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第二章

05-2

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 その夜から順平が見る夢の中のあの青年の容姿が、幾分か以前とは違う性質を帯びるようになった。……もっと言えば、そこに今まで知らなかった種類の”性的な”欲求が投影されているらしかったが、陸上一筋で奥手な順平にはうまく事態が飲み込めなかった。本人はあまり性欲が強いほうではないと思っていただけに尚更だった。
 とうとうある朝、順平は夢で、自分がユニフォーム姿で横たわるあの青年に覆いかぶさって、息が混り合うくらいの距離から、涙で潤んだ明るい茶色の瞳を覗き込んでいる場面を見た後。目覚めた時には股間がガチガチに硬く漲っていることに気が付いて、一人ベッドの中で呆然とした。……オレはどうしたんだ? と思った。
 その日、順平は入隊してから初めてトイレの個室で、それも”男で”自らを慰めた。
 早朝の点呼までにどうしても股間のモノを鎮める必要があったので、やむなくの処置だったが……呼吸を弾ませ、手の中のどろりとした白濁を見つめながら、順平は言いようもない罪悪感に囚われていた。
 かつての自分は、他の誰かと代替可能な、ただの肉体として他人に”使われる”ことに苦しんできたというのに。今ではその自分が、まだ名前すら知らないあの青年の、潤んだ茶色の瞳や、涙に濡れた頬、薄っすらと開いた紅い唇を思い浮かべるだけで、たちまち熱い雫を掌に零してしまうことに、酷い自己嫌悪を覚えた。
 特に、順平は幼少期の個人的な苦い記憶から、”男同士の”そういう行為にはずっと抵抗感があったので、意識して視界に入れないように生きて来た部分があった。
 しかし、こうなってしまった以上、もしかしたら自分は”男”が好きなのか……? と思って、確かめるために私物のスマホ(陸上部の連絡用に持たされたが、ほとんど使っていない)で恐る恐るゲイ向けの画像などを検索してみたものの、それには自分の芯は全くといっていいほど反応しなかった。
 どうやら自分はあの青年の容姿にだけ”性欲らしきもの”を抱いているらしい、とわかったが、そのことは余計に順平を困惑させた。……次のレースで、どんな顔をしてあいつに会えばいいんだ? と頭を抱えた。
 そんな順平の心配は、しかし杞憂に終わった。その年のシーズン最後となる大会であの青年は順平をいつものように追いかけて来なかっただけでなく、会場のどこにもその姿はなかったのだ。
 どこかホッとしつつも、逆に寂しいような、何とも名状しがたい気分のまま、順平はしばらく会場を探し歩いた。と、以前あの青年と同じゼッケンをつけていた地元商店街のチームメンバーの、ひょろっとした眼鏡の男を見つけ、逡巡する間もなく思わず声を掛けていた。
「……おい。”あいつ”はどうした? 今日はいないのか?」
 突然、日焼けした大柄な筋肉質の自衛官ランナーからドスの効いた声を掛けられた眼鏡の男は、明らかにギョッとしていたが、声に怯えをにじませつつも一応、順平の問いかけに返事はしてきた。
「え? あいつって……もしかして荻谷洋太のことかい? 彼なら怪我して休んでるよ」
(オギタニヨウタ……それが名前か……)
 順平は、初めてあの青年の氏名がわかったことに内心喜びながら、反対に意識していつもの低い、抑揚のない声を出そうと努めていた。それだけ恥ずかしかったのだが、どうしても気になった。
「怪我……? どこか悪いのか?」
「ああ、ちょっと足をね……あいつ実家がお寺だから、境内の掃除中に転んで捻ったとか何とか……」
 そこで相手が他のメンバーから呼ばれたので、順平もその場を離れた。
 駐屯地に向かう帰りの車の中で、じっと考え込んでいるような様子だった順平が、藪から棒に隣で運転中の鷹栖に向かって奇妙なことを質問した。
「鷹栖さん。寺って、何処にありますか?」
 それを聞いた鷹栖は一瞬、あまりに順平のキャラにそぐわない内容に、何かの聞き間違いか? と思ったが、順平が大真面目な顔をしているので真剣に聞いているのだとわかった。
「……何? 唐突に信心に目覚めたの?」
「いえ、別に……」
 妙な間があったが、鷹栖が何事か得心した様子で頷くと、微笑しながら答えた。
「……そうだな。お前もたまには観光くらいしたほうがいい。後で隊舎の備品にあるガイドブックから、K市のお寺のマップを探してコピーしといてやるよ」
「ありがとうございます」
 珍しく順平の声にわずかに嬉しそうな抑揚が乗っていたので、鷹栖は新鮮な気持ちで横顔を眺めた。その視線に気づくこともなく、順平は心の中で今日知ったばかりの青年の名前を大事そうに繰り返していた。
(オギタニ、ヨウタ……ヨウタ……)
 それから数日間。いつの間にか順平は、訓練中も、課業後の休息中にも、陸上部の練習中も、食事中も、ベッドの中でも、いつもあの青年のことを考えていた。
 今は何をしているだろう? 怪我の具合は? メシは食ってるのか? ……等々。
 毎朝のように、硬く張りつめてしまった芯を自らの手で慰め、吐き出す瞬間には「……っ、ヨウタ……」と目を閉じたまま熱っぽい声で小さく呟くこともあった。
 順平はまさか自分が、長年飽きるほど見慣れている男子用の陸上ユニフォームからのぞく、成長期の少年のほっそりした腕や足、薄い胸、太腿の付け根に出来る仄暗い隙間などに、これほどダイレクトに欲情することがあるなどと、ヨウタを知るまでは露ほども思わなかった。彼と出会って順平の世界は一変してしまったのだ。
 今では夜になると、簡素なパイプベッドに横になって官給の薄い毛布に頭からくるまり、このまま眠って夢を見れば、また”あいつ”に会える……とすら、切ない気持ちで思うようになっていた。
 相変わらず罪悪感はあったが、寝起きに体が”そうなる”こと自体は健康な若い男子のごくごく自然な生理現象であるし、夢の内容もコントロール出来ない以上、自分で止めようと思って止められるものでもなく、順平はなかば諦めの心境でもあった。
(……現実の”あいつ”に会って何かどうこうしようっていうんじゃない。そんなこと他人とまともに付き合えないオレには、出来るはずもない……ただ、遠くからでも、また顔を見られれば、それでいいんだ……それだけで……)
 哀しいほど純粋な気持ちで、”好意”というものの存在を知らない順平は、そう自分の願望を理解していた。自分が思っていることに相手が応えてくれる可能性を、恋愛経験が少しもない順平は想定することが出来なかった。
 それはどこか、ギリシャ神話あたりの物語の中の獣人が、泉のほとりで休んでいる清らかな乙女に恋をして、草木の影からそっと、その姿を眺めるだけで満足しているような……そんな甘い儚なさがあった。もちろん順平本人は、ギリシャ神話に限らず物語などというものを、ほとんど知らなかったのだが。
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