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2-1 山と神隠し side A
10 猛犬注意
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◆
「ひぇっ」
弘に抱えられるようにして、ずざざ、と雨で泥濘んだ斜面を滑り降りて、武は小さく悲鳴を上げた。
「いやあ、山鬼って明言しちゃったのは間違いでしたかねえ」
一方、弘はそう言って、失敗、失敗と呟いている。
最初から獣道以下の道を歩いているわけだが、弘は迷う素振りも、躊躇う素振りも見せずに、可能な限りの最短ルートをとっているように思える。
「『雷は填填として、雨冥冥たり』……いやあ、神さまでも乙女の純情の怖いこと、っと」
「ぴ」
今まで迂回していたレベルの段差を、ほぼ抱えられながらもいきなり飛び降りられて、武の口からは変な声が短く漏れた。
「しかしまあ、ロビンじゃなくて武くんにつきまとうというなら」
武には、これが普通なのかどうかもわからないし、あまりの強行軍に目眩すらしてきた。
ただ、弘があまりにも普通な調子で、半ば独り言のように話しているのだけが、気を紛らわせていた。
「とんだショタコ……げふんげふん」
その中身は置いといても。
「いや、準拠時代によっては、まだ青田買いレベルなのか? でもそんな逆光源氏とか、地雷まっしぐらじゃないですか、やだなあ……さあて、あと少しですっ、よっ、と」
「――!」
最早ほぼ弘に抱えられた状態で、それなりの高さの段差を飛び降りる。
本来なら情けないとか、格好悪いとか思って振り解いてるはずなのだが、今の武にはそんな余裕はグラムにしろ、リットルにしろ、メートルにしろ、一ミリもないのだった。
ただ、土砂降りの雨粒とか、跳ね上げた泥飛沫だとかが口に入らないよう、何より舌を噛まないよう、真一文字に口を閉じておくだけで必死だったのだ。
――……ぐゎん、ぐゎん、ぐゎん
雨粒がレインコートのフードを容赦なく叩きつける音と、空からごろごろと鳴り響く雷鳴の合間に、金属製の何かを叩く音が聞こえた。
その音を聞いた弘の口元に笑みが浮かび、そのまま立ち止まる。
「武くん、聞こえます?」
「この、なんか叩く音?」
「ええ。方向を指で指してください」
困惑しながらも、武はその音のする方を指さす。
それを確認した弘は一つ頷くと、抱えていた武をおろして、リュック同士を繋いでいたザイルロープを外した。
「ひろねーちゃん?」
「いいですか、武くん、何があっても振り向かないで、この一斗缶を叩いてる音の方に向かってください。わたしはロビンを引きずり出す準備をしてから向かいますので」
弘を見上げて武は思わず息を呑む。
その目の奥に、どこか爛々とした好戦的な光の片鱗が宿っていたからだ。
「武くんが向こうに行き始めたら、わたしは絶対に君には何も話しかけませんし、君には一切、手を出させません。それだけは肝に銘じてください」
「……ひ、ひろねーちゃん」
「大丈夫、わたしもロビンも、こういうの、慣れてますから、へっちゃらです。だから、絶対に振り向かないでください。いいですね?」
違うのだ。この武の躊躇いは、その事に向けられたものではないのだ。
丁寧な口調のまま、泥や木の葉をかぶったレインコートのフードの下から野生じみた眼光を見せる弘のその姿は、まるでよく躾けられたドーベルマンを彷彿とさせる程で。
「いいですね?」
「……うん」
本能的に、強者に対して、怖気づいた。
そうとしか表現できなかった。
「ひぇっ」
弘に抱えられるようにして、ずざざ、と雨で泥濘んだ斜面を滑り降りて、武は小さく悲鳴を上げた。
「いやあ、山鬼って明言しちゃったのは間違いでしたかねえ」
一方、弘はそう言って、失敗、失敗と呟いている。
最初から獣道以下の道を歩いているわけだが、弘は迷う素振りも、躊躇う素振りも見せずに、可能な限りの最短ルートをとっているように思える。
「『雷は填填として、雨冥冥たり』……いやあ、神さまでも乙女の純情の怖いこと、っと」
「ぴ」
今まで迂回していたレベルの段差を、ほぼ抱えられながらもいきなり飛び降りられて、武の口からは変な声が短く漏れた。
「しかしまあ、ロビンじゃなくて武くんにつきまとうというなら」
武には、これが普通なのかどうかもわからないし、あまりの強行軍に目眩すらしてきた。
ただ、弘があまりにも普通な調子で、半ば独り言のように話しているのだけが、気を紛らわせていた。
「とんだショタコ……げふんげふん」
その中身は置いといても。
「いや、準拠時代によっては、まだ青田買いレベルなのか? でもそんな逆光源氏とか、地雷まっしぐらじゃないですか、やだなあ……さあて、あと少しですっ、よっ、と」
「――!」
最早ほぼ弘に抱えられた状態で、それなりの高さの段差を飛び降りる。
本来なら情けないとか、格好悪いとか思って振り解いてるはずなのだが、今の武にはそんな余裕はグラムにしろ、リットルにしろ、メートルにしろ、一ミリもないのだった。
ただ、土砂降りの雨粒とか、跳ね上げた泥飛沫だとかが口に入らないよう、何より舌を噛まないよう、真一文字に口を閉じておくだけで必死だったのだ。
――……ぐゎん、ぐゎん、ぐゎん
雨粒がレインコートのフードを容赦なく叩きつける音と、空からごろごろと鳴り響く雷鳴の合間に、金属製の何かを叩く音が聞こえた。
その音を聞いた弘の口元に笑みが浮かび、そのまま立ち止まる。
「武くん、聞こえます?」
「この、なんか叩く音?」
「ええ。方向を指で指してください」
困惑しながらも、武はその音のする方を指さす。
それを確認した弘は一つ頷くと、抱えていた武をおろして、リュック同士を繋いでいたザイルロープを外した。
「ひろねーちゃん?」
「いいですか、武くん、何があっても振り向かないで、この一斗缶を叩いてる音の方に向かってください。わたしはロビンを引きずり出す準備をしてから向かいますので」
弘を見上げて武は思わず息を呑む。
その目の奥に、どこか爛々とした好戦的な光の片鱗が宿っていたからだ。
「武くんが向こうに行き始めたら、わたしは絶対に君には何も話しかけませんし、君には一切、手を出させません。それだけは肝に銘じてください」
「……ひ、ひろねーちゃん」
「大丈夫、わたしもロビンも、こういうの、慣れてますから、へっちゃらです。だから、絶対に振り向かないでください。いいですね?」
違うのだ。この武の躊躇いは、その事に向けられたものではないのだ。
丁寧な口調のまま、泥や木の葉をかぶったレインコートのフードの下から野生じみた眼光を見せる弘のその姿は、まるでよく躾けられたドーベルマンを彷彿とさせる程で。
「いいですね?」
「……うん」
本能的に、強者に対して、怖気づいた。
そうとしか表現できなかった。
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