Ambivalent

ユージーン

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apoptosis

72.through black memory

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 ほんの十分前まで、鵠美穂は上機嫌だった。久しぶりに綾塚沙耶と組んで仕事ができる、それを知ったときにはこの退屈な仕事も、最近の失態で気分が滅入る気持ちも、なにもかもが幸せで上塗りされた。されたはずだったが、今は別のもので上塗りされた。幸せを塗りつぶしたのは、苛立ち。それも自分の失態ではなく、がそれを塗った。
「あのバカ……なんで身分証忘れてんのよ……!」
 行き場のない怒りが、思わず口から出てしまった。聞いてる者はいないが、いないならいないで、思いっきり叫びたかった。霧峰あんじゅのバカヤロウ、と。彼女が身分証を忘れたせいで、美穂は沙耶から離れることになってしまったのだ。
 他人の尻拭い、それだけで苛立つには充分だというのに、自分が沙耶と引き離された。そしてその原因があんじゅ。美穂にとっては、これ以上ない見事な三連コンボだった。
 美穂は早足で床を踏み鳴らす。横を向けばジャングルみたいに生い茂っている壮大な中庭が見えるが、見る気がしない。それよりも、頼まれた仕事の方に意識が向いていた。
「警護って……ああもう……めんどくさっ……」
 誰かの傍にいて守る仕事など、美穂にとっては初めてだった。吸血鬼に狙われている人間の警護の仕事は一応したことがある。けれど、それは狙撃手自分の役割の範囲でだ。遠くから敵を撃つ、観測手スポッターなしのワンマンで誰も口を挟んでこない環境だから気楽にやれたが、対象の傍で目を光らせるとなると、自然と気を張らなくてはならない。
 警護対象は女の子だと早見から聞かされてはいた。だが、年齢までは聞かなかった。おそらくだが、就学前の手のつけられない子どもだろう。警護を付けるというのなら、きっとそのくらいの年齢のはずだ。
 何人かの職員の間をすり抜けて、ようやく所長室にたどり着いた。拳を作り、ノックをしようとしたところで、中から声が聞こえてきた。
「いや! 絶対にいやよっ!」
 女の子の声だった。やけに声量があるのか、扉越しからでも声が充分に聞こえてくる。そしてもう一人、なだめるような男の声がした。
「頼む、本当に少しだけでいいから」
「嫌って言ったでしょ! しつこいっ!」
 言い争いを耳にしながら、美穂はため息をついた。拒否の言葉から大方の予想はつく。所長の娘が警護を付けてもらうことを嫌がっているようだ。
「……こっちだって願い下げよ」
 美穂は小声で不服さを呟く。すると、いきなり扉が開いた。思わず心臓が飛び出しそうになった。
「ああ、やあ……【彼岸花】の?」
 顔を見せたのは男の人だった。おそらく、なだめていた方だろう。ということは、この男が所長なのだろうか。
「え、ええ。娘さんの警護を任されました、鵠美穂です」
「そうか、済まないね。今少し揉めてて。ああ、大丈夫だ。入って構わないよ」
 【舞首】の所長は、美穂が想像していたよりも若く見えた。眼鏡をかけて、少しだけ口髭を生やしている。見ただけの雰囲気だと、施設の一番上の位には見えなかった。二番目、いや、三番から五番目くらい、そんなだった。
「えっと……警護を嫌がられてる感じですか?」
「え? ああ、いや違う、揉めているのは別のことなんだ」
 所長が参ったように言うと、奥から再び娘の大音声だいおんじょうが聞こえてきた。
「パパ! 絶対に唄わないから! 私はこんなパーティーの余興になんか出る気ないわ!」
「わかった、わかったよ。……えっと、すまない。紹介するから入って」
 後ろの娘、前の美穂へと所長は忙しそうに首を動かす。相当手のかかる娘を持っているようだ。美穂は招かれるまま、中に入った。
 所長室はかなり広く、高級感のあるオフィスディスクに大きな本棚が自然と目に入った。来客用のウール素材の立派なソファまで完備してある。そのソファに女の子が腰掛けているのが見えた。あれが所長の娘だろう。
「どうも、よろし…………えっ?」
 娘の姿を見た美穂は、思わず我が目を疑う。ありえない、自分の見てる目の前の光景にそう思いながら、どこか奇跡的なものを感じていた。反射的に興奮してきて心臓が高鳴っていくのが、自分でもよく感じた。
「えっ……と……」
「ああ、もしかして……娘をテレビで見たことあるのかい?」
 驚く美穂の反応を見て、所長が言う。誇らしげな物言いをする所長だが、美穂は返す言葉が見つからなかった。
 見間違うことは決してない。しかし、どうして彼女がここに居るのだろうか。いや、居てもおかしくはない。だが、それを確率にすれば天文学的な数字になるだろう。
「ああ、ほら……ちゃんと挨拶しなさい」
 促された少女は、所長父親めつける。だが、すぐに美穂の方を向くと笑顔を作った。
かけい明日菜あすなです、よろしくお願いします」
 明日菜は立ち上がり、深々と頭を下げた。美穂にとっては、なおさら現実離れした光景だった。
「は、はい……」
 上擦った声で美穂は答える、よろしくお願いします、と付け加えようとしたが、喉元で止まってしまい、そのまま出てくることはなかった。顔を上げた明日菜は再び美穂に一笑いっしょうする。だが、すぐに父親の方を向くと、顔つきを変えた。
「パパ、私は唄わないし変な式にも出ない、わかった?」
「おい、待ってくれ明日菜、少しはパパの話を……」
「うるさいわね! もう時間でしょ、行ったら? カメラとマイクが待ってるわよ!」
 ふん、と鼻を鳴らした明日菜は乱暴にソファに腰掛けた。顔も見たくない、と言いたげに父親とは顔を合わせず、部屋の隅を睨みつけていた。
「わかった、わかったよ、悪かった」
 観念したようにうなだれる所長父親。そして頭をぽりぽりと掻きながら、美穂の方に向き直った。
「いやぁ、すまない、見苦しいところを見せて。紹介が遅れたね……【舞首】の所長の……かけい忠信ただのぶだ」
 美穂は差し出された名刺を受け取る。性の“筧”の文字を見て、筧明日菜の護衛をするのだと、美穂は改めて強く認識した。まだ半分夢の中にいる感じだったが、気を引き締めて、今一度筧所長に頭を下げる。
「明日菜、迷惑をかけるんじゃないぞ」
 筧所長は、父親らしく少しばかり厳しい口調で言う。それが気に食わなかったのか、明日菜は父親を威嚇するように睨むと再び他所を向いた。
「それじゃあ、お願いします」
 筧所長は美穂にそう言うと、机の上に置いてあった紙束を持って部屋を後にした。
 残された美穂はちらりと明日菜の方を見る。相変わらず眉根を寄せたままだが、父親がいなくなったことで不機嫌さはいくらかしずまったようだ。どうしようか、と美穂が立ち尽くしていると、明日菜の方が声をかけてきた。
「あなた……私を助けてくれた人でしょ?」
「ふへ?」
 突然話しかけられた美穂は素っ頓狂な声をあげた。明日菜の方も、思わず吹き出していた。
「あっ……ええ、そうね。うん……」
「ああ、やっぱり。入って来たとき、ちょっとびっくりしちゃったから」
 明日菜の言ったことは事実だ。オフの日、秋葉原で彼女のライブを観て、そのすぐ後に吸血鬼が現れた。吸血鬼は被害にあって変化したばかりで、近くにいたであろう明日菜を人質にとり、血を啜った。その吸血鬼を美穂は射殺した。あれから日は経つが、今もよく覚えている。
「長い黒髪の綺麗な人だったから、よく覚えてるわ。その節は本当にありがとう」
「いえ、その……当然だから、そんなの」
「……ていうかあなた、私のライブの常連さんでしょ?」
 明日菜にそう言われて、美穂は心臓が飛び出しそうになった。まごつく美穂を見て明日菜は愉快に笑いながら続けた。
「ほとんど毎回ライブに来て、最前列でサイリウム振って大きな声出してるもの。しかも、私のライブで女性は珍しいから……スタッフの間でもあなたって有名よ」
 美穂は、恥ずかしさのあまり耳まで顔を赤く染める。確かに我を忘れて声を張り上げてはいたが、本人に認知されるくらい有名だったとは。覚えてもらえて嬉しい反面、やはりどこか吹っ切れない部分があるのか、美穂の胸の内では、気恥ずかしい思いのほうがはるかに勝ってしまっていた。
「ごめん……私の声、うるさいわよね……」
「え? いえ、そんなことないですよ。確かに声は大きいですけど、私もあなたに負けないように唄ってますから!」
 明日菜はハキハキと答えた。目の前にいる明日菜は、美穂がたまにテレビで観たり、ライブで見る彼女の印象そのままだった。沙耶と仕事ができなくなったことで生まれた苛立ちの念も、すっかり雲散霧消うんさんむしょうしてしまった。
「それで、えーっと、鵠美穂さんでしたっけ?」
「え、ええ」
「なら、美穂さんって呼びますね」
「え、ええ……す、好きに呼んでいいわよ」
 明日菜に名前を呼ばれたことで、美穂の声は再び上擦る。
「ねえ、美穂さんって【彼岸花】の捜査官なんですよね?」
「へ? あっ、そうよ。『戦術班』っていう……実地業務が主な仕事よ」
「じゃあ、銃とか持ってるんですか? 持ってるなら、見せてもらってもいいですか?」
 立ち上がった明日菜は、興味津々な視線を美穂に送る。一応ジャケット裏の胸のホルスターに銃は収まってはいる。だが、明日菜は一般人だ(芸能人ではあるが)。拳銃を取り出してひけらかすのはさすがに気が引けた。なにより、規定に違反する。
「ごめん、さすがにそれはダメよ」
「ええ~! 持ってみたかったんだけどなあ」
「ごめんなさい。その要望には応えれないわ」
 了承を得ることができず、本気で残念そうにする明日菜。意外と過激な願望を持っている明日菜を見て、美穂は苦笑いをする。少しばかり緊張も解れたので、先ほどのやり取りを訊いてみることにした。
「さっきはどうしたの? なんでお父さんともめてたの?」
「……ああ、あれですか」
 先ほどのことを思い出してか、明日菜は面を膨らす。
「パパが関係者用のパーティで一曲唄って欲しいって。嫌って言ったのに、しつこく食い下がってくるから、私も頭にきたの」
「唄わないの?」
「ご機嫌とりに利用されるのが見え見えなの。お世話になった大沼とかいう偉い議員が来てるみたいだけど、私には関係ない。出世したいなら、娘を利用しないで自分の力でやってよね」
 居ない本人にぶつけたいであろう気持ちを、明日菜は吐く。この前だって、とさらに別の案件を持ち出す明日菜。美穂はそれを黙って聞いていた。なにか適切な言葉を言ってあげたい気持ちはあったが、言葉にしたところで説得力がないことは自分でもわかっていた。この手の“親についての”話題を出されても、美穂は的確なアドバイスなどできない。
 鬱憤を一通り話し終えた明日菜は、喉がカラカラになったのか、ウォーターサーバーの方に行くと水を飲んだ。飲んでから、さらに一言。
「なんで親ってあんなにうるさいんですかね。この前だって撮影で帰りが遅くなったからって……怒り出すし」
「それは……違うと思うわ」
 美穂は明日菜に同意しなかった。そうね、と、相槌を打てば、話は弾んだかもしれない。だけど、そうはしなかった。
「うるさく言ってるんじゃなくて、気にかけてるのよ」
「そうですか? そういうのよく聞きますけど、私まだよくわからなくて」
「いいお父さんだと思うけど」
 そうだ。いい親だ。
 脳裏にいやな記憶が蘇り、一瞬だけ美穂の世界は暗く写った。震える拳を隠しつつ、美穂はソファに腰掛けて、紙コップを片手に持って立つ明日菜を見上げる。
「あなたの話をちゃんと聞いてくれるじゃない。それで、自分の気持ちもちゃんとあなたに伝えているし」
「でも……うるさく言われたり、利用されるのは……」
「利用されてるって思うのも憶測でしょ? もう少しちゃんと話してみたら?」
「……はい」
 明日菜は納得しようとしているように見えるが、どこか素直になれずにいるようだった。言葉を受け入れたら自分の負け、そんな風に思っているのだろう。
「大丈夫よ。あなたは愛されてるから。少なくとも──」
 らしくないことを言ってから、思わず口が滑りそうにった。なんでもない、と言葉を濁した美穂は、そのまま明日菜から顔をそらした。
 「少なくとも」美穂が言いかけたその先の言葉は「自分の両親よりかは」だった。金満家きんまんかで、吸血鬼を崇拝し、羽振りの良い生活を維持するため、金と引き換えに自分を吸血鬼に売った両親悪魔。それ以前の記憶を思い返しても、愛された記憶などない。罵られ手を出され、十二になるまで狭く暗い物置の中が自室だった。十二の誕生日を迎えてからは、身体に刺さった管と飢えた吸血鬼が加わった。いつかは愛情をくれるのではないか、と幼かった美穂は心のどこかで期待していた。だが、両親がくれたのは、暗くジメジメした絶望の世界への切符。
「……美穂さん?」
 明日菜に呼びかけられ、美穂は仄暗い記憶の底から戻ってきた。
「汗すごいですけど……」
 心配した様子で、明日菜がハンカチを差し出してきた。お礼を言ってから、美穂はひたいを拭う。石鹸の香りがした柔らかな素材のハンカチは汗でぐっしょりと湿気た。どれだけ深刻にあの時のことを思い出していたのだろう。美穂は時計を確認した。もう少しでメディア向けの、最初の開所式が始まる。
「お父さん、スピーチするんでしょ? 行かないの?」
「別にいいです」明日菜は素っ気なく言うと、美穂の向かい側のソファに腰掛けた。「それより、美穂さんっていつから私のファンなんですか?」
 先ほど、銃を見せてほしいと言った時と同じように、明日菜は興味津々な瞳を美穂に向けてきた。そんな明日菜の顔を見て、美穂は暗い気分に陥った自分がバカらしく思えた。
「そうね、最初のシングルの──」

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