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鬼のご馳走
しおりを挟むその頃、奥の間では、
「ああ、懐かしや、錦庵の盛り蕎麦。鬼ヶ島ではこの蕎麦を食べられんのだけが不満だったのさ」
草之介は十枚重ねの蕎麦に嬉しげに目を細めた。
「おやまあ、蕎麦を食べられんのだけが不満とはなあ。鬼ヶ島ではずいぶんと結構なもてなしを受けたと見えるわなあ?」
お葉は呆れ顔して言ってから草之介をちょっと睨み付けた。
行方知れずになった草之介の身を案じて足を擦り剥きながら痛みを堪えてお百度参りまでしたというのに当の草之介は鬼ヶ島で楽しく過ごしていたのだから、いい気なものだ。
「なあ、兄さん?鬼ヶ島はどんなところなんだえ?やっぱり、鬼は牛頭馬頭なのかえ?」
お花はお葉の前に三枚重ねの蕎麦を置くと草之介のほうへ向き直る。
「いや、鬼ヶ島ではそういう鬼は見なかったな。赤本の絵のような赤鬼と青鬼さ。赤鬼は火の鬼で、青鬼は水の鬼なんだ。この二人が作ってくれる鬼料理はどれもこれも珍しく、実に美味かったなあ」
草之介はその絶品の味わいを思い出し、うっとりとした表情で目を閉じた。
「鬼料理っ?」
サギは叫ぶや否や、廊下からバッと草之介の目の前に飛び出し、
「ど、どんな料理ぢゃっ?赤鬼と青鬼の料理はどんな料理なんぢゃっ?」
興奮気味に草之介の襟元を掴んでブンブンと揺さぶった。
「うわわわわ――」
草之介は無抵抗にされるがまま。
近頃ではカスティラよりも重いものなど持ったことのない草之介は腕力ではサギにも劣る。
だが、この時代に江戸でモテた男子は草之介のような美男でほっそりした優男なのだ。
女子は男勝りの荒っぽい伝法がモテたので優男とちょうど良い相性だったのかも知れない。
「まあこれ、サギ、手をお放し」
お葉が慌ててサギを草之介から引き剥がす。
草之介はサギとは初対面だというのに印象が悪くなれば二人を添わせたいお葉の思惑がおじゃんになってしまう。
「ああ、たまげた。この子はいったい誰だい?」
草之介は乱れた襟を掻き合わせてホッと一息吐くと改めてサギを見返した。
「……」
サギは目を爛々と輝かせて草之介を見ている。
(鬼料理、鬼料理)
サギの頭の中は鬼料理のことでいっぱいなのだ。
「おや?いきなり飛び掛かってきた時は猿がしゃべったかと思ったが、よくよく見ると綺麗な子だ。新しく雇った奉公人かい?」
草之介はお葉のサギへ対する口調から奉公人と察した。
それに桔梗屋はお葉の独断で器量良しの奉公人しか雇わぬからだ。
「あっ、そうぢゃっ。わしは菓子職人見習いのサギにござりまする。よろしゅうお頼う申し上げまする」
サギは自分が桔梗屋の奉公人になったことをハタと思い出し、慌てて草之介にペコンと頭を下げた。
「まあ、サギは奉公人と言うとるけど、わしゃ、うちの子と思うて預かっとるんだえ」
「へえ?いつの間にかそんなことに」
「サギが最初に遊びに来たのはお盆の頃だえ。お前は部屋に引きこもっておったからだわなあ。それからも丸正屋の熊五郎と遊び歩いてばかりおってからに――」
お葉はもう普段の調子で草之介に文句が出る。
「サギは錦庵さんの身内なんだわな」
お花が割り込んで一通りの経緯を話して聞かせた。
「へえ、そういや、先に熊さんが錦庵に郷里から身内の誰だかが江戸へ遊びに来ておると言うとったなあ」
草之介はのんびりとした口調で言った。
どうも草之介は大店の若旦那らしく『暖簾に腕押し』『糠に釘』といった性分のようだ。
小僧の一吉にまで「頼りない若旦那様」と桔梗屋の将来を心配されるほどで相当に頼りないボンクラなのであろう。
「そんなことより鬼料理の話ぢゃあっ」
サギはしつこい。
「まあまあ、わしは腹ペコなんだ。先に蕎麦を食べさせとくれ」
草之介はおっとりと構えて箸と蕎麦猪口を行儀良く手に取った。
「む~ん――」
サギは仕方なく待つことにする。
腹ペコの人の食事を邪魔することは犬畜生にも劣る蛮行だ。
「あたしも腹ペコだわな。サギ、あたし等もあっちで蕎麦を食べてこよう。兄さんは逃げやせんわな」
お花は足早に廊下へ出ていく。
「あ、わしも腹ペコになってきた」
サギの腹がグルグル鳴った。
昼ご飯を一膳だけでおかわりもしていないので余計に腹の虫が騒ぎ出したのだ。
「――あれ?小梅?」
お花とサギが縁側を曲がると、小梅がキョロキョロと辺りを見廻し、縁側を行ったり来たりしている。
この時代の屋敷はどの座敷にも外光が射し込むように細長い棟の組み合わせで庭を囲んでLやコの字の形に建っていることが多い。
桔梗屋はこの四年のうちに建て増し、建て増しで、住まいは細長い棟をHの字に組み合わせて中庭は左右に二つあり、庭に面した縁側はコの字になった広い屋敷だ。
小梅はチラチラと左右の座敷を覗いていた。
「小梅?ご不浄かえ?」
お花が声を掛ける。
「――っ」
小梅はドキッとしたように振り返った。
「うん。ご不浄は縁側の端っこだろうと思ったけど、ここんち広いからさ。迷っちまった」
小梅は漏れそうだと言わんばかりに小さく足踏みしてみせる。
「ご不浄はそっちの端っこだえ」
お花が指を差すと、
「あっ、そっちか。えへっ」
小梅はバタバタと厠へ走っていく。
「あれまあ、半玉はご不浄まで客を案内するって言うとったのになあ?」
「桔梗屋はそこいらの料理茶屋より広いんぢゃな」
お花とサギは怪しむ様子もなくケラケラと笑いながら裏庭に面した座敷へ戻っていった。
「……」
小梅はいったん厠へ入ったが、戸の隙間からお花とサギが縁側の角を曲がったのを認めるとすぐに厠から出てきた。
そして、猫のように足音を忍ばせて、奥の棟に続く縁側を進んでいった。
奥の間では、
「そうそう、今晩は久々に料理茶屋でパアッと賑やかにやるから遅うなるよ。遊び仲間のみんなもずいぶん心配してくれたらしいから、ここはわしが一席設けて大盤振る舞いしなけりゃ冥利が悪いものなあ」
草之介はそう言ってスルスルと蕎麦を啜った。
昨夜に家へ帰ったばかりというのに、もう今晩から遊び歩くつもりだ。
「まあ、そんな贅沢をするのも今日限りにしておくれ。桔梗屋にはもう小判のザクザク出る打出の小槌はのうなったのだから」
お葉は大盤振る舞いと聞いて渋い顔をする。
「しかし、千両箱にはまだ小判がザクザク入っておるだろう?」
草之介は箸を置いて次の間の仏間に振り返る。
コト。
仏間の中から微かに物音が聞こえた。
「誰かおるのか?」
草之介は背後の襖を開いた。
仏間には誰もいない。
縁側の障子が五寸ほど開いている。
「ああ、猫かな?」
草之介はさして気にも留めなかった。
猫はいつでもそこらへんにいるからだ。
この時代は恐ろしい疫病を介する鼠を退治するため『一軒に必ず一匹以上の猫を飼うべし』と幕府が通達をしているほどで猫を飼わぬ家などないに等しい。
桔梗屋にも何匹か猫がいるが放し飼いなので増えたり減ったり、その数もあずかり知らぬこと。
見ると白猫がこちらに尻を向けて悠々と縁側を歩いていく。
草之介はあの白猫が仏間に入り込んでいたのであろうと思った。
「シロ?いや、クモ?いや、トーフかな?」
猫の名もハッキリせぬが草之介は適当に白っぽい名を呼んでみた。
白猫は足を止めて草之介を振り返る。
その時、草之介からは見えぬだけで白猫のいる縁側の下では小梅が縁の下に潜んで隠れていた。
「……」
小梅は草之介が襖を開けるよりも早く仏間から縁側へ滑り出て、縁の下へ潜り込んだのだ。
「猫が千両箱など盗みゃせんわな。それこそ猫に小判だわなあ」
お葉は仏間の戸棚の千両箱を開けて中を改めた。
何事もなくギッシリと詰まった小判が山吹色にピカピカと輝いている。
無論、小梅とても重さが三貫八百匁(約14㎏)もある千両箱を担いで盗み出す気など毛頭なかった。
「おっ母さん」
草之介はニコニコ顔してホイという軽い調子で手を差し出す。
「これっきりだえ?」
お葉は仕方なさそうに吐息して草之介の手のひらに小判一枚をのせた。
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