Ambivalent

ユージーン

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Defamiliarization

133. Final Masquerade

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 あんじゅの問いかけに五十鈴景子は答えない。だが、思い当たる節はあるようで、彼女の表情がそれを物語っていた。
 あんじゅは言葉を選びながら続けた。
「……あなたは、麓に吸血鬼が現れたって偽の通報をして、捜査官を動かした。その後で、掲示板で自分の居場所を配信して、自分と、筧明日菜の知名度を利用して山に人を入れた。吸血鬼が潜んでいる山に」
 例の逃走中の吸血鬼が所持していた携帯端末には、通報するために連絡を取った形跡がなかった。掲示板へのアクセスの形跡も。
 怪訝に思ったあんじゅは付近の通信記録を本部に頼むことにした。結果、五十鈴景子の端末から偽の通報と掲示板への書き込みがあったとの連絡があった。それを知らされたのがほんの数分前。追跡していた吸血鬼が逃走のプロという前情報は余計な先入観をもたらした。
「自分を慕う人を利用してまで、私たちのことを妨害したかったんですか?」
「そうよ、捜査がグダグダになって、その責任とって、痛い目に遭えばいいって、そう思ってたわ」
 吸血鬼へと変わったことで自暴自棄になったのか、景子の声には開き直りが現れていた。同時に望まない結果になってしまったことへの後悔の念も混ざっていた。
「だけど、もうどうだっていいわ。捕まれば死ぬか一生檻の中だもの。だったら、一度きりの人生、死ぬ気で生きようとしてもいいわよね? 誰かを傷つけてもいいでしょ、それも生きるためなんだから」
 あんじゅは言葉が見つからなかった。誰かを傷つけても死ぬ気で生きようとする、その通りに生き抜いたからこそ、あんじゅには説得力のない嘘の言葉しか思い浮かばなかった。「自分が生き抜くために誰かを傷つけるべきではない」手垢一つない綺麗な言葉に責任を添えれるほど清廉な身でないことは、あんじゅ自身がよくわかっていた。
「ここから逃げることが目的なら、上條さんを解放してあげてください。彼を傷つける理由はないでしょう」
「そんなことしたら、身を守る手段がなくなるじゃない。はいそうですかってわけにはいかないのよ」
「あなたは、彼と同級生なんですよね。親しくはなかったとしても、クラスの仲間にこんなこと──」
「こんなやつ仲間でもなんでもねえんだよ!!」
 景子はあんじゅと真樹夫に視線を向けると、吐き捨てるように言った。
「あんた、こいつがなにしたか知らないでしょ? こいつは、私たちの友達を、仲間を突き出したクズなのよ! 吸血鬼になったあの子をみんなで守ろうとしたのに! なのに、こいつは、危険だとかなんとか思いこんで、挙げ句の果てに最低なことしたゲス野郎よ」
「ち、ちがっ……それは……」
「うるさい! 黙れ!」
 口を開いた真樹夫の首を景子はさらに締め付けた。
「あの日から、あの子は……千佳はおかしくなったんだから! だから! 授業中にみんなを襲って、教室を血溜まりの地獄に変えた……その原因はあんたよ、上條!!」
 興奮気味の景子は真樹夫の首筋に噛み付く。一瞬だけ血を吸うと、再びあんじゅを睨みつけてきた。
「そこを退かないって言うなら、私はなんでもしてやる! こいつの喉笛を噛みちぎって、お前を殺してやる。なんだってできるわよ、今の私にはこれ以上失うものはないんだから!」
 吸血鬼に変わったことは、不可抗力だっただろう。五十鈴景子が自ら望んだ結末ではない。この状況にならざるを得ないところまで追い詰められているのは、吸血鬼になったことが原因だ。
 誰だって人を襲いたくない、それなのに、襲わざるを得ない。その運命と付き合っていくには、開き直る以外に方法はないのだろう。いくら人間の素ぶりを頑張ったところで、もう元には戻れないのだから。吸血鬼として生きていくことを受け入れて怪物となる。五十鈴景子は、心までが怪物となることを受け入れている。残酷な世界から自分を守るために。
「そこを、退いてよ……!」
 声に迷いは消えていた。葛藤はなくなり、五十鈴景子は自分の未来を選択した。それは、正しいことであり、誰になにを言われたとしても貫くべきもの。なにも間違ってはない。
 あんじゅはなにも言えなかった。だが、次に景子が真樹夫に噛み付けば、銃を抜いて引き金を引く。そのつもりでいた。それだけはあんじゅも曲げれない。人生で誰かを失うことを、これ以上増やしたくなかった。
「聞こえなかったの? それともこんなやつどうでもいいってこと?ねえ、答えろよ!」
 景子の眼は血走り、それは獣同然となっていた。興奮状態の彼女は、今すぐにでも上條の肉を喰いちぎる勢いを見せていた。
 危険、そう判断したあんじゅは目の色を変えた。
「これ以上言いません。今すぐ彼を──」
 突如として、銃声が轟いた。次の瞬間、景子が腕を撃ち抜かれて、倒れこんだ。
 あまりに突然の出来事に、あんじゅは瞠目した。自分の銃は、ホルスターに収まったまま眠りについている。銃声は真後ろから聞こえてきた。
「悪あがきしてんじゃないわよ」
 威圧的な鵠美穂の声が聞こえてきた。手には銃が、その銃口には煙が立ち上っている。
「鵠さん……」
 美穂はあんじゅの横を通り過ぎて、真樹夫の後ろにいる景子に狙いを定める。
「ひっ……!」
 景子は腕を抑えて後ずさるが、壁がすぐに彼女の行く末を塞いだ。
「捜査妨害の通報、捜査官の襲撃、吸血行為……よくもまあ、短時間でこんなにやってくれたわね。一番ムカつくのは明日菜の名前をこんなことに利用したことだけど」
「や、やめて……」
 傷のない方の腕で景子は屈強な銃弾から身を守ろうとしていた。泣きじゃくり、怯えるその姿は、先ほどまでの強気な狂気を帯びていた彼女とは思えなかった。
 あんじゅは彼女の姿を目に入れる。それは悲劇のお姫様のように気の毒に見えた。だが、景子の本質的なものは、ほんの三十秒前まで表れていた部分だろう。隙を見せない美穂が見せる油断を、必死に探そうとしているのを微かに感じる。
 五十鈴景子はまだ、
「ま、待って!!」
 不意に、真樹夫が慣れない大声を絞り出す。
 一瞬だけ、美穂が呆気にとられ、チャンスと捉えた景子が喉に噛みつこうとした。
 そのわずかな動きを、あんじゅは見逃すことなく、銃を抜いて引き金を引いた。あんじゅが放った弾は、景子の無事だったもう片方の腕に、風穴を開けた。
 声帯が千切れそうなくらいの叫びが、景子の口から飛び出した。
「助かったわ、ありがと」
「いえ」
「ちゃんと撃てるじゃない」
「はい……」
 あんじゅは、腹部を抑える。片手で狙いを定めたまま。
「で、あんたなんなのよ上條? 急に大きな声出して」
「こ、殺さないで……ほしい……」
「……は?」
 美穂は景子から目を離さないでいた。
「あんたね……こいつは、あんたを襲って血を吸ったのよ。それ以外にも違法行為多数……そんなやつ収容所に送れると思う?」
 収容所に送られる吸血鬼は、基本的に不可抗力で血を摂取するに至った者ばかり。自らの過ちを悔やみ、自発的に訪れる、もしくは家族や友人の説得を受けて入る場合、現場の捜査官の判断に委ねられる場合と様々ある。その全ての色は白からグレーゾーンの範囲のみ。行いを考えれば、五十鈴景子の色はグレーの境界線から黒へと大きく飛び出ている。
「僕は……」真樹夫は一息置いた。「か、噛まれて……ないから」
 真樹夫は首筋を抑えながら言った。血が滴り落ちて、床に模様を作っていた。
 真樹夫の言葉にあんじゅと美穂、景子でさえもが呆然としていた。
「一応、収容所は空いてます」
 真樹夫の思いに応えるようにあんじゅは言った。
「はあ……」
 美穂が呆れてため息をついた。しばらく考える素振りを見せたところで、考えがまとまった美穂が口を開いた。
「他の捜査官を説得する役目は誰がやるってのよ」
「それは私が……」
「あんたは流されて論破されて終わりでしょ」
 美穂の言葉がぐさり、とあんじゅの心に刺さった。そうではない、と美穂に対して言い切ることができなかったことが、少しばかりの虚しさをもたらした。
 美穂が真樹夫を見た。なんの反応も示さずに美穂は難しい顔で景子を見る。悩みあぐねた末に、美穂は舌打ちをした。
「あー、めんどくさい……」
 結局は自分の役目か、そんな思いが篭った大きなため息を美穂は漏らした。
「あんたら、飯奢らせるから。うんと高いの」
 そう言って、美穂はあんじゅに手錠を促す。
 あんじゅは近寄り、五十鈴景子に手錠をかけようとした。だが彼女はそれを払い飛ばした。それ以上の抵抗はなかったが、再び空気が緊張に包まれる。
「いや……い、いやよ……収容所なんか行かない!」
 景子は首を振り、震える声で言った。
「檻の中で一生を過ごしたくない! いつ処刑されるかもわからない毎日を過ごすなんて嫌ッ! そんな中途半端に弄ぶくらいなら私を見逃してよ、上條!」
 涙を流し景子は真樹夫に訴える。
「ごめん……」
 すまなそうな声で真樹夫は言った。
「なんなの? 私に対する嫌がらせ!? あんたをボロクソにしたから……そういうことなの? やっぱり、あんたはクソ野郎よ、上條! いつか吸血鬼になっちまえ! そうしたら、私の気持ちも少しはわかるでしょうね、この悪魔!!」
「あんた……いい加減にしなさいよ。頭に弾ぶち込んで殺してあげてもいいんだけど」
 美穂が景子に詰め寄ろうとする。あんじゅは景子の動きに警戒しつつ、美穂をなだめる。
「鵠さん! ストップです!」
「あんたを殺して灰にして、そこのトイレに流してやりたい。それをしないのは、普段なんの主張もしないおどおどしてるがあんたを助けたいって言ったから! ただそれだけよ!」
 美穂の言葉を受けて、景子はなにも言わなくなった。諦めたかのように手錠を受け入れる。その口から覗く鋭く鋭利な牙は、力なく弱々しいもののように見えた。
 

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