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1巻
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しおりを挟む「今夜の歌舞伎のチケットを取ってもらいたい。いわゆる『かぶりつき』といわれる席がいいんだけど」
フランスからの常連客が、コンシェルジュデスクにくるなり、そんなリクエストを持ち込んできた。
「はい、かしこまりました。ただ今お調べいたします」
彩乃はにっこりと微笑み、さっそく備えつけのパソコンに文字を打ち込む。その後ろからやってきた海外からのお客様が、隣にいるコンシェルジュに真剣な顔で耳打ちする。
「本物のニンジャに会いたい。どうにか会う約束を取りつけてもらえないだろうか」
お客様の要望は多種多様。たとえそれが非常に困難なことであっても、誠心誠意応えるのがホテルコンシェルジュだ。決して最初から〝NО〟とは言わない。
コンシェルジュは元々はフランス語で、門番とか管理人を意味する言葉である。それから広がり、ホテル業界においては、お客様のリクエストに応えるよろず相談係といった意味合いを持つ職の名称となった。突拍子もない要求をされても、一流コンシェルジュは決して慌てない。必ず一度承って、その上で最善を尽くす。
桂木彩乃、二十七歳。大学在学中にホテルコンシェルジュになるという夢を抱き、卒業後はかねてから希望していた〝ホテル・セレーネ〟に就職した。ここは、外国からの宿泊客も多い、いわゆる高級ホテルだ。入社して最初の二年間はフロントや客室係をはじめとする、ホテル内のありとあらゆる部署を経験した。そして三年前にようやくコンシェルジュ部門への異動が決まり、晴れて夢のスタート地点に立つことができた。
それ以来、彩乃は自分が理想とする一流コンシェルジュになるべく奮闘し、日々努力を重ねているのだ。
長かった夏もようやく一段落した九月のとある木曜日の朝。まだ五時半という早い時間ながら、開け放った窓の外からは、道ゆく人の足音が聞こえてくる。
彩乃の住むアパートは、最寄駅から徒歩三分、通勤時間約三十分と好立地なところにあった。しかも洋間七・五畳とキッチンで家賃六万五千円となかなかの優良物件だ。就職した当初は東京下町にある実家から通っていたが、利便性を考えて二年前からここで一人暮らしを始めた。
洗面所で彩乃は、勢いよく顔を洗い、寝癖のついた髪の毛を指で軽く梳く。
「うわぁ、前髪、変な癖がついちゃってる」
たぶん、うつ伏せになったまま眠りこけたのだろう。前髪は、生え際からまっすぐに上に折れて、額が丸出しになっている。
鏡に映るたまご型の顔は、不器量ではないけれど、どうみても今時の顔をしていない。パーツの出来は悪くないけど、全体的に地味なレトロ顔なのだ。
(相変わらず広いおでこ)
彩乃は、額にコンプレックスがある。ちょっと面積が広すぎるのだ。しかも、ただ広いだけではなく、ちょっとばかり前に突きだしている、いわゆる〝でこっぱち〟だ。
小学生のころ、男子に〝でこっぱち〟とからかわれて以来、彩乃は決して額を出さなくなってしまった。その日までは、前髪を髪留めで押さえ、全開にしていたのだけれど――
そうして、早十年以上。そのままなんとなく前髪を下ろし続け、今や人前で額を出すなんて冗談じゃないと思うまでになってしまっている。
「広い。確かに広いよね、これ……」
前髪を水で濡らし、寝癖を完全にリセットした。それからドライヤーで後ろの髪をまっすぐに伸ばして、耳朶の高さでひとまとめにする。
朝食を食べた後、ニュース番組をチェックしたらもう出発の時間だ。玄関ドアに向かい、壁にかけた鏡を覗き込んで軽く頷く。
「前髪、よし!」
おでこチェックは、出掛ける前の日課だ。
いつかまた、前髪を上げて外を歩く日がくるのか? この広すぎるおでこを褒めてくれる男性にめぐり会うことはあるのか――
前髪に寝癖があった朝は、ついこんなふうに考えてしまう。
仕事に集中していてあまりにも恋愛から程遠い日常が続いているけれど、いつかは素敵な人と出会って、真っ白なウェディングドレスを着て結婚式を挙げたいという願望はある。
そして、その愛する人とともに、前髪の寝癖など気にせずおでこ全開の素顔でくつろぎたい……なんてことをぼんやり思った。
彩乃が勤務する〝ホテル・セレーネ〟は、東京の中心地にある。ビルは地上三十七階で、部屋数は二百九十室。入り口を入ると、正面にフロントとコンシェルジュデスクが並び、右手には壁一面に窓を配した、広々としたホワイエとカフェラウンジがある。
ブラウンを基調にした内装は国内有名建築家の監修によるもので、インテリアから大理石の床に映る館内の光に至るまで、すべてが計算しつくされている。
ホテル利用者の約六割は外国からのお客様だ。コンシェルジュという職業について知識があり、ホテル滞在中のよき相談相手と思ってくれている彼らに声をかけられる機会は多い。
慎重で真面目な性格の彩乃は、今の部署に就いてからまだ大きな失敗をしたことがない。だけど、先輩コンシェルジュたちのように〝あなたがいるホテルだから〟という理由できてくれるような顧客がいるわけでもない。
つまり、お客様からいただいたリクエストに対して〝可〟ではあるけれど〝良〟でも〝優〟でもない対応しかできていないのだ。
このままではいけないと思うし、上司にもそう指導されている。
こんな状態から抜け出して、コンシェルジュとしてワンランクアップするにはどうしたらいいのか――
そんな悩みを抱えながら、彩乃は今日もフロントのすぐ横にあるコンシェルジュデスクにスタンバイをする。
コンシェルジュは全部で七人いるが、デスクに常駐するのはふたりだ。バックルームに控えのスタッフがいるとはいえ、基本はふたりだけで、やってきたお客様全員の担当をする。
今日のパートナーは、頼りになる先輩コンシェルジュの袴田健一だった。
『桜庭様のタクシーが到着しました』
フロント横にある置時計が八時を指すころ、インカムを通してドアマンから連絡が入った。それを聞いて、彩乃は調べ物をしていた手を止めて入り口に視線を向ける。
(あぁ、いよいよだ!)
桜庭雄一。
現在三十二歳の彼は、世界的に有名な旅行家であり、人気ライターでもある。
両親とも日本人だが、父親の仕事の関係でロンドンで生まれ育ったという。その後日本の大学に進学して、今はロンドンに拠点を置いて世界中を飛び回っている。英語と日本語はもちろん、ほかにも数か国語に精通しているらしい。彼が書いた『世界紀行』なる旅行記は、イギリスで出版されるとたちまちベストセラーになり、今や三巻目が出る人気シリーズだ。
現在それは三十を超える国で翻訳出版されており、いずれの国でも好評を博している。彼自身の知名度はここ日本でも相当なもので、その容姿や人柄のよさから各種雑誌で特集記事を組まれるほどの人気ぶりだ。
その彼が、今回取材のために来日して、ここホテル・セレーネに二週間滞在する。宿泊の予約は、仕事の依頼主だという出版社が入れていた。指定された部屋は、見晴らしのいいデラックスルームだ。
普段から趣味と実益を兼ねた読書家である彩乃だけど、あいにくこれまで彼の本を一冊も手に取ったことがなかった。彼の宿泊を知らされ、彩乃は慌てて本屋に駆け込んだ。そこで三巻とも買い、読んでみたのだが――これが実に面白い。
(世界にこんな素敵な場所があるなんて知らなかった! それに、こんな素敵な旅をする人がいるなんて!)
彼の著書を読んでからというもの、彩乃はその魅力にとりつかれ、どっぷりはまっていた。
一巻目、紅海に面した小国で秘境を旅するところからこの本は始まる。旅をスタートしてすぐ、彼は現地の住民と、三か月もの間一緒に暮らしている。その後アフリカ大陸を横断し北大西洋側に向かい、仲良くなった住人と湖のほとりでしばらく一緒に生活していた。そこでは、塩の採取に携わっている。
一見計画性のない放浪に思えるのに、読み終わってみれば、彼が旅の目的としていたものが伝わってくる。飾らないそのままの生活を現地の人とともに送ることで、彼は世界を体感しているのだ。
二巻目は中南米を、三巻目は海に浮かぶ島国を転々と巡っていた。今回の日本滞在は、きっと四巻目のどこかに書き記されるのだろう。
(本も素晴らしいけど、彼自身も……ねぇ)
桜庭雄一の魅力は、その文章力だけではない。彼はかなりの美男子でもあった。東洋人ではあるものの、どことなく日本人離れしており、そこからは西洋的な美しさも感じられる。全体的に彫りが深く、それぞれのパーツはどれをとっても非の打ちどころがない。笑うと親しみやすい顔つきになるけれど、真面目な表情をすると男性的な色気があふれる。
イギリスのゴシップ記事を賑わしたことも一度や二度ではないらしい。芸能人ではないものの、間違いなく海外セレブであり、名うてのプレイボーイといったところだ。
(絶対に素敵な人よね。でも、浮かれちゃだめ)
そんな彼は、職業柄、世界中のホテルに精通しているはずだ。それにホテル側にとって、絶対に粗相があってはならないお客様といえる。
(さあ、気をひきしめるのよ、彩乃!)
『桜庭様、ホテルに入られました』
ドアマンからの追加連絡が入った。
それと同時に、入り口のドアが開き、背が高く飛びぬけてスタイルのいい男性がひとり、フロアに入ってくるのが見えた。紺色のジャケットに、白いコットンパンツ。なんでもない格好なのに、それが驚くほど似合っている。
(うっ、わぁ。超絶的なイケメン……!)
彼は、ゆっくりとフロアを見回し、それからまっすぐにこちらに向かって歩いてきた。
ホテル・セレーネでは、フロントからそのまま繋がった形でコンシェルジュデスクを配置している。この配置ならコンシェルジュを利用したことのない人でも、チェックインなどのついでに気軽にデスクを訪れてもらえるためだ。
雄一は、フロントではなく先にコンシェルジュデスクに立ち寄るようだ。
(どうしよう、近づいてくる……)
今回の取材に関することで、なにかリクエストでもあるのだろうか?
今デスクに就いている彩乃と袴田、両者とも手は空いているし、受け入れ態勢はできている。どんなに胸がドキドキしていようと、彩乃はプロのホテルコンシェルジュだ。それに彩乃とて、著名人と言われるお客様を何十人と相手してきた経験がある。雄一のような素敵すぎるお客様相手であっても、緊張することはない。
だけど――
雄一から、なぜかものすごい圧迫感を感じる。まるで大きな波が打ち寄せてくるような、そしてそれに呑み込まれて前後左右の感覚を失ってしまうような――
近づいてくるにつれ、雄一の視線がまっすぐに彩乃に向けられていることがわかった。その口元には、魅惑的な微笑みが浮かんでいる。
(わわっ、こっちを見てる?)
彩乃の前に、雄一がたどりつく。髪の色は黒に近い焦げ茶で、瞳は綺麗なヘーゼル色だ。信じられないほどハンサムで、圧倒的なインパクトを持った男性。
その彼が、デスクの上に軽く肘をついた。視線が彩乃の胸元に下がり、フルネームが表記された名札で留まる。微笑んでいるものの、その目力は半端なく強い。
彩乃の心臓が、人知れず喉元まで跳ね上がった。これほどの男前と、こんなに近い距離で対峙したことなど一度もない。必死で穏やかな微笑みを浮かべる努力をしてはいるものの、心はもう大パニックだ。かけるべき歓迎の言葉がまったく出てこない。
「桜庭様、お待ちしておりました。ようこそホテル・セレーネへ」
隣にいる袴田から、穏やかな声が聞こえた。その声に、はっと我に返る。彩乃が慌てて雄一に挨拶しようとした瞬間、デスクの縁に置いていた彩乃の手が、持ち上げられた。手を取った雄一は、そのまま自身の口元へひきよせる。
「はじめまして、桂木彩乃さん。――さぁ、俺と恋をしようか」
「はい……っ?」
彩乃は大きく目を見開いて、小さく声を上げた。
目の位置に持ち上げられているのは、間違いなく自分の指先であり、そこに触れているのは、正真正銘、桜庭雄一その人の唇だ。
(キ、キス……! 手にっ……キスされっ……)
ドラマや映画で幾多の劇的なシーンを見たことはあっても、実際に自分の身にそんなことが起こるなんてあろうはずもなかった。
(なんの冗談? からかわれてる? だとしても、なんで私っ?)
動転しすぎて、なんの反応もできない。
しかし、そんな彩乃の反応をまったく意に介さず、雄一の目がゆったりと細められた。そして、おもむろに彼の唇が、彩乃の指先から離れる。
「ごめん、驚かせちゃったかな? でも、今言ったことは本気だから」
(ほ、本気って……! なにそれ! 余計わけわかんないっ……)
ようやく我に返り、彩乃は急いで手を引いた。その様子を見て、雄一はおかしそうに口元を緩める。
「……っ……よ、ようこそホテル・セレーネへ」
精一杯の作り笑顔で、ようやく絞り出した返答がこれ。あまりにも間抜けな受け答えに、自分ながら情けなくなってしまう。もっと気の利いた返しがあるのかもしれないが、これが二十七歳にして彼氏がいたことがない彩乃の、精一杯のレスポンスだった。
彩乃がおろおろしていると、袴田が助け舟を出してくれた。彩乃に代わり雄一のチェックインをすませ、後ろに控えているベルマンに目で合図を送る。
「ああ、荷物は自分で運ぶよ。それと、部屋の案内は彼女に頼みたいな」
雄一が彩乃を示すと、袴田とベルマンから同時に視線を向けられた。
そこでようやく、彩乃の頭が働き始めた。なんということだろう。突然のことに驚いたとはいえ、ただ棒立ちになって事の成り行きを眺めてしまうなんて。
「か、かしこまりました。桜庭様、お部屋までご案内させていただきます。どうぞこちらへ」
それまでの失態を挽回しようと、彩乃はカードキーを持って、雄一のそばにいった。彼の身長は、明らかに百九十センチを超えている。見上げるほどの背の高さ、とはこのことだろう。
フロントを横切り、フロア左手にあるエレベーターホールへと向かう。
(なにか話しかけなきゃ……)
雄一の斜め少し前に身を置き、今度こそなにか気の利いたことを言おうと必死で考える。ぎこちない笑みを口元に浮かべながら、彩乃は頭をフル回転させた。初対面で突然〝恋をしよう〟だなんて変なことを言われたけれど、彼がこのホテルにとって大事なお客様であることは事実なのだから。
そもそも、さっきのセリフだって、彼にしてみればただの軽い挨拶だったのかもしれない。というか、そうに違いない。なにせ彼は、こんなにも魅力あふれる外見の持ち主で、有名人で、そして海外で名の知られているプレイボーイだ。それくらい誰にでも普通に言っているのだろう。
(私、なんて恥ずかしい反応をしてしまったんだろう! 冷静に考えればわかったはずなのに……)
こんなイケメンが、自分なんかを本気で相手にするわけないではないか。
全部で六機あるエレベーターのうち、一番奥にある扉が開いた。頭でぐるぐる考えるだけで結局一言も言えないまま、彩乃はエレベーターに雄一を誘導した。案内する客室は、二十三階にある。
さっき唇を当てられた指先が、まだ火照っている。背後から感じる彼の視線が、チクチクと背中に突き刺さるようだ。彩乃はなんとか口元に笑みを浮かべ、必死で動揺を隠して軽く視線を合わせてみた。
改めて見ると、本当に整った顔立ちだ。正直目のやり場に困るし、心臓が妙に高鳴って仕方がない。
(ああ、いったいなにやってんの、私――)
きっと彼は、ちょっとした挨拶に対してこれほどぎこちない反応をされて、戸惑っているに違いない。いや、もしかすると、こんな反応にすら慣れっこになっているのかもしれないけれど。
(なんだこいつ、とか思われてるんじゃないかな? 思われてるよね、絶対。うわぁ……)
「その制服、君にすごく似合ってるよ」
「はいっ?」
いきなり話しかけられ、つい突拍子もない声を出してしまった。
「あ、ありがとうございます」
慌ててお礼を言い、その場を取りつくろう。
ホテル・セレーネの女性用制服は、黒のジャケットに同色のボックススカート。職種によってはパンツスタイルも選ぶことができる。ジャケットのなかは白のシャツを着用し、襟元にはスカーフを結ぶ。彩乃自身、気に入っているデザインだ。
だけどその制服をせっかく褒めてもらったのに、その後の会話が続かない。いつもなら、もっとそつなく対応ができるのに、指先に残っている熱が、平常心を取り戻す妨げになっている。
「もしかして緊張してる? さっき俺が言った言葉のせいなら謝るよ。ごめん」
なんとか言葉を継ごうとした矢先に、またしても先に言われてしまった。
「あ、いいえっ……。そんなことはありません。……あの、桜庭様は大学の四年間以外はずっとロンドンにお住まいだと伺っておりますが、今日もロンドンからお越しですか?」
よし、なんとか長くしゃべれた。
(この調子だ、彩乃。今がスタートだと思って、頑張れ!)
「ああ、そうだよ。両親は俺が生まれる前からイギリスに移り住んでいたし、生活の基盤はすっかりあっちだからね。でも、家では常に日本語優先の環境で育ったんだ。物心ついたときから、毎月何冊も日本語の本を読まされてね。それがずっと習慣になってて、今でも読む本の半分は日本語で書かれたものだよ」
「そうでしたか。イギリスにいながらにして、そこまで完璧な日本語をお話しになるには、やはりそれなりの努力が必要だったんですね」
「だけど、やっぱり欠落している部分がたくさんある。難しい言葉や言い回しを知っていても、逆に簡単な単語の意味や使い方がわからなかったりすることもあったりしてね」
そうだとしても、これほどしゃべれたらなんの不自由もないだろう。
言葉を交わしたことで、彼の顔に浮かんでいる微笑みが、より一層親しげなものに変わった。
(なんて人懐っこい笑顔なんだろう……)
背も高く完璧に近い外見のせいか、人によっては最初、やや威圧的な印象を受けるかもしれない。だけど、笑うと途端に柔らかな印象になるし、表情自体とても豊かだ。
「今回のご旅行は、取材のためと伺っております」
「あぁ、本当はもっとゆっくり地方とか見て回りたいんだけどね。他の仕事が後に控えていて、終わったらすぐに日本を離れなきゃならないんだ」
「滞在中、なにかお困りのことやご要望がありましたら、なんなりとお申しつけください。スタッフ一同、誠心誠意対応させていただきます」
決まり文句のようでわざわざ言うまでもないことだが、なぜか彩乃は心からそう告げていた。
エレベーターを降り、フロア奥にある五十平米ほどのデラックスルームに案内する。館内の施設や部屋の説明を一通り終えると、ようやくいつもの調子が戻ってきた。
彼はお客様だ。しかも、旅慣れたセレブであり、上からも特に気を配るように言われているVIP。この際、イケメンであることは頭から取り去ってしまおう。そうでなければ、必要以上にドキドキしてうまく仕事ができない気がする。
「プールはこれから利用できる?」
「はい、二十二時までご利用いただけます」
「そうか、じゃあひと泳ぎしてくるかな」
そう言うが早いか、雄一は着ていたジャケットとTシャツを脱いで、上半身裸になってしまった。
「桜庭様っ、さすがにここから水着でいらっしゃるわけにはっ……」
突然あらわになった上半身から、彩乃は咄嗟に目をそらした。ほんの一瞬見ただけなのに、逞しい筋肉が目に焼きついてしまっている。せっかく落ち着いたのに台無しだ。心臓はこれまで以上に乱れまくり、声も調子っぱずれになってしまった。
「ははっ、わかってるよ。その前にちょっと着替えようと思ってね」
雄一の軽やかな笑い声を聞いて、彩乃は耳まで赤くなった。
「す、すみません。私ったら慌てて……」
それもそうだ。ちょっと考えればわかりそうなものなのに、急に服を脱がれて気が動転してしまった。いや、いきなり人前で服を脱ぐことは普通ではないけど、彼はすでにチェックインをすませている。つまりこの部屋は、彼のプライベートスペースだ。
「ちょっと待ってて。今着替え終わるから」
「はいっ……」
壁に視線を向けるが、脳裏に彼のしなやかな筋肉がちらつく。
「はい、もう着替え終わった。こっち向いてもいいよ」
まるで身内に話しかけるような気軽さだ。世界中を駆け回る人が持つ距離感というのは、こうも近しいものなのだろうか。
彼の方に向き直る。着替え終わったと言うものの、雄一はシャツを羽織っただけだ。見事な筋肉はまったく隠れておらず、露わになったまま。
「――っ。そ、それでは桜庭様、ごゆっくりおくつろぎください」
動揺を押し隠し、退室の挨拶を告げる。
踵をそろえ、軽く会釈した。そして姿勢を正し、ドアのほうへ一歩踏み出す。その途端、ついと伸びてきた雄一の手が彩乃の前髪に触れた。
「あれ? ちょっと待って、ここになにかついてる」
引き締まった胸筋が、彩乃の目前に迫る。
「え? ええっ……?」
小さく声がもれ、驚きのあまり全身が固まってしまった。息が止まり、目が全開に近いほど開いているのを感じる。耳の奥にうるさく聞こえるのは、心臓の音だ。家族以外の、しかもこんなイケメンの裸の胸元が目の前にあるなんて。こんな状況に陥ったのは生まれて初めてだった。
「……なんだろう。なにか綿毛みたいなものかな?」
緩く髪を引っ張られるまま、少しだけ顔を上向かせた。下から見上げる彼の顎のラインが綺麗で、そんな場合ではないというのに、つい見惚れてしまう。
「おでこ、広いんだね。前髪、上げたほうが似合うんじゃないかな」
気がつけば、下ろしていた前髪を全部上げられ、額を全開にさせられていた。
「ひゃっ!」
驚いて仰け反った拍子に、身体のバランスを失う。
(た、倒れる!)
咄嗟に目を閉じた彩乃だったが、身体が床にぶつかることはなかった。気がついたときには、雄一の腕にすっぽりと抱え込まれていたのだ。目を開けると、ヘーゼル色の瞳の模様までわかるほどの至近距離に、彼の顔があった。身体はぴったりと合わさっている。
(ち……近いっ!)
身体じゅうの産毛が総毛立ち、脳味噌がスパークする。
「わっ、私ったら、あ、ありがとうございます!」
礼を言って体勢を整えようとするけれど、雄一は彩乃の身体を離そうとしない。
「あ、あのっ、桜庭様っ……!」
「ふぅん、可愛いおでこちゃんだな。出していたほうが断然可愛い。なんで隠してるの?」
「お、おで……っ? えっと……」
いきなり額の話? そんなことを聞かれても、今の状態ではなにをどう答えていいのかもわからない。
「それに、すごく綺麗な肌だね。きめが細かくて、まるでシルクみたいだ」
彩乃の混乱をよそに、雄一は彩乃の剥き出しの額に、軽く唇を押し当てた。
「……ひ……っ……」
予想だにしない展開に頭がついていかない。
(な、なにやってんの? 早く身体を離さないと!)
そう思っているのに、逞しい腕に抱きとめられたまま、身じろぎすらできない。身体のコントロールが利かないだけではなく、あろうことか彩乃の全神経は、額に触れる彼の唇の感触に集中してしまっている。
「うーん、いい香りだ。シャンプーはフローラル系を使ってるね?」
「シャ、シャンプーですか……。しゃんぷー、あ……あの、桜庭さまっ……」
質問に答えることすらできずに、今度は背中に当たる腕に気をとられる。ほぼ全体重をかけてしまっているのに、彼の腕は微動だにせず、彩乃の身体をしっかりと支えている。
「なんだかすごく落ち着く香りだな……」
睫毛の先に彼の顎が触れ、思わず目を閉じる。
ここまで男性と身体を近づけたことは、まったくと言っていいほどない。あっても、満員電車や、ぎゅうぎゅう詰めのエレベーターのなかだけだ。ましてや、こんなふうに男性の腕に抱かれるなど――。とにかく、早くこの状況をなんとかしなくては。
彩乃は踵にぐっと力を入れ、まっすぐに立とうとした。すると、余計に身体が傾き、顎が上を向いてしまう。その拍子に雄一の腕に力がこもり、彩乃は大きく仰け反る体勢となった。
慌てて目を見開くけれど、羞恥のせいか、まるで焦点が合わない。必死になって瞬きをするうち、唇になにか温かいものが触れたような気がした。
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