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2-1 山と神隠し side A
11 犯されざる禁忌
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◆
――ぐゎん、ぐゎん、ぐゎん、ぐゎん
弘に言われた通り、音のする方へ武は真っ直ぐに進む。
不思議とその方向に茂みが主張をしていることはなく、今まで通ってきたものと比べれば、獣のものであっても確実に道があった。
それでも、一人で行くには長い道だし、先程より雲が薄くなって道は見やすく、勢いがやや軽くなったとはいえ雨粒がレインコート越しに武を叩く。
そんな状況、どうしたって自然と心細さが出てくる。
その時だった。
「待って」
後ろから、声がした。
女性の声。少女の声。
どちらかといえば、愛らしくて甘くて柔らかい声。凛と固く通る声の弘とは、まるっきり違う声だった。
振り向くなという弘の言葉を思い出して、少し、足を速める。
「ねえ、あなた、待って」
足音はしない。
それ以上に、今、武はレインコートのフードをかぶっているから、後方からの音はくぐもるはずだ。
なのに、まるで、耳元で囁かれたかのように、はっきりと声がした。
「一目でいいから、あたしを見て」
笑みを含んだ艷やかな声がした。
もし、武がもう少しばかり怖いもの知らずの豪胆な質で、もう少しばかり大人びていて、ませているタイプの悪ガキだったら、どんな美女の声かと鼻の下を伸ばして、振り向いていたかもしれない。
だがしかし、そんなのは所詮もしの話であるので、実際にはすっかり怯えきった武の足がすっかり竦みあがってしまうだけに留まったのである。
「ねえ、こっちを見て」
くすくすと笑い声が聞こえる。
――凝った脂の如くぬめるように白く、草原に生い茂る茅花の穂のように柔らかな指先が、頭のすぐ後ろまで迫る。
振り向いてもいないのに、まるで視界に入れたかのようにその冷たく甘い気配を感じる。
雨で巻き上げられた湿った土の匂いに混ざって、微かに甘く爽やかな、奥に僅かに青臭い苦みを伴う桃や梅のような匂いが武の鼻を擽ったその瞬間だった。
――うぉん
低い犬の一声と共に、何かが武と白い手の間を遮る気配と獣特有の匂いと、きゃあという悲鳴がした。
同時に、これ以上動かせないほどに強張っていた武の足から適度に力が抜け、一歩踏み出す。
後ろを、振り向いてはならない。
「なんて、ひどいの。ねえ、あなたもそう思わない?」
きゃははははははは、と後ろからの声が哄然と笑う。
その声の主と武の間に割り入った犬らしき何かが、ぐるぐると警戒して唸る声がする。
「きゃはは、あの女、こんな、首輪をつけたまがいものなんて、巫山戯ているわ、ひどいわ、酷いわ、非道いわ」
振り向いてはならない。絶対に、振り向いてはならない。
けたたましく笑う艶やかな女の気配が、武が一歩一歩足を進める毎に遠ざかる。
武は自身に振り向くなと言い聞かせながら、金属を叩き合わせる音の方へと向かう。
徐々に弱くなる雨の中、けれども、遠ざかる笑い声が聞こえなくなることはない。
耳に突き刺さるその狂ったような甲高い笑い声は、武の恐怖を駆り、それは少しずつ足を速めるに至って、最終的に武は転げるように駆け出していたのである。
ついに、道の先に、ぽっかりと茂みが口を開けているのが見えた。
きゃらきゃらきゃら、と喧しい笑い声が嘲笑に変わる。
「いいわ、いいわ、見逃してあげる。こんなまがいものをつかうほど必死なんだもの、振り返らなかったのだもの、あわれんであげるわ」
負け惜しみにも似たようなその叫びが耳にこびりつく。
それを上書くように、武の背を押すように、わん、と一声だけ、後方の犬が吠えて、武は茂みの切れ目から、強い光に照らされた世界へと転がり出た。
――ぐゎん、ぐゎん、ぐゎん、ぐゎん
弘に言われた通り、音のする方へ武は真っ直ぐに進む。
不思議とその方向に茂みが主張をしていることはなく、今まで通ってきたものと比べれば、獣のものであっても確実に道があった。
それでも、一人で行くには長い道だし、先程より雲が薄くなって道は見やすく、勢いがやや軽くなったとはいえ雨粒がレインコート越しに武を叩く。
そんな状況、どうしたって自然と心細さが出てくる。
その時だった。
「待って」
後ろから、声がした。
女性の声。少女の声。
どちらかといえば、愛らしくて甘くて柔らかい声。凛と固く通る声の弘とは、まるっきり違う声だった。
振り向くなという弘の言葉を思い出して、少し、足を速める。
「ねえ、あなた、待って」
足音はしない。
それ以上に、今、武はレインコートのフードをかぶっているから、後方からの音はくぐもるはずだ。
なのに、まるで、耳元で囁かれたかのように、はっきりと声がした。
「一目でいいから、あたしを見て」
笑みを含んだ艷やかな声がした。
もし、武がもう少しばかり怖いもの知らずの豪胆な質で、もう少しばかり大人びていて、ませているタイプの悪ガキだったら、どんな美女の声かと鼻の下を伸ばして、振り向いていたかもしれない。
だがしかし、そんなのは所詮もしの話であるので、実際にはすっかり怯えきった武の足がすっかり竦みあがってしまうだけに留まったのである。
「ねえ、こっちを見て」
くすくすと笑い声が聞こえる。
――凝った脂の如くぬめるように白く、草原に生い茂る茅花の穂のように柔らかな指先が、頭のすぐ後ろまで迫る。
振り向いてもいないのに、まるで視界に入れたかのようにその冷たく甘い気配を感じる。
雨で巻き上げられた湿った土の匂いに混ざって、微かに甘く爽やかな、奥に僅かに青臭い苦みを伴う桃や梅のような匂いが武の鼻を擽ったその瞬間だった。
――うぉん
低い犬の一声と共に、何かが武と白い手の間を遮る気配と獣特有の匂いと、きゃあという悲鳴がした。
同時に、これ以上動かせないほどに強張っていた武の足から適度に力が抜け、一歩踏み出す。
後ろを、振り向いてはならない。
「なんて、ひどいの。ねえ、あなたもそう思わない?」
きゃははははははは、と後ろからの声が哄然と笑う。
その声の主と武の間に割り入った犬らしき何かが、ぐるぐると警戒して唸る声がする。
「きゃはは、あの女、こんな、首輪をつけたまがいものなんて、巫山戯ているわ、ひどいわ、酷いわ、非道いわ」
振り向いてはならない。絶対に、振り向いてはならない。
けたたましく笑う艶やかな女の気配が、武が一歩一歩足を進める毎に遠ざかる。
武は自身に振り向くなと言い聞かせながら、金属を叩き合わせる音の方へと向かう。
徐々に弱くなる雨の中、けれども、遠ざかる笑い声が聞こえなくなることはない。
耳に突き刺さるその狂ったような甲高い笑い声は、武の恐怖を駆り、それは少しずつ足を速めるに至って、最終的に武は転げるように駆け出していたのである。
ついに、道の先に、ぽっかりと茂みが口を開けているのが見えた。
きゃらきゃらきゃら、と喧しい笑い声が嘲笑に変わる。
「いいわ、いいわ、見逃してあげる。こんなまがいものをつかうほど必死なんだもの、振り返らなかったのだもの、あわれんであげるわ」
負け惜しみにも似たようなその叫びが耳にこびりつく。
それを上書くように、武の背を押すように、わん、と一声だけ、後方の犬が吠えて、武は茂みの切れ目から、強い光に照らされた世界へと転がり出た。
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