富羅鳥城の陰謀

薔薇美

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おクキの一念

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「あの声は兄様あにさまぢゃっ」
 
 サギはムッとしてすだれ越しの裏庭を見やった。
 
 我蛇丸が蕎麦せいろが二列に二十五枚ずつ重なった角盆を軽々と肩に担いで台所の水口へ向かってくる。
 
「あれまあ、我蛇丸さんが出前をっ?」
 
 おクキはあたふたと立ち上がって小走りで廊下へ出る。
 
「あっ?おクキどん?わしのおかわり――」
 
 サギは茶椀を持って廊下へ出た。
 
 長い廊下をおクキが台所を素通りして奥へと走っていく。
 
「――?」
 
 サギは訝しげにおクキの背を見送って台所へ行った。
 
 そもそも最初から自分でおかわりをよそいに行けば良かったのだ。
 
 サギが台所の戸口からコソッと中を窺うと、我蛇丸がヒョイと出前の蕎麦を板間へ下ろしている。
 
(ふん――)
 
 サギは我蛇丸の後ろ頭を憎々しげに睨んだ。
 
 隙あらば、まきざっぽうで殴り付けてやりたい。
 
 だが、今のところはアカンベだけで我慢することにした。
 
「んべー」
 
 アカンベしているサギの脇を長い廊下を走ってきたおクキがすり抜けて台所へ入った。
 
「まあ、我蛇丸さんっ」
 
 なんという素早さであろうか。
 
 おクキは奥の自分の女中部屋へ行って一張羅の着物に着替え、櫛を差し、口紅まで塗ってきたのだ。
 
 忍びの者も顔負けの早業だ。
 
(早変わりの術かっ)
 
 サギは舌を巻く。
 

「今さっきシメが店の土間で滑って転んで腰を痛めましてのう」
 
 我蛇丸は諜報活動として不本意ながらおクキと長話をするつもりだ。
 
 出前だけで帰ったらシメに「ガキの使いかえ?」と馬鹿にされてしまうので仕方ない。
 
「まあ、シメさんが転んで――」
 
 おクキはちょっと胸がチクチクとする。
 
 自分が念じたせいでシメが転んでしまったような気になった。
 
(シメが転んで腰を痛めた?)
 
 サギは一瞬、案じる顔付きになったが、
 
(ふん、天罰ぢゃっ)
 
 ここはザマミロと思うことにした。
 
「この度はサギが桔梗屋さんへご面倒をお掛け致し、はなはだ申し訳ないことでござります」
 
 我蛇丸は取り敢えず詫びくらいしか思い付かない。
 
 いったいシメは出前の度におクキと半時あまりも何をしゃべくっていたのか?
 
 我蛇丸には到底、シメの真似は出来やしない。
 
「いいえ、少しも面倒などと。わしゃ、サギさんとはすっかり気が合うて、もう姉と妹のようなものでござりますわいなあ」
 
 おクキはネットリとした笑みで我蛇丸を見つめる。
 
(わし、おクキどんと気が合うたか?)
 
 サギは首を捻った。
 
「ほんにサギさんは気立てが良うて賢うて器量良しで――」
 
 おクキはチヤホヤとサギを褒めそやす。
 
 実際、サギが我が儘なお花の遊び相手をしてくれるおかげでおクキは仕事が減って大助かりなのである。
 
(うんうん、わしは気立てが良うて賢うて器量良しなんぢゃ)
 
 サギは褒め言葉には疑う余地なくご満悦に頷く。
 

「あのう?サギさんの蕎麦は何枚ほどで?」
 
 下女中二人が台所から廊下まで蕎麦を運んできた。
 
「わしゃ、う~ん、五枚ぢゃっ」
 
 サギは遠慮して普段の半分の量を言った。
 
 錦庵の出前は五十枚が上限なので桔梗屋にサギがいるとなると五十枚では足らぬのだ。
 
「ああ、あたしが持っていくわな」
 
 お花はおクキに気を利かせて自分で台所まで蕎麦を取りに来た。
 
 下女中は廊下までで座敷へは上がらぬ決まりなので座敷へ運ぶのは上女中の仕事である。
 
「サギ?おっ母さんとあにさんの蕎麦もあるし、サギも持ってきとくれな」
 
 お花は蕎麦を数えてテキパキと二つの盆に移す。
 
「う、うん~」
 
 サギは後ろ髪を引かれるように台所を振り返る。
 
 朴念仁ぼくねんじんの我蛇丸がおクキと何をしゃべるのかが気になって仕方ない。
 
「ほらっ、人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて何とやらだえ?」
 
 お花がサギに蕎麦の盆を押し付ける。
 
「うん~」
 
 サギはしぶしぶと蕎麦の盆を持ってお花に続いて長い廊下を進んでいった。
 
 
「ささ、どうぞ」
 
 おクキはいそいそと我蛇丸にお茶と粟餅を出す。
 
「では、遠慮なく」
 
 我蛇丸は土間から板間への上がり口に腰を下ろしたもののおクキとの話の種がない。
 
 種がなければ話に花が咲こうはずもない。
 
「ああ、桔梗屋さんはずいぶん人手が多そうにござりまするのう」
 
 我蛇丸は前方の釜戸や水屋のある土間から台所の板間を振り返って下女中が五人も立ち働いているのを見て言った。
 
 昼時なので番頭、手代、若衆、小僧が三交替で食べる給仕をしている。
 
「へえ、この桔梗屋の裏長屋のおかみさん等が下働きに来ておりますわいなあ」
 
 おクキは自分も台所の板間に座り込む。
 
 前述のとおり、この時代の庶民の夫婦はほぼ共働きなので、桔梗屋の下女中は子育ての手が離れた裏長屋のおかみさん等だ。
 
 洗濯、掃除、炊事と働く時分にだけ来て、仕事が済んだら手間賃を貰って裏長屋へ帰っていく。
 
 日銭が稼げるうえに無駄な拘束時間がなく最適な働き方である。
 
 亭主よりも女房のほうが稼ぎのある場合も多かったので江戸はカカア天下だったのだ。
 

「まあ、そんな訳で、奥の仕事のわしはこのとおり暢気のんきにしておりますわいなあ」
 
 おクキは玉虫色に輝く紅の唇でにんまり笑ってからピンと閃いた。
 
(そうだえ。わしゃ明日あすからシメさんの代わりに錦庵へ手伝いに行くわいなあ)
 
 桔梗屋に人手が多いと我蛇丸が言ったのも遠廻しに自分に店の手伝いに来て欲しいというつもりだったのかも知れない。
 
(いや、そうに違いないわいなあ)
 
 おクキはそう深読みし、独り決めした。
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