天空の国

りゅ・りくらむ

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プロローグ

まずはニャムサンとゲルシクのいつものやり取りから……

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――辰の年(七六四)四月

「日がな一日、死ぬほど馬を走らせて、なぁにが楽しいのかねぇ」
 透きとおった瑠璃色の空の下に広がる茶色い大地のまんなかで、軍監のナナム・ゲルニェン・ニャムサンが間のびした声をあげる。
 バカじゃないの?
 口にはしなかったが、ニャムサンはそう言いたげな顔をしていた。
 目の前では三千騎の精鋭騎馬隊が、敵味方に分かれて擬似戦闘を行っている。地べたに腰をおろして両足を投げ出したニャムサンは、風向きが変わるたびに漂って来る土煙にときおり顔をしかめながら、これ以上ないと言うほどだらけきった表情でそれを眺めていた。
「こんなんじゃ、夕方には泥人形みたいになっちまう。まったく、ナツォクの言いつけじゃなかったら、とぉぉっくに帰ってるぜ」
「これこれ、いつまでも陛下をご幼名でお呼びするんじゃない」
 ニャムサンの隣で胡床にかける東方の元帥チム・ゲルシク・シュテンは咎めるが、どうしても厳しい声を出すことが出来ない。
「へーい、へい」
 ニャムサンが幾重にも巻いた玉石の腕輪や首飾りをジャラジャラ鳴らして豪奢な錦の袍についた砂を払いながら適当な返答をしても、ゲルシクは少しも不愉快には思わなかった。
「退屈なら参加してはいかがかな。案外、面白く感じるかもしれんぞ」
 念入りに整えられた爪に土が入ったのか、ニャムサンは指先を見て眉をしかめる。
「やだよ。第一に、馬を酷使したくない。第二に、ひとに命令するのは嫌いだ」
「第三に、そもそもいくさは大嫌いだ、でござろう」
「わかってんじゃねぇか」
「長い付き合いでござるからなぁ」
 ニャムサンが、ふっとゲルシクの顔を見あげた。揺れて、陽光を跳ね返した金の耳飾りが、ゲルシクの目をくらませる。
「なんだよ、おっさん。ニヤニヤして気持ち悪いな。いつもなら『男らしくないことを申すな』とか説教するくせに」
「嬉しいからに決まっているではないか。やっと調練を見に来てくれたのだ」
 ニャムサンはムスッとした顔をする。
「あのね、オレは来たくて来たんじゃないの。ナツォ……じゃなかった、ツェンポが行けって言うからしようがなく来たんだ」
「おい、検分っていうのはおしゃべりすることじゃないだろ。ちゃんと仕事しろよ」
 頭上から降ってきた声に振り仰ぐと、馬に乗ったチム・トンツェンがニャムサンを見下ろして白い歯を見せていた。
「うるさいな。あんたはあんたの仕事をちゃんとしろよ。怠けてるって報告しちゃうぜ」
 トンツェンは顔をしかめる。猛将の名に違わぬ兇暴な顔つきとなったが、ニャムサンのだらけた表情は変わらない。
「オレが吐くほど調練に励んでいるのが目に入らないのか。ちゃんとオレさまの雄姿を陛下に報告してくれよな」
「あれ、やらないで怠けてるじゃないか」
 ニャムサンは激しくぶつかりあう騎馬隊を顎で示した。
「人聞きの悪いことを言うな。こうやって、離れたところから見るのも勉強なんだよ。おまえもちょっとは軍の指揮をしてみろ。オレの偉さがよくわかるぞ」
「そんなもの、知りたくもない」
「かわいくねぇな」
 トンツェンは馬首を返した。
「あっ、あのさ」
 いきなりニャムサンが立ち上がった。トンツェンは顔だけで振り返る。
「なんだよ」
「小父さんを呼んできてよ」
「ルコンどのを? なんで?」
「こんなことしている時間がもったいない。唐語を教えてほしいんだ」
「そこにいるんだから自分で行けば。ぶっとばされるのがオチだけどな」
 トンツェンは駆け回る騎馬隊を指差した。ここからはルコンの姿は確認できないが、大将旗のもとで指揮をしているはずだ。
「ぶっとばされたくないからあんたに頼んでるんじゃないか」
「それがひとにものを頼む態度かよ。『シャン・トンツェン将軍さま、なにとぞよろしくお伝えください』って這いつくばってお願いしたら、伝えてやる」
「そんなことするわけないだろ、バカ」
「そんなことも出来ないからおまえはムダに敵を増やすんだよ、バカ。夜まで我慢しな」
 トンツェンが鼻を鳴らして駆け去ると、ニャムサンはドサリと腰をおろした。
「夜は夜で、どこが良かった、悪かったって、ふたりでどうしようもない話ばっかりしてるじゃないか」
 その不貞腐れた顔を見て、ゲルシクはため息をついてしまった。
「なんだよ、おっさん」
「なんでふたりともいつまでも子どものようなんだ。情けない」
「一緒にしないでよ、あっちのほうが四つも上なんだから。だいいち、トンツェンはおっさんの教育が悪いんでしょ」
 ニャムサンの言うとおりだ。ニャムサンは二十六でトンツェンは三十。そのトンツェンを子どものころから将となるべく育てて来たのはゲルシクだった。期待通り、トンツェンは十代の半ばで初陣を迎えてから数々の戦場で功績を挙げ続け、いまでは国で一、二を争う優秀な将軍となってくれた。しかしいつまでたっても大人になり切れないところがある。そこがまた、かわいく見えるのだが。
「オレがこうなっちゃったのは、誰もかまってくれなかったからだけどさ」
 つぶやくように付け加えられたニャムサンの言葉に、ゲルシクはしんみりとする。
 ニャムサンは生まれてすぐ父母を亡くし、一族から厄介者扱いされながら寂しい子供時代を過ごしたと聞いている。知っていたら無理矢理にでも彼の伯父から引き取って、トンツェンとともに育てたのに。なれば、ニャムサンも立派な将軍となっていただろう。それが、いまでは軍事も政治も嫌って、仏典の翻訳官という仕事についている。もちろん、それも王の肝いりの大切な事業だ。わかってはいるものの、良家に生まれ、頭の回転が速く、度胸もある彼には役不足の感がぬぐえなかった。
 そんなゲルシクの感傷を横に、ニャムサンは文句を言い続けた。
「ていうか、なんでトンツェンがいるんだよ。自分の兵を放って管轄外のことに首を突っ込んでいいのか」
「いいから陛下がお許しになられたのだ。トンツェンも唐の軽騎兵を間近で見て、思うところがあったのだろう。あれからルコンどのから熱心に騎馬の戦いを学んでいる」
「知ってるよ。いまどうしているかわからない、なんとかってひとに負けたからだろ」
「呂日将だよ。それに、負けたのは最初の一回だけだ」
「二回目に勝てたのは小父さんのおかげだし、三回目は引き分けだろ。おっさんとトンツェンだけだったら逃げ帰ってたんじゃないか?」
 からかうような物言いに、ゲルシクは鼻息を荒くしてしまった。
「夜襲を仕掛けて来たのだ。卑怯者め」
「相手の何十倍も兵隊がいたのに言い訳すんなよ。だけど、どうしてなにをしているのかわからないのさ。敵をたくさん討ち取ったら出世するもんだろ。唐では違うのか?」
唐主ギャジェがどうしようもない愚か者なんだろう」
「うわあ、ナツォクがまともなヤツでよかったな、おっさん」
「ヤツとはなんだ、ヤツとは。ご幼名でお呼びするのもやめよ」
「ハイハイ、ティソン・デツェン王陛下がご立派なガキであらせられてよかったですね」
「コラッ、いい加減にせよ」
 それからしばらく、ニャムサンは無言で駆ける騎馬兵を眺めていたが、かたわらの草をちぎって口にくわえると、スッと立ち上がって尻についた土を両手でバンバンと払った。
「お、参加する気になられたか」
「ちょっと歩兵のほうを見に行って来まーす」
 従者のタクを呼ぶと、草笛を吹きながら歩き出す。
「おい。歩兵はそっちじゃないぞ」
 思わぬ方角へ足を向けたニャムサンにゲルシクは呼びかけたが、彼はピーピーと音を立てながら行ってしまった。だんだんと小さくなる二つの背中を見送りながら、ひとり残されたゲルシクは、先ほどよりも大きなため息をひとつついて、光る青空を仰いだ。
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