怪異から論理の糸を縒る

板久咲絢芽

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2-1 山と神隠し side A

10 猛犬注意

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「ひぇっ」

ひろに抱えられるようにして、ずざざ、と雨で泥濘ぬかるんだ斜面をすべり降りて、たけるは小さく悲鳴を上げた。

「いやあ、山鬼さんきって明言しちゃったのは間違いでしたかねえ」

一方、ひろはそう言って、失敗、失敗とつぶやいている。
最初から獣道以下の道を歩いているわけだが、ひろは迷う素振そぶりも、躊躇ためら素振そぶりも見せずに、可能な限りの最短ルートをとっているように思える。

「『かみなり填填てんてんとして、雨冥冥めいめいたり』……いやあ、神さまでも乙女の純情の怖いこと、っと」
「ぴ」

今まで迂回うかいしていたレベルの段差を、ほぼ抱えられながらもいきなり飛び降りられて、たけるの口からは変な声が短く漏れた。

「しかしまあ、ロビンじゃなくてたけるくんにつきまとうというなら」

たけるには、これが普通なのかどうかもわからないし、あまりの強行軍に目眩めまいすらしてきた。
ただ、ひろがあまりにも普通な調子で、なかひとごとのように話しているのだけが、気をまぎらわせていた。

「とんだショタコ……げふんげふん」

その中身は置いといても。

「いや、準拠じゅんきょ時代によっては、まだ青田買あおたがいレベルなのか? でもそんな逆光源氏とか、地雷まっしぐらじゃないですか、やだなあ……さあて、あと少しですっ、よっ、と」
「――!」

最早もはやほぼひろかかえられた状態で、それなりの高さの段差を飛び降りる。
本来なら情けないとか、格好悪いとか思って振りほどいてるはずなのだが、今のたけるにはそんな余裕はグラムにしろ、リットルにしろ、メートルにしろ、一ミリもないのだった。
ただ、土砂降どしゃぶりの雨粒とか、ね上げた泥飛沫どろしぶきだとかが口に入らないよう、何より舌をまないよう、真一文字に口を閉じておくだけで必死だったのだ。

――……ぐゎん、ぐゎん、ぐゎん

雨粒がレインコートのフードを容赦なく叩きつける音と、空からごろごろと鳴り響く雷鳴の合間に、金属製の何かを叩く音が聞こえた。
その音を聞いたひろの口元に笑みが浮かび、そのまま立ち止まる。

たけるくん、聞こえます?」
「この、なんか叩く音?」
「ええ。方向を指で指してください」

困惑しながらも、たけるはその音のする方を指さす。
それを確認したひろは一つうなずくと、抱えていたたけるをおろして、リュック同士を繋いでいたザイルロープをはずした。

「ひろねーちゃん?」
「いいですか、たけるくん、何があっても振り向かないで、この一斗缶いっとかんを叩いてる音の方に向かってください。わたしはロビンをから向かいますので」

ひろを見上げてたけるは思わず息をむ。
その目の奥に、どこか爛々らんらんとした好戦的な光の片鱗へんりんが宿っていたからだ。

たけるくんが向こうに行き始めたら、君には何も話しかけませんし、。それだけはきもめいじてください」
「……ひ、ひろねーちゃん」
「大丈夫、わたしもロビンも、こういうの、慣れてますから、へっちゃらです。だから、。いいですね?」

違うのだ。このたける躊躇ためらいは、その事に向けられたものではないのだ。
丁寧な口調のまま、泥や木の葉をかぶったレインコートのフードの下から野生じみた眼光を見せるひろのその姿は、まるでよくしつけられたドーベルマンを彷彿ほうふつとさせるほどで。


「……うん」

本能的に、強者に対して、怖気おじけづいた。
そうとしか表現できなかった。
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