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時なるかな
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武家娘の美根と久良は佐内町の手習い所で居残り稽古の指導を終えて帰る道すがら、
「まあ、綺麗な月だこと」
「ホントに。月明かりの下をこうして帰るのもなんだかウキウキしますねぇ」
絹の袂を連ねて優雅にそろそろと日本橋を渡っていく。
日が暮れても橋の上は人の往来がひっきりなしだ。
「お稽古も楽しいし、手習い子もみな懐いてくれて、わたくし、今がとても幸せ」
久良は浮かれた足取りで先へ進んでいく。
「ええ、それは、わたくしだって」
美根は歩きながら思案していた。
ずっと幕臣の御小納戸が久良へ想いを寄せていることを話さねばと思っていたのだが、いまだ言い出しかねている。
(だって、あまりに久良様は今の暮らしが楽しそうで、なんだか余計なお世話のような気もして――)
美根も窮屈で倹しい武家の暮らしと、自由で裕福な桔梗屋の暮らしでは比べようもなく、今が極楽のようだと思っていた。
(ああ、どうしたらいいのだろう?)
美根は悩ましげに吐息した。
「ま、美根様ったら、手代の銀次郎さんのことでも考えてらっしゃるの?」
小柄な久良が大柄な美根の顔を覗き込む。
「えっ?な、何をおっしゃるの?わ、わたくしがどうして?」
美根は分かりやすく赤面してうろたえた。
なにしろ十四歳から奥女中勤めで二十七歳でようよう宿下がりして世間へ出てきたばかりの武家娘の初めての恋なのだ。
いや、十年も密かに思い続けたはずの御小納戸の馬場馬三郎が初めての恋では?と思うであろうが、
(いいえ、あれは、まだ本物の恋を知らなかったから、世間知らずの娘がただの通りすがりの親切な方をうっかり恋だと勘違いしたのでしょう)
すでに美根の中ではなかったことになっている。
そこへ、
「おお?美根ではないか?」
奇遇にも手前から日本橋の通りを歩いてきたのは父、白見根太郎であった。
珍しく長男の根之介も一緒だ。
「これから桔梗屋へ寄るところなのだ」
根太郎は何か良いことでもあったのか意気揚々としている。
「まあ、どのようなご用件で?」
(またお金の無心では?)
そう邪推して美根は咎めるような顔になった。
もう二度と実家へ戻るつもりはないので父親にも強気だ。
「うむ、お前も聞いておるだろう?桔梗屋で来月に行われるたぬき会だ。その件でお葉さんに伝えることがあるのだ。――実は、わし等が格別の御沙汰を受けたのでな」
根太郎が誇らしげに言うと、根之介も意気込んだように大きく頷く。
今日、根太郎父子は御側用人の木常どん兵衛に呼ばれ、たぬき会での将軍様の護衛を任されたのだ。
たぬき会は武士も町人も分け隔てのない趣味の集まりで将軍様もお供の木常もいつもの忍び歩きの七色唐辛子売りの扮装で参加する。
その会場の桔梗家へ護衛の武士がゾロゾロと出入りしては目立つことこの上ない。
「そこで、わし等ならば桔梗屋とは親戚で頻繁に出入りしておるのだから、近所に不審に思われることもないという訳だっ」
根太郎は得意げに胸を張った。
(頻繁にお金の無心に出入りしていたのでしょうね)
美根は心の内で皮肉っぽく突っ込みを入れる。
元より根太郎は御徒組の武士で、将軍様が参拝などで外出の際に御駕籠が通る沿道を警備するのが役目である。
それが沿道の警備ではなく将軍様のおられる広間での同席を許され、将軍様のすぐ傍らでの護衛を任されたのだ。
これほどの名誉があろうか。
「お目見え以下の御家人の身分には過ぎたる御沙汰なのだ」
根太郎は感極まって涙目だ。
(まあ、わたくしがお見合い相手の申し込みを拒んで家出したのに、もう、わたくしの縁談には何の関心もないようですこと)
美根は父親に意地を張る必要もなくなり、少しばかり拍子抜けしていた。
ちなみに根太郎も美根もまだ知らぬが、将軍様の護衛にはお庭番の八木、そして、御小納戸の馬場、山鹿、猪野の三人も行商人に姿を変えて参加する。
お庭番の八木は当然のことながら、御小納戸の三人は『金鳥』の秘密を知っているということで選ばれたのだ。
「木常様が口を酸っぱくして言われるには田貫様に恨みを抱く反タヌキ派の連中が参加者の中に紛れ込むやも知れんという。――根之介、ゆめゆめ抜かるでないぞっ」
根太郎は根之介に檄を飛ばす。
「はいっ。父上っ、たまさか曲者が現れようものなら、この根之介が一刀のもとにバッサリと成敗して御覧に入れまするっ」
根之介は勢いよく刀を振り下ろす真似をしてみせた。
「うむ、その意気だっ」
根太郎は頼もしげに目を細める。
愛嬌のある出目のカエル面でとても賢そうには見えぬ根之介であるが、親の欲目とはいえ剣術の腕前はなかなかのものだ。
これまで桔梗屋から無心してきた何十両もの金を使って日本橋でも指折りの町道場へ通い、剣術の稽古は一日とて欠かしたことのない根之介なのである。
たぬき会に曲者が現れて、倅の根之介が見事に手柄を立てることが出来れば、たとえ御家人であっても出世の道が開ける。
そうなれば今までペコペコと下げたくもない頭を下げまくって金の無心をしてきた苦労が報われるというものだ。
(時なるかな、時なるかな。ようやく、わし等にも運が巡ってきたのだっ)
この際、曲者が現れてくれることを願わんばかりの根太郎であった。
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