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第52話:レウシア、早起きする
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朝焼けの光が船長室の窓に差し込み、レウシアはぱちりと目を覚ました。
時刻は早朝――彼女にしては、稀な起床時間である。
レウシアがベッドからむくりと体を起こすと、船長机に置かれた魔導書は訝しげな声で問いかけた。
「どうした? なにかあったのか?」
「……ん」
竜の少女はきょろきょろと周囲を見回し、探していた人物を見つけて息を吐く。
部屋の隅に設えられた背もたれ付きの椅子に腰掛け、件の人物は浅く寝息を立てていた。
「……える」
とててっと、レウシアはエルに近づいて、その寝顔を窺った。
細い、銀糸の前髪の下、閉じられた瞼からは長い睫毛が伏せている。――寝ている姿だけを見ていると、まるで精巧な人形のようだ。
近頃は頓に様々な表情を見せる彼女の寝姿をしばらくじっと眺めたのち、レウシアは扉に視線を移した。
「……ん」
ベッドと扉を交互に見比べてから、やがてこくりと一つ頷き、レウシアは船長机のほうへと向かう。
「うん? 我に魔導を書き記すのか? こんなに朝早くからとは感心――」
「……んーん」
「む? 違うのか? おい、どこへ――」
魔導書を手に取り、レウシアは静かに部屋を出る。
ぱたん、と扉の閉まる音がして、エルの瞼がぴくりと動いた。
「――レウシアさん、ずっと……」
聖女の寝言がかすかに漏れ、やがて寝息の音だけが、船長室に残された。
* * *
――水平線をじわりと染める薄赤い光を眺めながら、片犬耳のジヌイはふわぁと大きく欠伸を漏らした。
空を漂う、雲の下半分もまた薄紅色だ。
ジヌイは眩しそうに目を細めると、いましがた降りてきたばかりの見張り台を見上げ、チッと小さく舌打ちをする。
次の瞬間、背後になにかの気配を感じ、ジヌイはさっと振り返った。
「っ、なんだ、お嬢ですかい。……どしたんすか? こんな朝早く」
「……ん」
気配の正体は、小柄な竜人の少女――レウシアであった。
元海賊船【ムエット・ノアール】号の新船長は、相変わらずのぼんやりとした顔で、ジヌイの片犬耳を見上げて佇んでいる。
どうしたのか? という問いに対し頷きだけを返してから、彼女はぽつりと、呟くようにジヌイに尋ねた。
「……なんで、お耳、かたっぽ、ない、の?」
「へ? ああ、これっすかい? 俺ぁ昔、剣奴だったんすけど、そんときにちょっと下手打っちまいまして」
「……けん、ど?」
「そーゆー奴隷っすね。結構長く生き残ってたんすよ? まあ獣人のクセに、人族の女の子に片耳切り落とされた雑魚っすけどね。……そんで処分されそうになって、逃げだして、色々あってこの船に乗ってるんすけど」
ジヌイは欠けた犬耳の根元を撫でて、たはは、と自嘲気な笑い声を漏らす。
「……おんなのこ、なんだ」
「そっすね。なんつーか、凄ぇ目付きの悪い、赤い髪の痩せっぽちの女で――いや、いまさら俺のことなんて、どうして急に気になったんすか?」
「……きかれた、だけ」
「え……誰にっすか? あ、もしかしてエレ――ッ!?」
きゅっ、となにかに後ろから耳を引っ張られた気がして、ジヌイは言葉を詰まらせ振り返った。
背後に誰もいないことを確認すると、彼は残った片犬耳をぺたんと伏せて大きく嘆息する。
「気のせいすかね……? やっぱ寝不足かな……」
「……?」
緩くかぶりを振ってから、ぼりぼりと頭を掻いてぼやくジヌイ。
「……さっさとハゲの奴と交代したいんすけど、あの野郎いつまで寝てるのやら。……お嬢、ちょっと呼んできてくれないすかね? 俺が呼びに行こうかと思ったんすけど、さすがに見張り台から誰もいなくなると、元船長が怒りそうなんすよ」
「……おへや、知らない、よ?」
「あー……だったら、お嬢が見張り台に――は、なんか危なそうなんで、ここで海見ててくれるだけでいいっす。俺が呼んでくるんで」
「……そっ、か。わかっ、た」
竜の少女はこくりと頷き、水平線へと目を向ける。
じんわりと染まった空を眺めて、レウシアはしぱしぱと目を瞬いた。
「……まっか、だ」
「そっすねぇ……もっと赤いときもあるっすよ。んじゃ、俺はハゲの野郎を呼びに――」
「あ、おはよう犬の人! 竜人のお嬢さんも! いい朝だね!! 僕はまだ寝てないけどね!!」
ふいに大きな声が甲板上に響き渡り、どたどたと騒がしい足音がレウシアたちへ近寄ってくる。
ジヌイは僅かに顔をしかめると、駆け寄ってきた小柄な男――自称カザドの紳士へ片手をひらりと振ってみせた。
「おはようさん。早朝から元気っすね、ローニ」
「うん? そりゃもう、寝てないからね! ハハハッ!!」
「……そりゃさっき聞いたっす。寝りゃいいじゃねぇですか、なにしてんすか?」
「よくぞ訊いてくれた!」
ローニは両手で口髭をみょいんと引っ張ると、小さな体で胸を張り、大きな声で質問に答える。
「海水から真水を作る装置を造っていたのさ! まあ、全然上手くいかないけどね!!」
「はぁ? なんだってそんなもん……?」
「なぜって、この船は真水が少な過ぎるよッ!」
「いや、お嬢たちが酒を飲めねぇから、これでも結構積んでるほうっすよ……?」
「なにを言っているんだい!? あれっぽっちじゃ体を洗えないじゃないか!? 不衛生だよっ!?」
「あー……船旅だから仕方なくねぇすか? つーか、なんだってまた、アンタもこの船に乗ることに……」
寝不足の頭に響くのか、ジヌイが伏せた片犬耳を手で押さえながら問いかける。
ローニはふんと息を吐き出し、トンと拳で自らの胸を叩いた。
「なに、銃のメンテナンスができる者も必要だろう? 前から島の外には興味があったけど、きみたちは海賊だったからね! 捕まって縛り首は嫌だからこれまで同行しなかったけど、海賊を辞めて商船になるっていうなら話は別さ!!」
「……別に、過去にやったことがなくなるわけじゃねぇんで、バレて捕まったらふつうに縛り首っすよ?」
「えええッ!? それは本当かいっ!?」
「はぁ……」
ジヌイは深々と溜息を吐いて、片犬耳を押さえたまま船室のほうへと足を向けた。――どうやらかなり、ローニの大声が頭に響くようだった。
「――レンプの奴を呼んでくるっす。じゃ……」
「し、縛り首……いまからでも船を降りて……でも装置が、もう少しで……」
僅かに重い足取りでジヌイの姿が船室へ消えると、ローニもふらふらと船尾に向かって歩き去る。
一人で残されたレウシアは、ぺたんとその場に座り込んで、再び水平線へと目を向けた。
陽は先ほどより昇りかけ、空の赤みに白い光が射し混ざる。
「喧しい男だな、あれは。……それにしても、こんな時間にどうしたというのだ? 本当に」
「……ん」
竜の少女はぼんやり頷き、傍らの魔導書へ目を向ける。
「……ずっと、って、なにかな」
「うん? ずっとはずっとだろう。永遠というわけではないが、まあ人族だと、死ぬまで、という意味ではないか?」
「……えると、わたしの、ずっとは、違う」
「む――」
――そんなことを気にしていたのか。
とは言わずに、魔導書はじっと黙り込む。
潮風に煽られて、少女の黒髪がさらりと流れ、遠くで海鳥の鳴く声がした。
「……にゃー、だ」
「なあ、レウシアよ……昨夜書いていた術式も、短いものだったな。お前、本当はもう、竜には――」
「レウシアさんっ!!」
「……ぅ?」
ふと聞こえた少女の声に、レウシアが肩越しに振り返る。
鈴の鳴るような声の主は銀色の髪を靡かせて、微かに肩で息をしながら、竜の少女を蒼い瞳でじっと見つめていた。
やがてほっと息を吐き出し、エルはぎゅっと胸元を押さえながら、レウシアへと微笑みかける。
「もう、びっくりしたんですからね。起きたらいないから……」
「……ん」
レウシアは一度きゅっと瞼を閉じてから、赤い瞳をぱちりと開くと、次いでふわりと微笑んだ。
「……える、おは、よ?」
「はい。おはようございます、レウシアさんっ」
いつの間にか水平線から陽は昇りきり、代わりに大きな島の影が姿を覗かせ始めている。
鳥の群れは長く尾を引く鳴き声を残し、船を離れて遠くの島へと、翼を広げて向かっていった。
◇
えると けっこん しました
◇
時刻は早朝――彼女にしては、稀な起床時間である。
レウシアがベッドからむくりと体を起こすと、船長机に置かれた魔導書は訝しげな声で問いかけた。
「どうした? なにかあったのか?」
「……ん」
竜の少女はきょろきょろと周囲を見回し、探していた人物を見つけて息を吐く。
部屋の隅に設えられた背もたれ付きの椅子に腰掛け、件の人物は浅く寝息を立てていた。
「……える」
とててっと、レウシアはエルに近づいて、その寝顔を窺った。
細い、銀糸の前髪の下、閉じられた瞼からは長い睫毛が伏せている。――寝ている姿だけを見ていると、まるで精巧な人形のようだ。
近頃は頓に様々な表情を見せる彼女の寝姿をしばらくじっと眺めたのち、レウシアは扉に視線を移した。
「……ん」
ベッドと扉を交互に見比べてから、やがてこくりと一つ頷き、レウシアは船長机のほうへと向かう。
「うん? 我に魔導を書き記すのか? こんなに朝早くからとは感心――」
「……んーん」
「む? 違うのか? おい、どこへ――」
魔導書を手に取り、レウシアは静かに部屋を出る。
ぱたん、と扉の閉まる音がして、エルの瞼がぴくりと動いた。
「――レウシアさん、ずっと……」
聖女の寝言がかすかに漏れ、やがて寝息の音だけが、船長室に残された。
* * *
――水平線をじわりと染める薄赤い光を眺めながら、片犬耳のジヌイはふわぁと大きく欠伸を漏らした。
空を漂う、雲の下半分もまた薄紅色だ。
ジヌイは眩しそうに目を細めると、いましがた降りてきたばかりの見張り台を見上げ、チッと小さく舌打ちをする。
次の瞬間、背後になにかの気配を感じ、ジヌイはさっと振り返った。
「っ、なんだ、お嬢ですかい。……どしたんすか? こんな朝早く」
「……ん」
気配の正体は、小柄な竜人の少女――レウシアであった。
元海賊船【ムエット・ノアール】号の新船長は、相変わらずのぼんやりとした顔で、ジヌイの片犬耳を見上げて佇んでいる。
どうしたのか? という問いに対し頷きだけを返してから、彼女はぽつりと、呟くようにジヌイに尋ねた。
「……なんで、お耳、かたっぽ、ない、の?」
「へ? ああ、これっすかい? 俺ぁ昔、剣奴だったんすけど、そんときにちょっと下手打っちまいまして」
「……けん、ど?」
「そーゆー奴隷っすね。結構長く生き残ってたんすよ? まあ獣人のクセに、人族の女の子に片耳切り落とされた雑魚っすけどね。……そんで処分されそうになって、逃げだして、色々あってこの船に乗ってるんすけど」
ジヌイは欠けた犬耳の根元を撫でて、たはは、と自嘲気な笑い声を漏らす。
「……おんなのこ、なんだ」
「そっすね。なんつーか、凄ぇ目付きの悪い、赤い髪の痩せっぽちの女で――いや、いまさら俺のことなんて、どうして急に気になったんすか?」
「……きかれた、だけ」
「え……誰にっすか? あ、もしかしてエレ――ッ!?」
きゅっ、となにかに後ろから耳を引っ張られた気がして、ジヌイは言葉を詰まらせ振り返った。
背後に誰もいないことを確認すると、彼は残った片犬耳をぺたんと伏せて大きく嘆息する。
「気のせいすかね……? やっぱ寝不足かな……」
「……?」
緩くかぶりを振ってから、ぼりぼりと頭を掻いてぼやくジヌイ。
「……さっさとハゲの奴と交代したいんすけど、あの野郎いつまで寝てるのやら。……お嬢、ちょっと呼んできてくれないすかね? 俺が呼びに行こうかと思ったんすけど、さすがに見張り台から誰もいなくなると、元船長が怒りそうなんすよ」
「……おへや、知らない、よ?」
「あー……だったら、お嬢が見張り台に――は、なんか危なそうなんで、ここで海見ててくれるだけでいいっす。俺が呼んでくるんで」
「……そっ、か。わかっ、た」
竜の少女はこくりと頷き、水平線へと目を向ける。
じんわりと染まった空を眺めて、レウシアはしぱしぱと目を瞬いた。
「……まっか、だ」
「そっすねぇ……もっと赤いときもあるっすよ。んじゃ、俺はハゲの野郎を呼びに――」
「あ、おはよう犬の人! 竜人のお嬢さんも! いい朝だね!! 僕はまだ寝てないけどね!!」
ふいに大きな声が甲板上に響き渡り、どたどたと騒がしい足音がレウシアたちへ近寄ってくる。
ジヌイは僅かに顔をしかめると、駆け寄ってきた小柄な男――自称カザドの紳士へ片手をひらりと振ってみせた。
「おはようさん。早朝から元気っすね、ローニ」
「うん? そりゃもう、寝てないからね! ハハハッ!!」
「……そりゃさっき聞いたっす。寝りゃいいじゃねぇですか、なにしてんすか?」
「よくぞ訊いてくれた!」
ローニは両手で口髭をみょいんと引っ張ると、小さな体で胸を張り、大きな声で質問に答える。
「海水から真水を作る装置を造っていたのさ! まあ、全然上手くいかないけどね!!」
「はぁ? なんだってそんなもん……?」
「なぜって、この船は真水が少な過ぎるよッ!」
「いや、お嬢たちが酒を飲めねぇから、これでも結構積んでるほうっすよ……?」
「なにを言っているんだい!? あれっぽっちじゃ体を洗えないじゃないか!? 不衛生だよっ!?」
「あー……船旅だから仕方なくねぇすか? つーか、なんだってまた、アンタもこの船に乗ることに……」
寝不足の頭に響くのか、ジヌイが伏せた片犬耳を手で押さえながら問いかける。
ローニはふんと息を吐き出し、トンと拳で自らの胸を叩いた。
「なに、銃のメンテナンスができる者も必要だろう? 前から島の外には興味があったけど、きみたちは海賊だったからね! 捕まって縛り首は嫌だからこれまで同行しなかったけど、海賊を辞めて商船になるっていうなら話は別さ!!」
「……別に、過去にやったことがなくなるわけじゃねぇんで、バレて捕まったらふつうに縛り首っすよ?」
「えええッ!? それは本当かいっ!?」
「はぁ……」
ジヌイは深々と溜息を吐いて、片犬耳を押さえたまま船室のほうへと足を向けた。――どうやらかなり、ローニの大声が頭に響くようだった。
「――レンプの奴を呼んでくるっす。じゃ……」
「し、縛り首……いまからでも船を降りて……でも装置が、もう少しで……」
僅かに重い足取りでジヌイの姿が船室へ消えると、ローニもふらふらと船尾に向かって歩き去る。
一人で残されたレウシアは、ぺたんとその場に座り込んで、再び水平線へと目を向けた。
陽は先ほどより昇りかけ、空の赤みに白い光が射し混ざる。
「喧しい男だな、あれは。……それにしても、こんな時間にどうしたというのだ? 本当に」
「……ん」
竜の少女はぼんやり頷き、傍らの魔導書へ目を向ける。
「……ずっと、って、なにかな」
「うん? ずっとはずっとだろう。永遠というわけではないが、まあ人族だと、死ぬまで、という意味ではないか?」
「……えると、わたしの、ずっとは、違う」
「む――」
――そんなことを気にしていたのか。
とは言わずに、魔導書はじっと黙り込む。
潮風に煽られて、少女の黒髪がさらりと流れ、遠くで海鳥の鳴く声がした。
「……にゃー、だ」
「なあ、レウシアよ……昨夜書いていた術式も、短いものだったな。お前、本当はもう、竜には――」
「レウシアさんっ!!」
「……ぅ?」
ふと聞こえた少女の声に、レウシアが肩越しに振り返る。
鈴の鳴るような声の主は銀色の髪を靡かせて、微かに肩で息をしながら、竜の少女を蒼い瞳でじっと見つめていた。
やがてほっと息を吐き出し、エルはぎゅっと胸元を押さえながら、レウシアへと微笑みかける。
「もう、びっくりしたんですからね。起きたらいないから……」
「……ん」
レウシアは一度きゅっと瞼を閉じてから、赤い瞳をぱちりと開くと、次いでふわりと微笑んだ。
「……える、おは、よ?」
「はい。おはようございます、レウシアさんっ」
いつの間にか水平線から陽は昇りきり、代わりに大きな島の影が姿を覗かせ始めている。
鳥の群れは長く尾を引く鳴き声を残し、船を離れて遠くの島へと、翼を広げて向かっていった。
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えると けっこん しました
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