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ユージーン

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0.Eight Years Earlier

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 旅館が襲われた。
 助けを求める連絡が地元の警察に入ったのは、午後八時過ぎのことだった。
 声の主は、その旅館に宿泊していた修学旅行生で、その一報を受けてから、立て続けに連絡が入りこんできた。発信地は全て同じ場所──稲ノ宮いなのみや旅館。
 そこは地元の市街地から離れた、郊外の山奥にある。外界から離されたその場所は、有数の温泉地として栄えており、稲ノ宮旅館も広大な敷地を構えている。
 毎年多くの観光客で賑わっており、急成長した観光地として国の内外問わず注目を集めていた。
 辺鄙へんぴな場所にあるにもかかわらず、街の地元警察もわざわざ足を運んでいる者も多い。
 だから迷うことなく現場には急行できる──そのはずだった。


 ○


「いつまで待機してればいいんですか!?」

 苛立った口調で警部は無線に怒鳴りつける。通報を受けて三時間近くになるが、待機の命令を受けたまま進展はなにもない。このままでは、日付が変わってしまうまで待つことになりかねない。
 旅館から五キロ離れた国道には、警察車両が七台ほど停車したまま赤いランプを光らせている。灯りも乏しい道のため、借りてきた建設現場のライトが昼間のように辺りを照らしていた。

『せ、専門の人達があと十分で着く。頼むから余計なことはしないでくれ』

 無線越しの署長の声は、気弱く威厳もへったくれもない。か細く、保身を優先させるような物言い。それがますます警部を苛立たせた。

「十分前にもそう言ってましたよね!? 調べたら、客は四百人以上は宿泊しています! その中には修学旅行中の生徒もいるんですよ! 温泉街の住人を含めたら何人の人間が犠牲になると思ってるんです!」
『わたしもそれは承知してる! わたしだってわかってるさ! だが、どうしようもないだろ! 警察が相手をして勝てる存在じゃないんだぞ、は! きみだって承知してるだろう!』
「それでも、すぐに行かないと全員がになるかもしれないんだ。装備と人数を整えて我々が──」
『待機しろと言っただろ! これは警察の専門じゃないんだ! 手を出すな! 待機だ待機!』

 半分ヒステリックになっていた署長は、そのまま無線を切った。

「くそジジイ……」

 警部が愚痴りながら煙草を取り出すと、制服姿の若い警官が近づいてきた。

「すみません、いいですか?」 
「どうした?」
「D地点の検問所に四名ほどの……宿泊客が……その……」

 制服警官は、口ごもり声を落とす。警部は事態をすぐに察せた。

?」
「……はい」
「それで?」  
「全員射殺しました。こちらに被害はありません」
「わかった、ご苦労」

 警部は煙草に火をつけると、大きく吸うと煙を吐き出す。そうして近くの駐車場を一瞥した。
 駐車場では、多くの報道関係者達が撮影をしている様子が見えた。口々に「修学旅行生」や「進展なし」の声が聞こえてくる。中には救出をしない警察に疑問を抱く声もあった。
 警察関係者も迂闊に現場に踏み込むことはできない。もし安易に突入すれば被害がさらに増えてしまう。

 惨劇を引き起こした正体を警部は知っていた。  

 いや、警部だけではない。他の警察関係者もマスコミも、全員が、全世界の人間がそれを知っている。その存在がどんなに脅威なのかも。
 だからこそ、踏み込めはしない。こちらができることは、監視することのみ。

「このままじゃ朝になるぞ……!」

 警部が吸い終えた煙草を投げ捨て踏み潰そうとしたところで、爆発音が鳴り響いた。オレンジ色の炎が一瞬だけ闇を裂く。旅館の方だ。立ち上る煙もちょうどその方角だった。轟音に驚いた鳥たちが、騒がしく鳴き立てながら夜空を舞う。
 報道関係者達は一斉にカメラを回し、リポーターが状況を伝えにかかる。目の前に転がってきたスクープ映像に彼らは心奪われていた。

「各班、今の爆発は……」

 警部が無線で連絡を入れたその時、前方から人影が見えた。暗闇の向こうから産まれたみたいに人影はゆっくりと歩いてくる。女の人だった。スーツ姿で、髪は長く顔が隠れていた。足取りは、酔っ払ったみたいにフラついている。

「おい、あれ……」

 無線連絡をやめ、警部は巡査を何人か呼ぶ。

「あれは……」
「生存者か?」

 警部が含みのある言葉を巡査にかけた。巡査たちは目を見開いて女を見据える。

 次の瞬間、女が走ってきた。人間離れした速さで、あっという間に距離を詰めてくる。建設用ライトが照らす領域に女が踏み込んできたとき、警部は咄嗟に銃を引き抜いた。

「止まれ!!」

 警告を与えるが、女は無視してアスファルトを蹴り進む。血で汚れた服に、長く伸びた二本の犬歯が、ライトのおかげではっきりと見えた。

「化け物め……!」

 警部が慎重に狙いを定める。
 だが彼が引き金を引く寸前で、一発の銃声がとどろいた。
 直後、女は道路に倒れこみ血を吐き出す。腹部を押さえながら血走った目を向け、獣のように唸る。

「えっ……あっ! 速報です! たった今、生存者らしき女性が撃たれました!」

 事態に気がついたリポーターが狼狽ろうばい気味に報道を始める。それに倣うように他の報道陣も一斉に動き出した。

「警部撃ったんですか!?」
「違う、俺じゃない!」

 警部の銃口には硝煙は立ち上ってはいない。撃とうとする手前だった。

(いったい誰が銃を?)

 すると、女のやってきた方向から学生服を着た少女が現れた。
 少女も、女と同じようにところどころが血で汚れている。外傷は見当たらない。制服を汚した血痕は少女のものではないらしい。
 少女が右手に持っていた物には誰もが目を見張った。猟銃だ。散弾銃形式ではなく、ボルトアクションのライフル。銃口からはかすかに煙が上がっている。どうやら撃ったのはあの子らしい。
 少女は、倒れこんだ女性の近くに来ると素早く弾を装填し、迷うことなく撃った。猟銃から放たれた弾が頭を吹き飛ばす。
 事切れた女の身体は灰となった。死体を残すことなく全身が一瞬で灰の粒に変わる。まとっていた衣服だけはそのままに、灰は夜風にさらわれ闇の中へ消えていった。

「銃を捨てなさい!」

 警部が少女に向かって呼びかける。
 声に反応した少女は反射的に警部に猟銃を向けてきた。それを見て他の警察官もとっさに銃を構える。一触即発の事態に検問所にいた全ての人間が固唾を飲む。

「大丈夫だ、だから銃を捨ててくれ」

 ゆっくりと、警部は語りかける。
 しばらくは微動だにしなかった少女だが、やがてゆっくりと銃を下ろした。弾が装填されていないことを確認して猟銃を地面に投げる。それは、実に慣れた手つきのように見えた。

「私は……吸血鬼じゃありません」

 少女は一言そう告げると、歩いてきた道を振り返った。先ほどまで自分が身を置いていた地獄に、忘れ物でもしたかのように。
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