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第二章

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 あのレースの後、駐屯地の隊舎での単調な日常を送りながら、順平は時々おかしな夢を見るようになった。
 それはユニフォーム姿で自分に食って掛かってきた、あの名前も知らない選手が、暗闇の中で自分を見つめながら、ただ黙って涙を流している……というものだった。
 その顔を見ていると何故か胸が苦しくなって、思わず順平は泣いている青年のほうへ手を伸ばすのだが。決まってその指先が相手の顔や体に届く前に、青年の姿が霧のようにかき消され、順平は水中から浮上するように夢から覚めるのだった。
 たったそれだけのことだが、そもそもあまり夢を見ない体質だった順平にとって、繰り返し見るわりに意味の分からない夢が、次第に結構なストレスになっていた。
(一体何だっていうんだ……? あの野郎は、オレにどんな恨みがあるんだ? オレが何をした?)
 慣れない経験にイライラしながらも、こんなこと恥ずかしくて監督や鷹栖、他の誰かに相談など出来るはずもなく、夜になると一人悶々とするのだった。
 そんなふうに安眠を妨害されていたので、駐屯地の広大な敷地での訓練の後、休憩時間にばらばらに地面に腰を下ろして休んでいて、近くの別の班の隊員から話しかけられた時にも、順平はどこか上の空だった。
「なあ神崎。お前ら陸上部って訓練以外にも、休暇の日とか自分で走り込みしてるっての、あれマジ?」
 順平が質問してきた相手を暗い目つきで一瞥してから、抑揚のない低い声で答える。あまりに何度も聞かれるので、この手の質問に答えるのは、いつしか慣れっこになっていた。
「……休日もトレーニングはしてる」
「うえー? マジかよ……キツくねえの?!」
(またこれか……このやりとりに何の意味があるんだ?)
 そう思いつつ、淡々といつもの答えを返す順平。
「……別に……」
 一瞬、相手が鼻で笑った気配がした。隣に座った仲間と顔を見合わせて、吐き捨てるように小さく言う。
「……キモッ」
 これも、いつも同じような反応だった。誰しもキツい訓練などやりたくないはずで、ましてやせっかくの休暇や外出日にまで、外へ遊びにも行かずに駐屯地でトレーニングしている人間が存在するのが理解できないというのだ。
 順平は別に、誰かに理解して欲しいなどとは思わない。ただ、友人も恋人もいない自分にとっては休日だからと外に行ったところで、することなど何もないというだけの話だった。
 恐らく、そういう順平のストイックな態度まで含めて「キモい」と言われたのだろう。相手は順平より年上だが、今年の昇任試験に落ちているので、その八つ当たりもあったのかもしれない。
 順平が黙って地面を見つめていると、退屈したのか相手は仲間と違う話題に移った。次の休日の遊びの予定らしい。憂さ晴らしに夜の街にでも繰り出すのだろう。
 冬の午後の日差しは穏やかで眠気を誘うようだったが、順平は眠ることに対して少々、気が重くなってきていた。

 次の順平の休暇の日は、朝から冷たい雨が降り続いていた。
 雨だろうと雪だろうと順平は日課のトレーニングを欠かさなかったので、一人、レインウエアを着て駐屯地の広いグラウンドを一定のペースで走り続けていた。
 そんな順平を管理棟の窓から眺めながら、鷹栖が電話で誰かと話している。
「ええ……今日も走ってますよ、この雨の中を。休暇のはずなんですけど」
 電話の向こうに軽く笑いかけ、鷹栖が順平を目で追いつつ言葉を続けた。
「心配いりませんよ。監督もご存じの通り、何しろ頑丈な奴ですからね……」
 そんな会話が交わされているとは知らずに、順平はびしょ濡れの顔を前方に固定したまま、走り続けていた。
 足下でランニングシューズがバシャバシャと水溜まりを踏む度に、子供の頃の真冬の新聞配達での体の冷たさを思い出した。手袋もなく剥き出しの指先がかじかんで、新聞を包むビニール袋に触るだけで切れるように痛んだものだった。
 夕方までに三時間ほどかけて自分で決めたノルマの距離を走り込んだ後、トレーニングを切り上げた順平はレインウエアを干してから、先に利用を届け出てあった個室のシャワー室に向かった。隊舎の大きな浴場を使用できる入浴時間は夕食の後なので、まだ早かった。
 日常生活の様々な時間割がきっちり決められている部隊での生活では、入浴一つ、個人の自由にすることは出来ないのだ。
 全裸になって冷え切った体に熱いシャワーを浴びていると、これだけでも子供の頃よりは遥かにマシなのだ……と思える。あの当時より体も大きく強くなり、自衛官という立派な職業について、ちゃんと自分で金を稼ぐことも出来ているのだから。
――何も不満はない。自分の人生はこれでいい、はずなのだ。
 ふと、シャワーの水流の下で薄目を開けた順平は、子供の頃の記憶の底のほうから偶然引っ掛かった何かを手繰り寄せようとした。
(待てよ……?)
 あの時、自分に食って掛かった青年は、確か「中二の時から」と言っていた。
 中学二年の冬といえば、自分が陸上の県大会予選の駅伝で大会記録を出し(替え玉で)優勝した後、工科学校および現在の部隊の陸上部の監督と出会った年のことだ。
(あの時、駅伝の会場で確かもう一人、誰かと会っていた……ような?)
 順平の脳裏に表彰式の会場から去り際、通りかかった救護所で、シートに座って頭からタオルをかぶり、肩を震わせながら泣いていたユニフォーム姿の小柄な少年の姿が鮮やかなカラー映像でよみがえった。
 少年の赤らんだ滑らかな頬に伝い落ちる涙が先日の青年のそれとぴたり重なった。
 手を伸ばしてシャワーを止めたまま、驚いたように目を見開いた順平は
「もしかして、”あいつ”……か?」
 と、思わず声に出して呟いていた。
 既定の使用時間通りにシャワー室を出た後、順平は大型のコインランドリー以上の台数の同型洗濯機がずらりと並んだ隊舎の洗濯室で濡れた練習着を洗いながら、人気の少ない夜の廊下を歩いて自室へ戻った。
 若手ながら工科学校出のため、じき曹の階級に上がる予定の順平は、隊舎で居住している独身者の中では階級が上のほうの部類になるので、工科学校時代や自衛官候補生のような一部屋に六~十人の二段ベッドではなく、それと同程度の広さの部屋に一段ベッドが三~四つほどの比較的余裕のある相部屋を割り当てられていた。とはいえ自由になるのはベッドとその下の私物入れ、ロッカーだけの至って質素な空間だ。
 他の同室者は談話室にでも行っているのだろう。白いTシャツにジャージというラフな部屋着姿の順平は一人、自分のベッドで片膝を立てて座り、背もたれに寄り掛かりながら、ぼんやりとさっきからの続きで考え事をしていた。
(つまり、”あいつ”は中二の時からずっと、オレのことを覚えていたわけだ……)
 ユニフォーム姿で自分に食って掛かってきた青年が、古い記憶の中の、大会の救護所のシートに座り、か細い肩を震わせて泣いていたあの少年と一致したことで、急に想像の中でも相手のイメージの解像度が上がっていた。
 頭からタオルをかぶって俯いた少年の、指で摘まめそうな小さな顎や、垂れ気味の細い眉に、負けん気ながらも溢れる涙で潤んだ茶色の瞳、悔しそうに噛み締めた唇が茱萸ぐみの実のように紅い色をしていたことなど……どこまでが現実だったのか自分でもわからないくらいに、どういうわけか順平の中では美化され始めていた。
(オレを……ずっと、覚えてた……)
 不意に、順平は自分の胸の奥がほんわりと温かくなるのを感じた。それは工科学校時代に、陸上部で監督から褒められた時などに度々感じていた、体が浮き上がるような不思議な高揚感と似ているようでも、それとは全く違うようでもあった。
 まだ半島の漁師町の貧しい祖父の家で暮らしていた頃、順平を苦しめたのは、自分が誰からも”個”としては気に掛けられないこと――その体を道具のように”使う”ことにしか価値を見出されていないこと――だったが、思考に慣れていない順平には上手く言語化することが出来なかった。今でも恐らく完全に理解はしていない。
 ところが、あの青年は自分という存在を……中学二年からだから、なんと五年近くもの間ずっと覚えていたというのだ。同じ空間にいない以上、全く”体を使う”という目的ではなしに……他の誰でもない順平自身を。
――たとえそれが憎しみや、それに類する負の感情から来るものであったとしても。
 順平は無意識に片手を上げて口元を覆い隠した。何故か頬に血が上っている感覚があって、部屋には他に誰もいないのに、そんな様子を人に見られるのが恥ずかしいような気がしたのだ。
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