天空の国

りゅ・りくらむ

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第一章

馬重英

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――広徳元(七六三)年 十月

 配下を叱咤しながら坂の上から見おろす渭北行営兵馬使呂日将の視線の先に、山と河に挟まれた隘路をぎっしりと埋めたひとが黒い波を作っている。
 鎮西節度使馬璘と示し合わせ、鳳翔から大震関に通じる道で、撤退する途上の吐蕃トゥボ殿しんがりを待ち受け、挟み撃ちにした。敵の背後をふさいだ馬璘の兵二千と、行く手をふさいだ呂日将の兵五百は、吐蕃の歩兵たちを確実にすり減らしていく。吐蕃兵たちは恐慌をきたし、斜面を登って逃れようとする者は弓矢の餌食となって転がり落ち、川へ活路を見出そうとする者は急流にのまれて溺れていった。が、中核の兵はまだまとまっている。
 そのなかほどに、騎馬隊と真紅の旗が見えた。あそこに吐蕃の総大将馬重英がいるのだ。
 その旗が翻るたびに、胸が激しく騒ぐ。
 勝ちは見えている。が、そんなことはどうでもいい。
 あの首を、この手でとる。
 それだけを思い定めて、ここに来たのだ。
 しかし、血しぶきを浴びながら、斬っても斬っても、呂日将と馬重英の旗の距離はなかなか縮まらなかった。
 焦れた呂日将は思わず、吠える。
「馬重英!」
 狂騒のなかにひときわ高く、こだまとなって谷間に響いた声に、旗のもとにいる騎乗の男が、伸びあがってこちらに顔を向けた。
 あれか。
「馬重英、出てきて勝負せよ!」
 腹の底から叫んだ。遠目に、その表情はわからない。なのに、呂日将の脳裏には苦笑いを浮かべた、分別くさい痩せた中年男の顔が浮かんだ。
 ――懲りないヤツだ。
 そんな声すら聞こえた気がする。
 ガキ扱いしやがって!
 自分の作り出した妄想に屈辱を感じて、カッと身体が熱くなった。
 来い!
 念じながら、戟を力いっぱい握りしめる。
 目にはもうその男しか見えなかった。
 陽光を受けて煌めく男の太刀がヒラリと頭上を舞い、天を指す。彼の周りの騎馬隊が隊列を整え、いっせいにこちらを向いた。
 来る!
 熱気で、全身にフワリと浮かび上がるような快感が押し寄せる。
 部下たちに号令をかけようと、息を吸い込み口を開けた。
 ドドドドッ
 地響きが背後から圧し掛かって来た。驚いた馬が飛び上がって急転回する。呂日将はその首にしがみついて、かろうじて振り落とされずにすんだ。
「どうした!」
 問いに答える者はいない。横に展開しているはずの配下の乗った馬が混乱をきたし、土煙のなかをちりぢりに逃げ惑っている。それまで彼らがいた場所に、紺地に獅子の描かれた見慣れぬ旗が翻っていた。
 吐蕃に背後を突かれたのだ。
 斥候を出し、伏兵のないことを確認していたはずなのに?
 頭の中が真っ白になる。
 突然、馬が呂日将の意志に関係なく横に跳ねた。輝く刃が兜をかすめる。
「クソッ!」
 怒鳴りながら、脇をすり抜け坂を駆け登った男に向けて戟を振った。
 男が振り返る。
 その鼻先で、切っ先が空を切った。
 体勢を整えぬまま振った戟の重さに耐えられず、身体が開く。
 ふところに、男が飛び込んで来た。
 覚悟を決める間もなく、衝撃が右手を襲う。
 一瞬、目を閉じる。
 痺れた手から戟が離れた。
 気づくと、あれほど再会を待ち望んでいた馬重英の顔が目の前にあった。
 喉もとに太刀の切っ先が突きつけられている。
 呂日将に目を据えたまま、馬重英が吐蕃の言葉でなにかを叫ぶと、背後を突いた兵たちは、坂を駈け降りて行った。入れ替わるように、馬重英が率いて来た騎馬兵たちに囲まれるのを感じる。喧騒が遠ざかり、馬重英のよどみのない唐語の一言一句が、はっきりと聞こえた。
「五千以上の兵が失われたようだ。これにてわれらを追い払ったと報告すれば、貴公らの面目は保たれるであろう。このあたりで兵を退かれたほうがお互いのためではござらぬか」
 それではダメなのだ。
「そなたの首をとらずに帰るわけにはいかない」
「わたしの首をとったら無事に帰ることは出来ぬ」
 取り囲む吐蕃の騎兵から発される殺気に、身体中がヒリヒリと痛む。だが、退けない。退けばこのさき一生、この男の悪夢にさいなまれることになるだろう。
「そなたの首をとらねばわたしの面子が立たぬ」
「愚か者。国のため、唐主のためにこの首が必要だと言うのなら、くれてやってもいいが、そのような私利私欲のやからには、やる気にならんな」
「私利私欲だと?」
 思わぬ言葉に声が裏返る。呂日将を憐れむように、馬重英は続けた。
「そうではないか。貴公のような若い人材は国の宝だ。それなのに、ただ自分の面子を保つためだけに無駄にその宝を使おうなどと、私利私欲以外のなにものでもない」
 頭に血が昇った。どうして敵将に説教されねばならぬのだ。
「あれをご覧なされ」
 突き付けられていた太刀先が喉もとからはずれ、呂日将の背後を指す。
「あの将軍のいのちまで無駄遣いするおつもりかな」
 その言葉につられて振り向いた。挟み撃ちに逃げ惑っていた吐蕃の兵たちは落ち着きを取り戻し、背後の馬璘の軍に殺到している。震えが、背筋を突き抜けて行った。
 自分のせいで、あの名将が死ぬのか。
「いやはや、噂には聞いていたが恐ろしい勇将にござるな。だが衆寡敵せず。あのままでは勝ち目はござらん。さぞや節度使を憎む朝廷の宦官どもは喜ぶことであろう。しかしここで退けば勝利の報告をすることが出来る。どちらがよいか、考えてみよ」
「馬将軍は、わたしにそなたの首をとらせるために戦ってくださったのだ。そなたに説得されたから退こうなどとは言えぬ」
 呂日将の声はつぶやきになっていた。
「なるほど、しかし困ったな。確かに、時間をかければあの将軍を討ち取ることは出来ようが、こちらもこれ以上、兵を失いたくはない。この首で退いていただけるなら差しあげよう。数百の兵が助かるのなら、安いものだな」
 ふたたび馬重英に目を向けると、彼は微笑んだまま、周囲の兵たちになにかを告げた。兵らは囲みを解き、背後に駆け去って行く。
 ふたりきりになる。
 呂日将の戸惑いをよそに、馬重英は太刀を鞘に収めて馬を降りた。そのままスッと馬の足元にかがみ込んで、すぐに立ち上がる。二、三度、拾ったものを振ると馬重英はそれを目の前に差し出した。先ほどたたき落された、自分の戟の柄だ。
「貴公のために道を開けるよう申し伝えたのだ。さあ、お好きにされよ」
 殺してやりたい。この男のために、これまで千を超える部下を失っているのだ。呂日将は恨みを込めて馬重英をにらむ。彼は目元に微笑みを湛えたまま、呂日将の戟の柄を差し出していた。
 腹の底から悔しさがこみあげて来て、涙になる。
 呂日将は馬重英から戟をひったくった。
 馬重英は動かない。
 そのまま戟を振れば、望み通り彼の首をとることが出来る。
 だが、出来なかった。いま、言うなりに殺してしまっては、彼に負けたままで終わってしまう。
「くそっ。哀れみで差し出されたものが受け取れるか! 次に会ったときには、必ずこの手で勝利とそなたの首をもぎとってやる」
 馬を返すと、馬璘のもとに疾走った。
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