまう。
 
(関係ないけどね。私には全然関係ないけど!)
 
 毎日甘い香りを服や髪に移して家に帰ってきていた海里は、すっかりまたもとどおり、病院の匂いに染まってしまっていた。



 
 前回の長期入院では、海里はすっかり絵を描く気をなくしていた。
 そのことを思えば、熱心にスケッチブックに向かってばかりいる今回の様子は、私にとっては嬉しいかぎりだ。
 
「だけどね……さすがに毎日来るたびに、毎度毎度ベッドを抜け出して窓際に座ってる姿を見るのは、どうかと思うわ! そんなことだからどんどん退院が遅くなってるんじゃないの?」
 
 憤りを我慢できずに、ある日、そう大声で叫んだら、やっぱり思ったとおり大笑いされた。
 
「大丈夫だよ。たぶんそろそろ退院できるよ。それにひとみちゃんがいない昼の間は、俺、大人しくベッドにつながれてるんだから……」
「どうだか!」
 
 ついつい突っかかるような言い方をしてしまう。
 
 海里は小さく笑って、また性懲りもなくスケッチブックに目を伏せた。
 
 まるで宝物でも抱くように、彼が大切に抱えているそのスケッチブックに何が描かれているのか、私は知らない。
 この上なく優しい眼差しを注いでいる姿を見ているだけで、だいたいの想像はついたし、そのことを考えるたび、どうしようもなく胸が痛くなった。
 
 でも、だからこそ、確かめることが恐かった。
 
(堂々と見せられて、自慢されるよりはよっぽどいい…………そうかな……?)
 
 私の複雑な心中なんてまるで頭にもない海里は、目を伏せたままで楽しげに呟く。
 
「ひとみちゃんも……急いであの大きな絵、仕上げないと、文化祭に間に合わなくなっちゃうよ……?」
 
 思わずカッと頭に血が上って、気がつけば両手を握りこぶしに変えて、力の限りに叫んでいた。
 
「毎日ここに来てるんだから、進むわけないじゃない! そんなこと……海里にだけは言われたくないわよ!」
「ハハハッ、そうだね……じゃあ頑張って……!」
 
 優しいんだか冷たいんだかよくわからない激励の言葉を私にくれてから、海里はまた鉛筆を動かす自分の作業に集中していった。
 
 ちょっと俯き加減の顔に、長めの前髪が影を落とす。
 夕陽に染まった綺麗な横顔。
 
 本音を言ってしまうなら、その横顔を見ているだけで、私は幸せだった。
 たとえ場所が病院だって、学校だって、海里を見ていられるのなら、私はそれで構わない。
 
(ここだと海里は誰かに会いに行くこともできないし……私ぐらいしかお見舞いに来る人もいない……そっか……病院にいてくれるほうが海里を独り占めできるのか……)
 
 何気なくそんなことを考えてしまって、そんな自分にゾッとした。
 
(何を考えてるのよ! 海里の容態が安定して、家に帰れるのが一番いいに決まってるじゃないの!)
 
 自分の独占欲を満たすためだけに、海里がもっと入院していてくれることを望むなんて、本末転倒だ。
 そんなこと、他の誰よりも、私自身が許せない。
 
「ひとみちゃん……」
 
 まるで私が心の中で葛藤していることを見切ったかのように、ふいに呼びかけられてドキリとした。
 
「なによ」
 
 思わず返事が、どうしようもなく怒りを混じえたような声になってしまう。
 
 海里はそんなこと、まるで気にしていない様子で、淡々と話を続けた。
 
「今度退院したら、俺、高校にもちゃんと行くから……」
 
 こちらに目を向けもしない意思表示だった。
 
 でも、やっと海里が部活だけではなく授業にも出る気になったのかと、私はホッとした。
 しかし私のそんなささやかな安堵は、次の瞬間、根本から覆される。
 
「絵を描きに」
 
 ガクリと思わず肩が落ちた。
 それでは今までと何も変わらない。
 今さらわざわざ宣言することでもない。
 要するに――海里はいつものように私の反応を見て遊んでいるのだ。
 
「海里!!」
 
 怒りを込めて叫んだら、今度はちゃんとこちらに顔を向けてから大笑いされた。
 
「ほんとだって。秋にある文化祭までには、仕上げたい絵が何枚かあるから……」
「そうじゃなくって……! そうじゃないでしょう!」
 
 悔しくって地団駄を踏みたいくらいの気持ちで抗議するのに、そんな私の思いなんて、あっさりと更なる大爆笑で葬り去られる。
 
「ハハハッ。でもそれが俺にとっては、最優先事項だから……だからいいんだ。きっといくら勉強したって兄貴みたいにはなれないし……」
 
 陸兄を引き合いに出されたことにムッとした。
 
 確かに陸兄は医学部に現役合格して、外科医への道をひた走っている秀才中の秀才だが、海里だって決して成績が悪いわけではない。
 休んでばかりでろくに授業も受けていないことを考えれば、むしろ独学でよくやっているほうだ。
 
 大学へ進学したいなんて、海里の頭の中には毛頭ないのかもしれないけれど、もともとの自分の能力を卑下するような言い方は許せない。
 誰と比べたって、結局、海里のことが一番大好きな私には許せない。
 
「そんなこと、わかんないじゃない! 海里だって成績はいいんだから、ちゃんと勉強すれば陸兄みたいにだって……」
 
 勢い込んで反論を始めたのに、すぐに否定された。
 
「なれないよ」
 
 そのあまりの潔さに、思わず言葉を呑みこむ。
 
 海里は珍しく、私のほうを真っ直ぐに見て、念を押すかのようにもう一度くり返した。
 
「なれない」
 
 瞬間、私の中で、何かがストンと腑に落ちた。
 と同時に、背筋が凍るような思いがした。
 
(どうしよう……! 五歳年上の陸兄の年まで自分が生きれるって、海里が全然思っていない……! なんで……? いつ、そんなふうに思いこんでしまうくらいの何かが、あった? この入院って、そんなに深刻なの……?)
 
 嘘だと思いたいのに、そうできない。
 
 いつもはふざけてばかりのくせに、
 自分の本心は隠して笑顔を浮かべてばかりのくせに、
 今に限って海里が、真正面から私を見つめる視線を逸らしてくれない。
 
 この上なく真剣な眼差しで、私にとって最も受け入れがたい事実を、伝えようとしている。
 
 嫌だった。
 私はそんな事実、どうしても受け入れたくはないし、認めたくもなかった。
 
「そんなこと……ない……もの……!」
 
 必死に反論を始めても、自分の声にまるで覇気がないことは、誰よりも自分がよくわかっている。
 
 優しいようで優しくない海里が、真剣に何かをやろうとしたら、私はこれまでだって、一度も勝ったことはないのだ。
 いつだって結局、最終的には敵うことはなかったのだ。
 
 だからわかってる。
 本当は無駄な抵抗だってわかってる。
 だけど――。
 
「……だってそんなこと、やってみなくちゃわからないでしょう! やる前から逃げてるんじゃないわよ! バカ海里!」
 
 体に残る全部の力をふり絞って、せいいっぱいいつものように悪態をつくと、私はその場から逃げだした。
 言い終わった途端に零れ落ちた涙を、決して海里には見せないために、それが最良の手段だった。
 
 病室から駆けだしていく私を、海里が追って来ることはない。
 体調の面からも、気持ちの面からもきっと無理なはずだ。
 
 いつもの私だったら悔しく思わずにはいられない海里の容態が、今は有り難かった。
 そんなふうに思うなんて、自分でも悲しいし嫌になるけれど、海里が私を追って来れないことが、今だけは嬉しかった。



 
 いつか海里は私よりも早くこの世からいなくなってしまうんだろうってことは、小さな子供の頃から漠然と理解していた。
 
 入院したり退院したりをくり返す生活を、いつもすぐ近くで見ていたから、頭ではなく空気で感じていた。
 
 でもその『いつか』はあくまでも『いつか』であって、具体的な『いつ』を指したことはない。
 これまでは一度もなかった。
 
 だから私は(自分は覚悟している)なんて思いながらも、本当は全然、現実のものとして受け止めていなかったんだ。
 
 昔から誰よりも一番近くにいて、何があったってやっぱり一番大好きな海里が、本当に私の傍からいなくなってしまうってこと。
 
 ――そのことの重大さを、本当は何一つわかっていなかった。



 
 海里のいる病室から逃げ出して、そのくせ病院から離れることまではしたくなくて、外階段のコンクリートの手摺りに額をくっ付けてむせび泣いている私に、かけられた声は、大好きな海里の声によく似ていた。
 
 でもあいつが私を追いかけては来れない以上、その声の主は、あとはたった一人しかいない。
 そのことも、私はよくわかっていた。
 
「どうした、ひとみ? 何かあった? 気分でも悪いのか?」
 
 昔から、タイミングの悪さだったらこの人の右に出る者はいない。
 意地っ張りな私が、我慢できずに泣いてしまうような時、決まってこの上ない間の悪さでその場に現われるのだ。
 
 優しいようで優しくはない海里とは違って、本当に本心から私を心配してくれるので対応に困る。
 
「今は一人になりたいんだから放っておいて!」なんて言葉さえ、私に出すことを躊躇させてしまうたった一人の人。
 
「それとも、海里と喧嘩でもしたか?」
 
 おっとりしているように見えて、勘だけはいいのだから本当に嫌になる。
 
「陸兄のバカ!」
 
 私の悪態が、図星を指された時の照れ隠しだということさえもわかっているように、フッとすぐ近くで笑われた気がした。
 
「よしよし。俺はいつだって海里の味方だけど、ひとみだけは特別に肩入れしてやるからな」
 
 大きな手で私の頭を撫でながら陸兄が言ってくれた言葉は、本当だった。
 弟に激甘な陸兄は、昔からなぜか私にも甘い。
 
「先に病室に行って、叱っといてやるから、しばらくしたらひとみも来いよ」
 
 言うが早いかあっという間に踵を返して、さっさと行ってしまおうとするので、私は慌ててふり返る。
 涙でぐちゃぐちゃな顔だなんてことは、この際もうどうでもよかった。
 
「陸兄! 海里の容態って……悪いの?」
 
 遠回しに尋ねるとか、それとなく探りを入れるなんて、まったく頭に浮かばなかった。
 思わず言ってしまってから、もうひき返せないことに気がついて、息がどんどんせり上がった。
 
「悪くないとは言えない……」
 
 すぐに帰ってきた返事に、なおさら息が苦しくなる。
 でもそんな私の状態を見通したかのように、陸兄が絶妙のタイミングで笑ってくれた。
 
 海里とよく似た、でもずいぶんと大人っぽい笑顔が、他の何よりも私に救いをくれた。
 
「でも……言ってしまえば、悪くなかったことなんてこれまでに一度もないんだから、今さらひとみが悩む必要はないよ。今までどおり、楽しいことも悔しいことも二人で共有して、思う存分ぶつけあったらいい。いつかだかわからない先のことを悲観して、今を犠牲にしたり、立ち止まったりする必要は、ひとみにだって海里にだってないよ」
 
「陸兄……」
 
 ずいぶん格好いいことを言ってとか。
 いつもののんびりしている陸兄はどこへ行ったのかとか。
 心に浮かんだ皮肉を全部封じこめて、私は頷いた。
 
「うん。わかった」
 
 海里相手だったら絶対に見せない、素直で殊勝な態度で、陸兄のせいいっぱい前向きな見解に、私も同意した。
 
「そうする。『今までと同じ』を、私はこれからも、ずっとずっと続ける!」
「よし。その意気だ!」
 
 今度こそ本当に遠くなっていく陸兄の足音を聞きながら、涙で濡れた頬をこすり上げた。



 
 しばらくしてから海里の病室へ戻ったら、扉が開きっ放しになっていた。
 奥に見えるベッドの上に座っている海里が、目を閉じていることが、遠目にもわかる。
 
 またちょっと痩せた頬も、全身から漂う儚げな雰囲気も、さっき海里が匂わせた彼の最期が遠くはないことを確かに明示しているように感じる。
 
 でも私は大きく首を横に振って、そんな思いを追い払った。
 
 陸兄に宣言したとおり、押し潰されそうなほどの不安にも負けないと、力をふり絞る。
 
 負けん気だけなら誰にも負けない。
 ――平素の自分を取り戻した。
 
 ふと、目を閉じていた海里が目を開けた。
 と同時にこちらを見たので、バッチリと目が合う。
 
(負けないわよ! あんたが何を言い出したって、私は負けない! ずっとずっと諦め悪く、あんたの生にしがみついてみせる!)
 
 強い決意を込めて注いだ私の視線を、海里は真正面から受け止めた。
 自分に未来はないと宣言したさっきよりも、もっと迷いのない強い視線だった。
 
(いったい陸兄は、海里に何を言ったんだろう?)
 
 海里の隣でニコニコ笑っている陸兄に私が視線を向けた瞬間、海里が口を開いた。
 
「ひとみちゃん……やっぱり退院したら、俺、高校に行くよ。絵も描くし。俺の一番行きたい所にも毎日行く。それでちゃんと病院にも定期的に検診に来て……って……あれ? これじゃやっぱり毎日学校行くのは……ムリか?」
 
 言いながらどんどん支離滅裂になっていった海里が、最終的には笑顔になる。
 無理してなんかいない、本物の笑顔になったから、私は嬉しくて嬉しくて涙が浮かんできそうだった。
 
 でもそんな自分は、陸兄にはともかく海里には絶対に見せたくないので、涙を他のものに置き換える。
 もっとも私らしい感情――怒りに、喜びをすりかえた。
 
「だから! それはそれでいっぺんに欲張りすぎなのよ! 加減ってものを知らないわけ? ……バカ海里!」
 
 せいいっぱいの悪態に、海里はやっぱりいつもみたいに大笑いを始めて、今度は陸兄まで一緒に笑い始めた。
 
 二人の笑顔が嬉しくって、これから先もずっと眺めていられたらいいのになんて、本当は叶わないと知っている願いを、私はくり返し心の中で唱えた。
 
 ――せめて今だけは、と祈るように願い続けた。
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