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1巻
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しおりを挟む(え……?)
ようやく焦点があったと思ったら、眼前に雄一の目がある。瞳の微妙な色合いまでしっかりと判別できる近さだ。それはまるでひとつの天体のようで、見つめ続けると吸い込まれてしまいそうなほど神秘的だった。
「うん……、思った通り、柔らかい唇だな」
触れ合ったままの唇がそう呟き、彩乃を抱く腕の筋肉が硬く引き締まった。身体がぴったりと密着して、彼のぬくもりを肌に感じる。
「桜……、んっ……」
しゃべりだした唇を、改めて仕掛けられたキスで完全に塞がれてしまった。
いったいなにがどうなっているのか、まったくわからない。パニックの嵐のなか、彼の舌先が入ってきた。決して強引な感じではなく、ごく自然に。彩乃の固く握りしめていた拳が、徐々に開いていく。雄一の長い睫毛、深い瞳の色。その目が、うっすらと細められると同時に、触れ合った舌がゆっくりとからんできた。そして、まるでクリームを舐めとるように彩乃の口のなかをゆるゆると巡り始める。
「ん……ふ、ぅ……」
頭の芯がじぃんと痺れて、身体の中心にわけのわからない熱が宿った。呼吸が乱れ、目蓋が勝手に閉じてしまう。キスが立てる密やかな水音が聞こえる。
「……もしかして、こんなキスは初めて?」
雄一の低い声が、そう囁く。
うっとりと頷いてしまった後、彩乃ははっと我に返り、大きく目を開いた。じたばたと足を動かし、ようやくぴったりとくっついていた胸を離す。そしてよろよろと後ずさった。
「さ、さっ、桜庭様っ! いったいなにをなさるんですかっ?」
どもりながらさらに後ろ向きに進んで、ドンと壁にもたれかかる。
「なにって、キスだよ。嬉しいな、君からキスをしてくれるなんて」
「わ、私から? ち、違います! あれは、転びそうになったから、不可抗力で……。と、とにかく、違いますから! 誤解です。私から、キ、キスとか……し、失礼します!」
ドアに向かって駆けだしたローヒールの踵が、なにもない床面にひっかかった。雄一の手が伸びるのが見えたが、それを振り切り、転がるように部屋から出る。廊下つきあたりのドアを押し開き、非常階段の踊り場に駆け込んだ。
「ぷあっ!」
いつの間にか呼吸を止めていたらしく、ひとりになった途端急に息苦しさを感じた。
「なに? 今のなにっ? 嘘、嘘、嘘っ……なんでキスとか……もう、信じられないっ!」
頭が完全にパニックを起こしている。いくらお客様とはいえ、あんなことをするなんて到底許されることではない。
しかも、これが彩乃にとって初めてのキスだ。浅い付き合いの男友達はいたけれど、誰ともそんな関係になったことはない。もっと言えば、キスはおろか男性と手をつないだことすらないのだ。
二十七歳にもなって、乙女チックなファーストキスを夢見ていたわけじゃないけど、まさかこんな形で初めてのキスをしてしまうなんて。
「いきなりあんなこと……やっぱり、噂通りだったんだ……プレイボーイ……とんでもないセクハラ男……! いくら名の知れたイケメンだからって、だからって……」
小さく独り言をいいながら、階段を下りる。手すりに掴まっていなければ足元がおぼつかないくらい、気が動転していた。
沸々とわいてくるのは、怒りなのか戸惑いなのか。なにせ脳みそが完全にショートしていて、自分の感情すら把握できないのだ。今やキスの衝撃が全身に影響を及ぼしている。行き場のない混迷に思いっきり振り回されているうち、さっき交わしたばかりのキスが頭のなかに思い浮かんだ。
――確かに、彩乃から唇を押しつける形になってしまったかもしれない。
「でも、もともとあっちがいけないんだからね? そもそも初対面だし、相手はお客様だよ? なのにキスとか……ありえない! なんでこうなっちゃったの? ああ、もう信じられない~!」
しばらくパニックに陥っていたが、その興奮状態が収まってくると、なんともいえない脱力感に襲われた。曲がりなりにも男性の腕に抱かれ、初めてのキスを交わした。しかも、ただ唇を合わせるだけじゃないキス。いわゆるディープキスを、だ。
「やだ、もう……。なにやってんのよ私……」
なぜあのときもっと毅然とした態度をとれなかったのだろう。突然のこととはいえ、冷静になっていればこんな事態にはならなかったかもしれないのに。
〝俺と恋をしよう〟なんて言われたのが、そもそもの元凶だ。
おおかたモテ男が言うちょっとした軽口だろう――頭ではそんなふうに思っていた割には、胸のドキドキが半端なかったことは事実だ。正直なところ、ちょっと舞い上がってしまっていた。――もっと言えば、不覚にも一瞬本気なのかと思ったのだ。
「あー情けない……。もしかしてこれって、こじらせ女子ってやつ? やっぱりこの年になって男性経験ゼロってありえないこと? だって仕方ないでしょ。忙しくて出会いなんかないし、そもそも別に恋人なんかほしいと思わないし……」
強がりじゃなくて、これは本当の気持ちだ。
今は仕事を頑張りたいし、仮に恋人がいてもデートに費やしている時間的余裕はない。
しばらくブツブツとつぶやいていた彩乃だが、長々と独り言を言っていることに気づき、慌てて口を閉じた。そして手の甲で、唇をごしごしこする。
イギリスに生まれ育ったというだけで、無意識に紳士的な人物を期待していた自分が愚かだった。
世界中を飛び回る旅行家なのだから、むしろ無頼漢と考えるべきだったのかもしれない。
ホテルを利用するお客様は、みながみなジェントルというわけではない。なかには困った人だっている。旅先で、普段より開放的になっていることもあるだろう。とはいえ、いくらなんでもあの振る舞いはあまりにも自由すぎだ。
混乱したまま、気づけば二十三階から一階まで、階段を下り切ってしまっていた。だけど、心臓の動きが速いのは階段を駆け下りたためではなく、あのエロティックなキスのせいだ。
フロアに出る前に、立ち寄ったロッカールームで身だしなみをざっとチェックする。案の定口紅は落ちているし、前髪は完全に乱れていた。化粧を直し前髪を櫛で梳かしていると、ふとさっき言われた言葉が頭のなかによみがえった。
〝可愛いおでこちゃんだな〟
確か、彼はそう言った。
これまでに、その台詞で彩乃の広い額を褒めてくれた人がひとりだけいた。
彩乃が十五歳のときに病気で亡くなった母だ。母は、幼い彩乃の頭を撫で〝可愛いおでこちゃん〟と褒めてくれたものだ。
さっきいきなり額を丸出しにされたときはびっくりしたけど、不思議と嫌な感じがしなかったのは、母と同じ言葉を投げかけられたせいだろうか――
(って、感傷に浸ってる場合じゃない! 仕事仕事っ!)
パン、と掌で軽く頬を叩き、背筋を伸ばしフロアに出る。
とにかく、さっきあったことは忘れよう。つけ入る隙があった自分にも非があると言えなくもないし、ことを荒立てるつもりはない。あんなふざけた男でも、このホテルにとっては大切なお客様なのだ。
〝俺と恋をしよう〟だなんて戯言も、不可抗力だったキスのことも、全部ひっくるめてなかったことにしよう。
(大丈夫、私はコンシェルジュだもの。職場にいるときは、個人よりもホテルウーマンとしての自分優先)
デスクに戻ると、袴田がちらりと視線を投げかけてきた。そして、お客様が途切れた合間に小声で声をかけてくる。
「さっきは驚いたね。部屋までいって大丈夫だった?」
常に穏やかな袴田の声は、いつだって安心感を与えてくれる。彩乃にとって彼は、新人時代の教育係であり、コンシェルジュのお手本のような存在だ。
「はい、さすがにちょっとびっくりしましたけど、もう平気です。ご案内も無事に終えてきました」
「よかった。今後桜庭様との間でなにかあったら、僕に言ってくれたらいい。できる限りサポートはするし、場合によっては君に代わって対応するから」
「ありがとうございます。でも、きっともう大丈夫です」
力強く頷いて見せると、袴田も首を縦に振ってそれに応えた。
彼は普段からなにかと周りのスタッフのことを気遣ってくれるし、彩乃自身もピンチを救ってもらったことがある。だけど、それに甘えてばかりはいられない。彩乃とて、コンシェルジュになって三年。降りかかったトラブルを、ひとりで処理できなくてどうする。そう思い、彩乃は改めて姿勢を正した。ほどなくして、コンシェルジュデスクに背の高い銀髪の紳士が顔を出した。
「あ、総支配人。お疲れ様です」
目の前の顔が、茶目っけたっぷりな微笑みを浮かべる。
「やあ、ふたりとも調子はどうかな?」
彼はリチャード・エヴァンスといい、七年前にロンドンのとある有名ホテルから引き抜かれ、ホテル・セレーネの総支配人に就任した人物だ。結婚四十周年を迎える彼の妻は日本人で、彼自身日本語がペラペラだった。そのうえ、ホテルスタッフの誰よりも日本文化に精通している。
「はい、なにも問題はありません」
袴田が答え、彩乃もそれに同意して軽く頷く。
「結構。実に気持ちのいい返事ですね」
エヴァンスが満足そうに目を細める。
もう還暦を超えているが、この人からは老いを感じない。彼はかつて、伝説と謳われるほどの名コンシェルジュだったという。彩乃は彼のことを心から尊敬しており、目標としている。
総支配人という立場にもかかわらず、彼はまったくもって飾らない性格だ。暇さえあればホテル内を歩き回り、誰にでも気さくに声をかけている。
「時に桂木君。君にひとつ頼みたいことがあるんだ」
「はい、なんでしょう」
憧れの支配人から、直々に頼みごと? こんなことは今までになかった。彩乃の胸が期待と不安でドキドキしてくる。
「先ほど到着した桜庭様だが、君にパーソナルコンシェルジュをやってもらおうと思うんだよ」
「私に、桜庭様の、パーソナルコンシェルジュを!?」
ひとつひとつ単語を区切るよう発音して、彩乃は言われたことの意味を正しく頭のなかで理解しようと努めた。パーソナルコンシェルジュ。それはつまり、彼のリクエストを専門に引き受ける担当者になるということだ。
「むろん、他の業務をやりながらだし、他のスタッフにもこのことは承知してもらっておく。業務の流れもあるが、基本的に桜庭様からのリクエストには君が応えてもらう、という感じになるかな。これは私からの提案であると同時に、桜庭様のご希望でもあるんだ」
彩乃の頬が、ぴくりと引きつる。
「桜庭様のご希望、ですか?」
「うん、そうだよ。桜庭様は君が気に入ったようだ。私も、君が適任だと思っている。君は東京が地元だから、取材のためにいらした桜庭様の担当に合っていると判断したんだがね。どうかな? シフトの変更は調整するように言っておくよ」
――桜庭雄一は危険だ。
彩乃の頭の隅で、警告のアラームが鳴る。だけど、そんなことは言っていられない。
総支配人直々に頼まれたことを、断ることなんてできるわけがない。
さっき部屋で起きた出来事は気になるけど、それは彩乃自身が気をつければすむはずだ。そうすればあんなことは二度と起きないだろう。
(さっさと頭を切り替えろ、彩乃。あなたならできるでしょ? 頑張れ!)
心のなかで自分を叱咤する。
それに考えてみれば、彩乃にとってお客さまから指名されるというのは初めてのことだ。しかも、相手はホテルにとって大切な人物。これは、尊敬する総支配人に認められるチャンスかもしれない。
「承知しました」
力強く頷き、口角をきゅっと上げる。
「桜庭様のパーソナルコンシェルジュをお引き受けします。そして、引き受けたからには全力で対応させていただきます」
「よかった。では、桜庭様には私からお伝えしておくからね」
エヴァンスがデスクを離れると同時に、袴田がなにか言おうと口を開いた。だけど、やってきた団体客の応対をしなくてはならず、それきりになってしまう。
彩乃は元々人の世話を焼くのは嫌いではなかったし、人のためになにかして、それを喜んでもらうことにやりがいを覚える性格だった。だからこそ、コンシェルジュという職業を選んだともいえる。
コンシェルジュとしての成長をのぞむ今の彩乃にとって、桜庭雄一の件はきっと試練のひとつなのだ。そう考えれば、キスの件もすっぱりなかったことにできる気がする。いや、そうでなければ困る。彩乃は、半ば無理やりそう自分を納得させて、目の前の仕事に没頭した。
ホテル・セレーネは四勤務形態のシフト制になっており、桜庭雄一がやってきた次の日の彩乃は、十二時半から二十一時までの勤務だった。桜庭を迎えた昨日のように七時から入る場合は、終わりが十五時半。十四時半からのシフトだと二十三時までで、二十一時からの夜勤に就く場合は、翌朝八時までが勤務時間だ。
彩乃は、雄一が滞在している期間中は、夜勤はなしで日勤だけを担当することになった。
今日は金曜。平日のお昼前ということもあり、フロアは比較的空いている。彩乃が引き継いだ仕事を再度チェックしていると、ふと強い視線を感じた。
顔を上げて見ると、白のカットソーにジーンズ姿の雄一が、にこやかな顔で近づいてくるのが目に入った。
途端に心臓が喉元までせり上がってきた気がする。昨日のキスが頭に浮かぶ。
(なんでもない、なんでもない。彼はお客様、ただの……)
心の動揺を抑えつけるように、口元に微笑みを浮かべる。隣にいるフランス人の同僚シャルルは、常連客からの依頼を処理している最中だし、そうでなくても雄一のパーソナルコンシェルジュを仰せつかった以上、彼からのリクエストがあれば彩乃が対応するのが当たり前だ。
雄一は、たたんで持っていた新聞を振りながら、デスク前に到着した。
「やぁ、昨日はどうも。俺のパーソナルコンシェルジュになってくれるそうだね。さっそくだけど、ひとつお願いがあるんだ。いいかな?」
目が合うと同時に、彼が口を開いた。デスクに軽く肘をつくしぐさが、憎らしいほど優雅だ。
「もちろんです。なんなりとお申しつけください」
日頃からお客様との距離感について気をつけてはいるけれど、彼に関しては通常よりも広めに距離を取ったほうがいいように思う。もちろん、物理的にも心理的にもだ。
彼のヘーゼル色の瞳は、きっと彩乃だけでなく、多くの人を惑わせるもの。光の加減で色を変えるそれは、油断するとつい魅入られてしまう。まったくもって危険極まりない。
「うん、実は今回取材を予定していたところが、ひとつだめになってね。奥多摩や国会図書館にはいく予定なんだけど、それだけじゃ足りない。君は東京が地元だっていうから、俺のために新たな取材先を考えてほしいんだ。派手じゃなくてもいい。なにかこう、心の奥底からわくわくできるようなレアな場所がいいな。ジャンルは問わないよ。いくつか見つくろって、できたら俺が帰ってくるまでに用意しておいて」
それだけ言うと、雄一はにっこりと微笑んで入り口へ歩いていく。軽装でカメラもなにも持っていないところを見ると、遠出ではないだろう。
できるだけ迅速かつ的確にリクエストに応える。それこそがコンシェルジュに求められることだ。それに今回のような漠然とした要求のときこそ、腕の見せ所だ。果たして彼は、どんな取材先を提供すれば喜んでくれるだろうか?
「よしっ!」
小声で気合を入れ、さっそく頭のなかに候補を思い浮かべてみる。雄一のパーソナルコンシェルジュとしての、最初の仕事だ。しかも、彼は彩乃が東京で生まれ育ったことを知った上でリクエストしている。彼の期待に応えなければ、そう思い、張り切って考え始めた彩乃だったが……
(あれ? ……結構難しいかも)
改めて考えてみると、彩乃は自分が思っていたほど情報を持っていないことに気づいた。
雄一が求めているのは、〝心の奥底からわくわくできるようなレアな場所〟だ。彼はプロの旅行家であり、世界中が彼の舞台といえる。そんな彼が求める取材先とは……
彩乃は、彼の著書をくり返し読み耽ってしまうほど、その内容に引き込まれている。だから彼が人一倍好奇心旺盛であることや、人とのコミュニケーションを重視することは十分わかっていた。そしてその取材スタイルが決して上っ面なものではなく、真の密着型であることもきちんと感じ取っている。
ネットで検索して出てくるような情報ではなく、彩乃だからこそ提供できるようななにか――
変に奇をてらったものではなく、取材する上で彼が心から楽しいと思えるようなローカルで価値のある取材対象――
彼は彩乃に、それを求めているのだ。名は知られていなくても、本当に面白くて興味がそそられる場所とは、どんなものだろう。
〝自分目線ではなく、お客様と同じ目線で考え、見ること〟
それは、以前エヴァンスがスタッフに言った言葉であり、彩乃が常に念頭に置いている教えだ。
チェックインの時間を迎え、コンシェルジュデスクの前にもお客様が列をなす。いつもながらの目まぐるしさに追われつつも、彩乃はどうにか数か所の取材先を準備した。
すぐに帰ってくると思っていたのに、雄一がホテルに戻ったのは、夕方になってからだった。ホテルに入るなり彩乃に視線を定め、まっすぐにコンシェルジュデスク目指して歩いてくる。
気持ちを切り替えて臨んだ彼からのリクエストは、決して簡単ではなかった。けれど、わくわくする楽しいものだった。実際に取材をしてもらえるなら、きっと満足してもらえる。そう思えるものをピックアップしたし、そうとなれば一刻でも早く雄一に披露したいと思っていた。
「おかえりなさいませ、桜庭様」
彼がデスクに手を触れるワンテンポ前で、声をかける。
「ああ、ただいま。思いのほか帰るのが遅くなってしまった。東京って、やっぱり面白いね。たった二週間じゃ時間が足りそうもないよ」
屈託なく笑う雄一の顔は、まるで少年のように無邪気だ。
「そうですね、二週間なんてあっという間に経ってしまうかもしれませんよ」
我ながら驚くほどスラスラと返答し、用意していた資料をデスクの上に置いた。
「リクエストいただいた件について、いくつか候補を挙げてみました。桜庭様のご要望にお応えできればいいのですが」
彩乃からの提案は三つ。それぞれに必要と思われる情報をまとめ、わかりやすいようにプリントアウトした写真も添付してみた。
雄一は、さっそくそれを開いて、軽く頷きながら見入っている。
「ありがとう。さすが俺のパーソナルコンシェルジュは頼りになるな。詳しく聞きたいから、後で部屋にきてもらえるかな?」
「はい、承知しました」
資料の入ったファイルを持ち、雄一は改めてにっこりと微笑むと、エレベーターホールへと歩いていく。
「気に入ってもらえそうですね」
隣にいるシャルルが、デスク内側で小さくガッツポーズをした。中途採用の彼は年上だが、彩乃の同期だ。彼は彩乃が写真をプリントアウトする間、進んで他の仕事を請け負ってくれていた。
「ありがとう。そうだといいんですけど」
お客様が途切れたタイミングで、バックルームにいるスタッフに声をかけ、雄一の部屋に向かう。
エレベーターには他に人はいない。彩乃は口を大きく開閉して、こわばった表情筋と、高まりつつあった緊張をほぐそうと試みた。
部屋のドアに近づき、軽くノックすると、すぐにドアが開いた。
「失礼しま――」
「待ってたよ。ちょっとこっちにきてもらえる?」
挨拶の途中でぐいと腰を抱かれ、部屋のなかに導かれる。
「は、はいっ」
戸惑いながらも、なんとか彼の歩幅に合わせて早足で歩いた。
「ところで、君のこと彩乃って呼んでいいかな?」
「あ、はい。構いません」
了承の返事をしつつ、彩乃は動揺していた。常連のお客様のなかには、親しみをこめて名前で呼んでくれる人も何人かいる。だけどそれは外国からきた年配の人ばかりで、彼のように若い男性客からそんなふうに呼ばれたことは一度もない。ましてや、いきなり腰を抱かれるとは。だけど、不思議と違和感がないのは、やはり彼がイギリスで育ったせいだろうか。嫌悪感などまったくないし、むしろドキドキする。
クリーム色を基調とした部屋を横切り、窓辺に近づいたとき彼がある一点を指差した。窓の外はすでに夕暮れ時を迎えて、立ち並ぶビル群には赤いライトが点っている。窓が大きくとってあるこの部屋は、外の景色がまるで一枚の絵画のように見えるのが特徴だ。
「あれ、見える? あの青く光ってる建物。あれはなに?」
「はい、あれは四年前に建てられた電波塔で――」
目線が同じ高さになるまでかがみこまれて、あやうく頬がくっつきそうになる。
また昨日のようなことになってはいけないと注意していたものの、あれこれ説明をするうちに、いつの間にまた近づいてしまっていた。
「へえ、東京の十年はひと昔どころじゃないな」
気づけば、雄一の顔がすぐ横にあった。
(ち、近っ!)
これはいけない! というか、非常にまずい。彩乃は慌てて軽く咳払いし、そのタイミングで雄一から身を離した。
「あ、取材について聞く前にちょっとシャワー浴びてきていいかな?」
雄一は、すでにくつろげていた襟元を指差し、ほんの少し眉を上にあげた。
「そうでしたか。承知しました。ではまた改めてお伺いしますね」
そそくさとドアに向かおうとする彩乃を、雄一の腕がやんわりと制する。
「いや、せっかくきてもらったんだし、できたらここで待っていてくれないかな」
「えっ、ここで……?」
「うん、すぐに終わらせるから大丈夫だよ」
彩乃に向けて軽くウインクすると、雄一はさっさとバスルームに入ってしまった。
(ぜんぜん大丈夫じゃないわよ!)
用があるとはいえ、シャワー中のお客様がいる部屋で待機するなんて、到底好ましいことではない。けれど彩乃の戸惑いをよそに、バスルームからは早々にシャワーを浴びる音が聞こえてきた。
気ままというか自由すぎるというか。勝手に帰るわけにもいかず、彩乃は所在なくその場に立ちつくした。しばらくすると、半開きのままのドアの向こうから、雄一の歌声が聞こえてきた。決して大声ではないのに、ひとつひとつの音が部屋のなかに広がる、のびやかでよく響く声だ。その美声に誘われ、気づけば彩乃はバスルームのほうに歩を進めていた。歌声は、これまで彼が話していた日本語ではなく、綺麗なクイーンズイングリッシュだ。
その歌に聞き覚えはまったくないけれど、どうやら甘く切ない恋の歌らしい。耳をそばだてているうち、彩乃はいつのまにか目を閉じていたようだ。はっと気がついて目を開けた瞬間、バスルームのドアが大きく開いた。
「わっ!」
慌てて飛び退ったけれど、ほんの少しドアに額をぶつけてしまった。
「うわ、どうした?」
「す、すみませんっ!」
謝りながら頭を下げると、またゴツンという鈍い音が聞こえてきた。
「いっ……」
思わず声が出そうになるも、どうにか抑えこんで平静を装う。
なんという失態だろう! 一度ならず、二度までも、ドアに頭をぶつけてしまうなんて。
「頭打ったろ。大丈夫か?」
問いかけられ、キツツキのようにうんうんと頷いて見せた。
「そうか。じゃあよかったけど……。でも、なんであんなところに立ってたんだ?」
聞かれて当然の問いに、つい口ごもって視線をそらした。
「えっと……、あの、ドアが……、ドアがちゃんと閉まってなかったので!」
とってつけたような言い訳だけど、一応事実だし、嘘はついていない。いつもの倍以上努力して口元に微笑みを浮かべ、どうにか視線を彼に戻す。
「ふぅん? どれ、一応見せて」
躊躇する隙も与えられず壁際に追い込まれ、温かな手で前髪をかき上げられた。
「ちょっと赤くなってるけど大丈夫かな……。うん、やっぱり可愛いおでこちゃんだ」
指先でそっと額をなぞられ、昨日のキスの感触を思い出してしまった。
ヤバい。このままではいけない。頭のなかに浮かんでくる生々しい記憶を振り払おうと、彩乃は極力明るい声で雄一に話しかけた。
「あの、さっきバスルームで歌ってらした曲……あれは、なんていう曲なんですか?」
「あぁ、あれ? 俺が好きなイギリスの古い歌だよ。歌詞の内容もいいだろ? 愛し合うふたりが、初めて会ったときのことを歌ってるんだ」
雄一は、簡単に曲の解説を始めた。日本ではあまり知られていないものの、愛する人の顔を初めて見たとき、初めてのキス、初めて結ばれたときのことを歌ったその曲は、イギリスでは愛を歌うスタンダード曲になっているという。
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