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寝ても覚めても
しおりを挟む「――何はともあれ、他人が何代も掛けて築き上げ、大きく繁栄させたものを横取りするのが一番、手っ取り早いからな」
又吉はにんまりと笑むと、やおら深刻そうに表情を変えて、
「虎也、お前はわしによく似て男前だし、腕も立つ。ただ、悪知恵を働かせる能はない。そこが問題なのだ」
さも、その問題で自分が頭を悩ましていると言わんばかりに嘆息して虎也をギロリと見やった。
(――あ、いきなり説教か?)
虎也は眼光鋭い父の表情に思わず身構える。
幼い頃から父、又吉はもしや母、お虎よりも恐ろしいのではと感じていたのだが、殺る時は殺る男だったのだとようやく父の恐ろしさが腑に落ちた。
普段の又吉は傍目には朗らかで穏やかな虫も殺さぬ男としか見えぬのだから、さすがとしか言いようがない。
「虎也、お前も猫魔の男だ。その気にさえなれば女はいざ知らず男もたぶらかすことの出来る器量に恵まれながら惜しいことだ」
又吉は無念そうに首を振った。
「いや、べつに、俺は女も男もたぶらかしたくなんざねえし」
江戸の花形である火消の纒持ちの虎也は男女を問わずイヤになるほどモテモテなのでそんな気にもならなかった。
「ふん、それだから駄目なのだ。いいか?虎也。まず、江戸では駄洒落だ。江戸で駄洒落の一つも言えんようでは江戸っ子とは見なされん」
「――は?」
虎也は唐突に説教が思わぬほうへ向いたのでキョトンとした。
「江戸の湯屋では『田舎者でござい』と先客に挨拶してから入る。無論、江戸の者であっても『田舎者でござい』と言う。意味は分かっておろうな?」
又吉が厳しく詰問する。
「ああ。田舎者、つまり、垢抜けていない。まだ身体を洗っていないという意味だ」
虎也は生まれも育ちも江戸なので、湯屋での定番の挨拶くらいは理解している。
「しかし、お前は湯屋でその挨拶をして入ったことがあるか?」
又吉がまた厳しく詰問した。
「いや、一度もない。なんか、こっ恥ずかしいし」
虎也は湯屋では無言で先客にちょっと手刀を切るような挨拶をしてから入るのが常であった。
「はああ、だから、駄目なのだ。お前は」
又吉は嘆息しながら首を振り振り、
「江戸は駄洒落の町だ。『郷に入っては郷に従う』。人としては言うに及ばず、忍びの者としての基本ではないか。要するに、お前はその基本すら出来てはおらんのだっ」
ピシャリと言い放った。
「……」
虎也は茫然とした。
忍びの師匠でもある父に基本から否定されてしまった。
さらに、
「お前はいつでも他人事のように冷めた目をしていて、いったい熱意というものがない。熱意とは高い志を持ってこそ湧き上がるものだ。陰謀もまた志なのだ。熱意のない者に人は殺められんっ」
グサリとトドメを刺された。
「……」
もはや虎也は返す言葉もない。
「わしにとって陰謀は人生そのもの。寝ても覚めても陰謀だった。陰謀こそが生き甲斐なのだ」
又吉はうなだれて声を落とした。
日本橋本町で一番大きい薬種問屋の旦那になって、昨年には最年少で薬種問屋の組合長にまで登り詰めた。
又吉はすでに本業ではこれといった野望もなく、陰謀とは無縁の平穏な日々を送っていた。
だが、そろそろ限界であった。
十歳の頃から陰謀と共に生きてきた又吉には陰謀のない日常など退屈で耐えられぬのだ。
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