29 / 34
Case:岡本 11
しおりを挟む 気がかりな話が終わったからか、皇帝はそそくさと茶の入った杯を空けた。
もともと定例の訪問の時でさえこの父親の滞在時間は短いらしい。今回は胸のつかえが取れたせいか、それとも銀月に耳の痛い話をされたからか、早くも皇帝は椅子から腰を浮かせかけていた。
「迎えを呼びますよ」
銀月は戸口に控えたままの白狼を振り返った。しかし皇帝はそれを手で制する。そしてにんまりと笑みを浮かべると顎の髭を撫でた。
「今日はよい。この後、永和宮に行くと先触れを出しているのでな。このまま歩いて行こうと思っている」
「永和宮までおひとりで行かれるのですか? では、お見送りに周を付けましょう」
「おおそうか、助かる」
「門までお送りいたします。白狼」
後宮に来たついでに他の妃嬪に会っていくらしい。その話題になった途端に顔が若々しく輝いているから現金な者である。
永和宮は誰の住む宮だったか。少なくとも皇后と貴妃の宮ではない。つい先ほど皇后が、貴妃がと怯えていたはずなのに舌の根も乾かぬうちに、と白狼は心底呆れかえりながら人払いで締め切っていた扉を開ける。
立ち上がった皇帝は、「では健勝で」とだけ告げると白狼のいるほうへと歩き出した。もちろん白狼は拱手しながら頭を下げてそれをやり過ごす――はずだった。
「そこの宦官は新しい顔だが、先日の銀月についていたな……ん?」
ただ目の前を通りすぎるだけのはずの皇帝が、ふと足を止めたのだ。おやと言われて伏せていた目をちらりと上げれば、眼前に皇帝の顔が迫っている。まるで見分するかのように皇帝の目がまじまじと白狼の顔を見つめていた。
「ほう……ほう」
「父上? この者がなにかご無礼でも?」
「いやいや、そうではなく……」
そういうと皇帝は更に白狼に顔を近づけた。小さな白狼の顔に皇帝の顔が近づいているということは、皇帝の方が腰をかがめているのだろう。息がかかるほどに近づかれ、気圧されたように白狼が後ずさる。
いや、気圧されたのではない。皇帝の衣に焚き染められた甘ったるい香のにおいと、年配の男によくある吐息の臭気に圧されたのだ。本能的に体が反り返るのを止められず、白狼はまた一歩後ずさった。
一体なんのつもりだ。耐えかねた白狼が思わず怒鳴りつけてしまいそうになった時、なるほど、と皇帝が体を起こした。
「なんじゃ。そなた、おなごか」
「げ」
自制できず白狼の口から異音が漏れる。しかしほぼ同時に銀月の口からも同じような音が漏れていた。翠明に聞かれていたら拳骨を落とされ半刻ほど小言を言われるような出来事である。
しかし皇帝はそんな二人の様子など意にも介さず、ほうほうなるほどとためつすがめつしながら長く垂らした顎鬚を撫でつけた。
その目つきがやけに粘っこく絡みつき、白狼の背に怖気が走った。着物越しに眺められているはずなのに、なぜか丸裸にされている気さえする。
端的に、気色悪いと思った。それなのにいつものように口汚く撥ね退けることができないのはなぜか。本音でいえば一目散に自室へ逃げ帰りたい。
「随分と年若く見えるが、乙女の年ごろにも見えるのう。何故に男のふりをして宦官などになっているのだ」
「ち、父上! お待ちくださいこれには少々訳がございまして」
「訳? まあ訳もなくこんなことはしないだろうが、それにしてもなぜ宦官なのだ。女官として雇いあげればよかろうに」
ようやく見分に納得がいったのか、皇帝は白狼に向かって尋ねた。直答をしてよいものかどうか、躊躇う白狼に代わり銀月が口を開く。普段より一割増ほど早口なのは、冷静沈着な姫君の振る舞いを心がけている彼としては珍しい。
銀月は白狼を背に隠すように二人の間に分け入った。細い体ではあったが、直接皇帝の目に晒されなくなり白狼の口からほっと安堵のため息が漏れた。
しかし皇帝の興味は白狼から逸れることはなかった。銀月の肩越しに顔を覗き込まれ、白狼の我慢もそろそろ限界近くなってくる。
「おお、よく見たら中々に見目も悪くないではないか。ますますなぜ宦官などに扮しておるのか」
「いつかゆっくりご説明いたしますから」
「なんじゃ、銀月の側女か? 確かにお前ももう十五じゃ。側女の一人や二人……」
「違います!」
「違うわ爺!」
室内に白狼と銀月の本気の怒鳴り声が響いた。白狼の声ばかりでなく銀月の側もいつもの作り声ではない。声変わりした直後の少年の、ほんの少し掠れた低音に一喝され皇帝がわずかに怯んだ。
が、怯んだのはほんの一瞬だ。この男の好色ぶりは生来のものなのだろう。息子に叱られたくらいではその欲を抑えることができないらしい。にんまりと目を細めると、皇帝は銀月の肩越しに白狼の頬に手を伸ばした。冷たい爪先が皮膚に触れ、ぞくりと白狼の背筋が凍りつく。
「側女ではないのか、もったいないのう……」
白狼が固まっていると、皇帝は懐から一本の簪を取り出した。金色に輝くそれは、大きな碧色の珠がはめ込まれておりその周りをいくつもの蝶が舞うという繊細な彫刻がなされている。相当に腕のある職人に作らせたものだろう。それを目のまえでちらつかせながら、皇帝は白狼にまた顔を近づけた。
「この簪が似合う着物を着せてやろう。儂の側で働かぬか。望めば妃にしてやることもできるぞ」
「父上!」
銀月が父親の手を払いのけた。公的な場であれば決して許されない行為だが、ここは銀月の宮であり人払いもしている極めて私的な空間である。それを分かっているのか皇帝はそれを咎めず、いやはやと眉を下げた。
「ご無体な真似はもうおやめください! おい、陛下がお帰りだ!」
周、と銀月が表に向かって声を荒げた。主の機嫌が伝わったのだろう。中庭の向こうからバタバタと周が駆けてくる。そして皇帝と銀月の前まで来ると、作法通りに素早く膝を折った。
周が姿を現し、人払いの時間が終わった事を理解したかのように皇帝の表情と姿勢が威厳のある風に変化した。それまでの粘っこい好色気な表情はなりを潜め、跪く護衛宦官に鷹揚に頷いている。
「豹変」といえる変わりように白狼は驚きながらもほっと胸をなでおろしていた。
しかしあからさまに安堵していると思われるのも癪であり、銀月にかばわれている様を周に見られるのも腹立たしい。すぐさま自分も膝を折ってその場に平伏してみせたが、それでも銀月の隣から離れることができなかった。
「これより陛下がお帰りになる。この後は永和宮へご訪問になる予定とのこと故、お送りして差し上げよ」
「はっ」
普段より厳しい声で告げる銀月の命令に、忠実な護衛宦官はただ一声で応じた。そしてそのまま、皇帝は何事もなかったかのように一度も振り返らず宮を後にしたのだった。
もともと定例の訪問の時でさえこの父親の滞在時間は短いらしい。今回は胸のつかえが取れたせいか、それとも銀月に耳の痛い話をされたからか、早くも皇帝は椅子から腰を浮かせかけていた。
「迎えを呼びますよ」
銀月は戸口に控えたままの白狼を振り返った。しかし皇帝はそれを手で制する。そしてにんまりと笑みを浮かべると顎の髭を撫でた。
「今日はよい。この後、永和宮に行くと先触れを出しているのでな。このまま歩いて行こうと思っている」
「永和宮までおひとりで行かれるのですか? では、お見送りに周を付けましょう」
「おおそうか、助かる」
「門までお送りいたします。白狼」
後宮に来たついでに他の妃嬪に会っていくらしい。その話題になった途端に顔が若々しく輝いているから現金な者である。
永和宮は誰の住む宮だったか。少なくとも皇后と貴妃の宮ではない。つい先ほど皇后が、貴妃がと怯えていたはずなのに舌の根も乾かぬうちに、と白狼は心底呆れかえりながら人払いで締め切っていた扉を開ける。
立ち上がった皇帝は、「では健勝で」とだけ告げると白狼のいるほうへと歩き出した。もちろん白狼は拱手しながら頭を下げてそれをやり過ごす――はずだった。
「そこの宦官は新しい顔だが、先日の銀月についていたな……ん?」
ただ目の前を通りすぎるだけのはずの皇帝が、ふと足を止めたのだ。おやと言われて伏せていた目をちらりと上げれば、眼前に皇帝の顔が迫っている。まるで見分するかのように皇帝の目がまじまじと白狼の顔を見つめていた。
「ほう……ほう」
「父上? この者がなにかご無礼でも?」
「いやいや、そうではなく……」
そういうと皇帝は更に白狼に顔を近づけた。小さな白狼の顔に皇帝の顔が近づいているということは、皇帝の方が腰をかがめているのだろう。息がかかるほどに近づかれ、気圧されたように白狼が後ずさる。
いや、気圧されたのではない。皇帝の衣に焚き染められた甘ったるい香のにおいと、年配の男によくある吐息の臭気に圧されたのだ。本能的に体が反り返るのを止められず、白狼はまた一歩後ずさった。
一体なんのつもりだ。耐えかねた白狼が思わず怒鳴りつけてしまいそうになった時、なるほど、と皇帝が体を起こした。
「なんじゃ。そなた、おなごか」
「げ」
自制できず白狼の口から異音が漏れる。しかしほぼ同時に銀月の口からも同じような音が漏れていた。翠明に聞かれていたら拳骨を落とされ半刻ほど小言を言われるような出来事である。
しかし皇帝はそんな二人の様子など意にも介さず、ほうほうなるほどとためつすがめつしながら長く垂らした顎鬚を撫でつけた。
その目つきがやけに粘っこく絡みつき、白狼の背に怖気が走った。着物越しに眺められているはずなのに、なぜか丸裸にされている気さえする。
端的に、気色悪いと思った。それなのにいつものように口汚く撥ね退けることができないのはなぜか。本音でいえば一目散に自室へ逃げ帰りたい。
「随分と年若く見えるが、乙女の年ごろにも見えるのう。何故に男のふりをして宦官などになっているのだ」
「ち、父上! お待ちくださいこれには少々訳がございまして」
「訳? まあ訳もなくこんなことはしないだろうが、それにしてもなぜ宦官なのだ。女官として雇いあげればよかろうに」
ようやく見分に納得がいったのか、皇帝は白狼に向かって尋ねた。直答をしてよいものかどうか、躊躇う白狼に代わり銀月が口を開く。普段より一割増ほど早口なのは、冷静沈着な姫君の振る舞いを心がけている彼としては珍しい。
銀月は白狼を背に隠すように二人の間に分け入った。細い体ではあったが、直接皇帝の目に晒されなくなり白狼の口からほっと安堵のため息が漏れた。
しかし皇帝の興味は白狼から逸れることはなかった。銀月の肩越しに顔を覗き込まれ、白狼の我慢もそろそろ限界近くなってくる。
「おお、よく見たら中々に見目も悪くないではないか。ますますなぜ宦官などに扮しておるのか」
「いつかゆっくりご説明いたしますから」
「なんじゃ、銀月の側女か? 確かにお前ももう十五じゃ。側女の一人や二人……」
「違います!」
「違うわ爺!」
室内に白狼と銀月の本気の怒鳴り声が響いた。白狼の声ばかりでなく銀月の側もいつもの作り声ではない。声変わりした直後の少年の、ほんの少し掠れた低音に一喝され皇帝がわずかに怯んだ。
が、怯んだのはほんの一瞬だ。この男の好色ぶりは生来のものなのだろう。息子に叱られたくらいではその欲を抑えることができないらしい。にんまりと目を細めると、皇帝は銀月の肩越しに白狼の頬に手を伸ばした。冷たい爪先が皮膚に触れ、ぞくりと白狼の背筋が凍りつく。
「側女ではないのか、もったいないのう……」
白狼が固まっていると、皇帝は懐から一本の簪を取り出した。金色に輝くそれは、大きな碧色の珠がはめ込まれておりその周りをいくつもの蝶が舞うという繊細な彫刻がなされている。相当に腕のある職人に作らせたものだろう。それを目のまえでちらつかせながら、皇帝は白狼にまた顔を近づけた。
「この簪が似合う着物を着せてやろう。儂の側で働かぬか。望めば妃にしてやることもできるぞ」
「父上!」
銀月が父親の手を払いのけた。公的な場であれば決して許されない行為だが、ここは銀月の宮であり人払いもしている極めて私的な空間である。それを分かっているのか皇帝はそれを咎めず、いやはやと眉を下げた。
「ご無体な真似はもうおやめください! おい、陛下がお帰りだ!」
周、と銀月が表に向かって声を荒げた。主の機嫌が伝わったのだろう。中庭の向こうからバタバタと周が駆けてくる。そして皇帝と銀月の前まで来ると、作法通りに素早く膝を折った。
周が姿を現し、人払いの時間が終わった事を理解したかのように皇帝の表情と姿勢が威厳のある風に変化した。それまでの粘っこい好色気な表情はなりを潜め、跪く護衛宦官に鷹揚に頷いている。
「豹変」といえる変わりように白狼は驚きながらもほっと胸をなでおろしていた。
しかしあからさまに安堵していると思われるのも癪であり、銀月にかばわれている様を周に見られるのも腹立たしい。すぐさま自分も膝を折ってその場に平伏してみせたが、それでも銀月の隣から離れることができなかった。
「これより陛下がお帰りになる。この後は永和宮へご訪問になる予定とのこと故、お送りして差し上げよ」
「はっ」
普段より厳しい声で告げる銀月の命令に、忠実な護衛宦官はただ一声で応じた。そしてそのまま、皇帝は何事もなかったかのように一度も振り返らず宮を後にしたのだった。
0
お気に入りに追加
383
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

転生したら、6人の最強旦那様に溺愛されてます!?~6人の愛が重すぎて困ってます!~
月
恋愛
ある日、女子高生だった白川凛(しらかわりん)
は学校の帰り道、バイトに遅刻しそうになったのでスピードを上げすぎ、そのまま階段から落ちて死亡した。
しかし、目が覚めるとそこは異世界だった!?
(もしかして、私、転生してる!!?)
そして、なんと凛が転生した世界は女性が少なく、一妻多夫制だった!!!
そんな世界に転生した凛と、将来の旦那様は一体誰!?

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
明智さんちの旦那さんたちR
明智 颯茄
恋愛
あの小高い丘の上に建つ大きなお屋敷には、一風変わった夫婦が住んでいる。それは、妻一人に夫十人のいわゆる逆ハーレム婚だ。
奥さんは何かと大変かと思いきやそうではないらしい。旦那さんたちは全員神がかりな美しさを持つイケメンで、奥さんはニヤケ放題らしい。
ほのぼのとしながらも、複数婚が巻き起こすおかしな日常が満載。
*BL描写あり
毎週月曜日と隔週の日曜日お休みします。
旦那様が多すぎて困っています!? 〜逆ハー異世界ラブコメ〜
ことりとりとん
恋愛
男女比8:1の逆ハーレム異世界に転移してしまった女子大生・大森泉
転移早々旦那さんが6人もできて、しかも魔力無限チートがあると教えられて!?
のんびりまったり暮らしたいのにいつの間にか国を救うハメになりました……
イケメン山盛りの逆ハーです
前半はラブラブまったりの予定。後半で主人公が頑張ります
小説家になろう、カクヨムに転載しています

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる