天空の国

りゅ・りくらむ

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第二章

訳経所

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 それから三日。
 サンシの案内で都のなかで見るべきところははすべて見てしまった。とうとう恐れていたことをサンシは言い出した。
「ニャムサンのようすも見に行かねば。どうでしょう。訳経所に行ってみませんか?」
 断りたい。が、どう考えても、他にやることはないのだ。「見るだけなら」と承諾すると、すぐに訳経所に連れてこられてしまった。
 仮設の建物というには、なかなか立派な伽藍だ。ここで、サンシたち遣唐使節団が持ち帰って隠していた漢訳仏典と、一昨年、天竺からやってきたシャーンタラクシタという僧がもたらした梵語の仏典の翻訳が行われているという。
 新たな寺を建立するために呼ばれたシャーンタラクシタだったが、都の南、ツァンポ川と呼ばれる大河のほとりで始められた工事を伝統派がなにかと妨害するため、落成のめどが立たず、一年で帰国してしまっっていた。王勅をもってしても伝統派の反抗を完全に鎮めるのは至難の業のようだ。
 サンシに案内された大きな部屋では十人の男たちが座って激しく言い争っていた。一番奥にいるニャムサンだけがこちらを向いている。その顔を見てサンシの憂いに得心がいった。ほんの数日で、ニャムサンはげっそりとやつれ、異常にギラつくような光を宿した目の下には濃いクマが出来ている。
 サンシが咳払いをすると、一同は口を止めて、一斉に振り向いた。ギラギラと光る二十の瞳が呂日将を見つめる。場違いな戦場に足を踏み入れたことをヒシヒシと感じ、呂日将は本当に逃げ出したくなった。
 ニャムサンは強張った笑みを浮かべると、一同になにか言い渡して立ちあがり、サンシと呂日将のわきを通り抜けて部屋を出る。サンシとふたりでそれに続いた。建物のなかには小さな部屋がいくもあるようだ。みな泊まり込みで訳経に励んでいるのだろう。その一番奥の部屋の扉を開くと、ニャムサンはふたりを招き入れ、音を立てて扉を閉めた。
「参った」
 寝台に倒れこみながら、ニャムサンはつぶやく。
「また、解釈の議論が始まってしまったのですか」
「ええ、と……」
 言葉を選んでいるニャムサンに、呂日将は言った。
「あの、どうせわたしには理解出来ませんから、ご遠慮なくこの国の言葉でお話ください」
 ニャムサンは薄く微笑んでうなずくと、早口でサンシに説明を始めた。
 所在なく、傍らの机に目を移すと、読みさしの巻物がおかれている。

 一切衆生瞋恚心 蔭蓋障覆愚癡海
 如來無上大慈悲 以神足力度脱之
 於如來身一毛孔 衆生功徳皆悉現
 入深無量功徳海 須彌山幢功徳現

 なんだこれは。呪文か?
 呂日将はめまいがしそうになって、慌てて目を逸らした。
 とても母国語とは思えなかった。そもそも岑参だの高適だのといった流行りの詩も、文字で見ると呂日将にはよく理解出来ないのだから仕方がない。
 ふたりに目を移すと、サンシはなにやらなだめるようにニャムサンに言い聞かせている。ニャムサンはうなずくと目を閉じた。
「申し訳ございません。少しこちらでお待ちください。みなに、今日はもう休むように言うだけですから、すぐに戻ってまいります」
 サンシはそう言うと、静かに出て行った。
「迎えに行けなくて、すまなかった」
 扉が閉まると、眠っていると思ったニャムサンがささやきかけた。目を開き、呂日将を見つめている。先ほどのギラついた光が失われた大きな瞳は痛々しいほど弱って見えた。
「本当にお忙しそうですね。サンシどのも心配されていました」
 ニャムサンはため息をついた。
「人間の争い、どこにでもあるのか?」
 唐突な問いに言いよどむ呂日将の答えを待たず、天井を眺めながらニャムサンは続けた。
「同じ仏典。なのに解釈が違う。自分の信じるほうが正しいと言い始めて、ケンカになる。わたしは争いが嫌いだから、いくさも、まつりごともしない、この仕事を賛普にもらったのに」
「よりよいものを作るためには、議論も必要でしょう」
「そう。仕方がない。ひとが死なないだけマシ」
 小さく息を吐くと、ニャムサンはまた目を閉じ、今度こそかすかな寝息を立て始めた。サンシが戻ってくるまで、その顔を呂日将は見つめていた。
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