王子の苦悩

忍野木しか

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第四章

揺れる影

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 絶叫が、薄い手のひらを抜けて鼓膜を震わせる。パチ、パチ、と火の爆ぜる音が薄い皮膚を叩く。
 いったいどうしてこんな事になったのだろう──。
 脂の焼ける臭いが、煙が、潮風に溶け込でいく。もう何も聞きたくない、と三原麗奈は耳を塞ぎ続けた。
 いったい何が悪かったのだろう──。
 少年の声が空を彷徨う。少年の視線が地面を這いずる。
 自分だろうか──。彼女だろうか──。あの人だろうか──。
 三原麗奈はそっと目を開いた。
 いったいどうすればいいのだろう──。
 ブリキ缶の炎に影が揺れる。それはまるで泣き叫ぶ幼子のようだった。
 いったい何をしてあげられるのだろう──。


 山を揺がすような怒声が廃工場の中に響いてくる。それが女の声でないことは見ずとも分かる。
 吉田障子は頭を掻くと、黒い煙を上げる男の手から鉄の棒を離した。
「どういうことだッ! ゴラッ!」
 早瀬竜司の怒声が木工所跡のトタン屋根を揺らした。“苦獰天”のメンバーたちが反射的に背筋を伸ばすと、まさに暴走族らしい反応だと、鉄の棒をブリキ缶に落とした吉田障子は感心したように肩をすくめた。見張りの男たちがシャッターの真下に倒れる。小枝の散らばった出入り口に薄い影が伸びる。早瀬竜司の剥き出しの歯が現れると、“苦獰天”のメンバーたちは直立不動の状態で顔を伏せた。
「んだよ、こりゃあ」
 廃工場を見渡した早瀬竜司は唖然としたように口を丸くした。
 天井に消えていく煙。赤い光がゆらゆらと陰惨な拷問の現場を照らしている。数十名からなる“苦獰天”のメンバーたちは一様に顔を伏せ、その中にチラホラと知らない顔が目に映る。パチ、パチ、と火の爆ぜるブリキ缶の前で下着姿の三人の男女が膝を付いており、その顔に被された黒い布が、いつかの絵本で見たような中世の悪魔召喚の儀さながらの陰鬱な雰囲気を醸し出している。
 束の間言葉を失い立ち尽くしていた早瀬竜司は、すぐにまた歯を剥き出しにすると、黒い布を被せられた三人の後ろで神妙に頭を下げた吉田障子の、さらに後ろのテーブルに向かって声を唸らせた。
「おいぃ、いったいこりゃあどういうことだ?」
「りゅ、竜司くん、コイツらは心霊学会の奴らで、俺たちは……」
「テメェには聞いてねぇよクソガキ! 俺ぁキザキ、テメェに聞いてんだ!」
 早瀬竜司は、おろおろとした態度で状況説明しようとする吉田障子の言葉を遮ると、廃工場の入り口を正面に見据えたキザキに向かって低い声を飛ばした。キザキはといえば乾いた唇を開こうとせず、腫れぼったい瞼を下げようともしない。早瀬竜司が獲物を前にした虎のように腰を屈めると、その後に続くようにして現れた男の長い腕で、ブラック&グレーの髑髏のタトゥーがブリキ缶の炎に微笑んだ。
「悪いが、警察に通報させてもらった」
「嘘だ」
 その声はあまりにも速かった。騒めきが波のように遅れて廃工場に広がっていく。吉田障子がまた「嘘だ」と声を流すと、まるでそれが逆位相の音であるかのように騒めきが静まっていった。
 清水狂介は瞬時に理解した。やはりあの毛色の違う少年こそが黒幕だと。ブリキ缶に揺れる赤い光が幾つもの影をトタンの壁に伸ばしている。出入り口とブリキ缶とテーブルは廃工場の中央を直線に等間隔となっており、テーブルから炎を見据える陰気な男こそが、あたかもこの集団のリーダーであるかのようだった。おそらくはあのテーブルの男こそがキザキで、そしてそのキザキは少年の単なる操り人形に過ぎないのだろうと、そんな事を考えながら、清水狂介はスマホを耳にかざした。
「嘘ではない」
「天然かよ。もう通報したってんなら、スマホを出す必要はねぇだろ」
「何度でも通報してやろう」
「はは、そうかよ、ならやってみろ。お前らもただじゃ済まないけどな」
 赤い火に照らされた少年の表情に動揺はない。先ほどから連絡のつかない長谷部幸平にコールしていた清水狂介は無言で腕を下ろすと、また廃工場を見渡した。少年の元に集まったメンバーはおよそ二十人ほどで、かつての“火龍炎”のメンバーが数名、顔を伏せている。テーブルの左右に座らされた二人の学生と、ブリキ缶の前で黒い布を被せられた三人の男女は獲物といったところか。二人で来たのは失敗だったな、とスマホをポケットに仕舞った狂介は腕を組み、逃げるべきか否かをじっと考えた。
 通常ならば一目散にバイクを轟かせたであろう。ただ、この現場は通常には当て嵌まらない。警察には通報できない現状において、それでも現場の目撃者である自分が逃走すれば、確かなダメージを集団に与えられるかもしれない。だが、警察に通報してみろという少年の態度がどうにもハッタリには見えず、むしろ警察に通報してくれと懇願しているようにさえ思えた。ここまで大それた行動を起こす少年の真意は安易に掴めない。自分の逃走がこの集団に確かな動揺を与えてしまうというのであれば、それはむしろ避けるべきだろう。そう頷いた狂介はぐっと背筋を伸ばし、そうして唐突に前に駆け出した。同時に、早瀬竜司の足が木屑を後ろに蹴り飛ばす。
「二人をキザキさんに近付けんな!」
 吉田障子の怒鳴り声に、正面で立ち竦んでいた赤髪の男がはっと顔を上げた。だが、拳を構える間も無く、清水狂介の掌底が彼の顎を打ち抜く。早瀬竜司はといえば目にも止まらぬ速さで、布を被せられた三人を飛び越え吉田障子の横を抜けると、足の不揃いなテーブルの上に飛び乗った。
「おいぃキザキぃ、テメェ、どういうつもりだ」
 早瀬竜司の歯が野獣のように剥き出しになる。テーブルの左に座っていた倉山仁は完全に恐怖に支配されてしまい、テーブルを囲むようにして立っていた“苦獰天”のメンバーたちもオロオロと首を動かすばかりだ。ただ、腫れぼったい目を退屈そうに見開いたキザキは普段通りの表情で、頬と目元に青い傷を付けた三原麗奈もまた、その瞳にプロキオンの白光を浮かばせていた。
「待ってくれ竜司くん、これは本当に作戦の一環なんだ」
「黙ってろクソガキ! テメェも後でぶっ殺してっ……」
 早瀬竜司は咄嗟に腕を上げた。眼前に迫り来る影を見たのだ。金属バットがしなやか彼の体をテーブルの下に叩き落とすと、周囲にいた者たちは慌てて頭を下げた。
「くっ……」
 衝撃が両腕を突き抜けて頭を揺らす。それでも早瀬竜司はネックスプリングで素早く体制を立て直すと、じんわりと痛みが広がっていく腕を前に構えようとした。そしてすぐに腰を落とす。金属バットを横に構えた小森仁には一切の躊躇がなかった。
 細い影が頭上を過ぎると、竜司は床を蹴り、小森仁の腰にタックルした。
「テメェ、死にてぇらしいな」
 マウントを取った竜司はそう声を唸らせると、拳を握り締めた。だが、腕が上がらない。単に痺れているだけか、もしくは折れてしまっているのか。竜司は「くっ」と喉を鳴らすと、腰の下でもがく小森仁の鼻に頭突きをかました。使えない腕で小森仁の首を押さえ、二度、三度と頭を振り下ろす。
 脇腹に衝撃が走る。一瞬呼吸が止まった竜司は床に倒れされてしまうも、すぐに体制を立て直すと、自分を見下ろす複数の目を睨み返した。
「テメェらまとめてぶっ殺してやる!」
 頬に蹴りが入れられる。竜司は呻くも、それでも視線は下げない。みぞおちを衝撃が貫く。竜司は軽く舌を出してみせた。蹴りが、拳が、竜司の体をボロ雑巾のように叩き潰していく。それでも竜司は体制を崩さなかった。口回りに血を滴らせた小森仁の金属バットを振り上げると、流石にこれは不味いと、竜司は動かない腕をなんとか頭上に構えた。肉が凹むような鈍い音と共に視界がブレる。竜司は膝をつくも、それでも怒りに目をギラつかせながら、赤く染まった歯を剥き出しにした。だが、小森仁は一切の動揺を見せない。金属バットが再び振り上げられると、竜司は観念したように、深く息を吐いた。
 黒い影が視界を覆う。死んだか、と竜司はやっと体の力を抜いた。衝撃はなかった。骨が砕かれた感触もない。ただ、何やら柔らかく、温かい。鼻をくすぐる甘く芳しい香りは慣れ親しんだもので、竜司はそっと顔を動かした。アッシュブラウンの髪が赤い炎に靡く。頬に青い痣を作った女はそれでも美しい表情で、その瞳には優しげな光が浮かんでいた。


 六つの影が揺れる。揺れる。
 朝には長い、昼には黒い、夜には薄い影が揺れる。
 朝日が、斜陽が、月明かりが影を揺らす。
 しんしんと永遠の静寂の中にある夜の校舎はいつまでも代わり映えしない。刻々と進んでは遡る景色の移り変わりに夜の校舎はいつも違った装いを見せる。
 時折、声が落ちた。
「何故、戻った」と男の影が横に揺れる。
「あなたと一緒にいたいから」
 中間ツグミはそう微笑んだ。
 また、静寂が校舎を包む。
 時間の感覚がない。光は時間を示さない。ふと思い出す景色のように、現れては消える夜に規則性はない。
 死はいつまでも迫ってこなかった。永遠の記憶の中を影たちは彷徨い続けた。
 右足が引き摺られる。血が淡々と校舎に道を作っていく。
 睦月花子は静寂に意識を集中させていた。危険が迫っていないかと彼女は警戒を怠らない。肉の弾けた右足は使い物にならず、炎に包まれた肌は赤黒く照り、両眼に開いた穴は未だに馴染まない。それでも彼女は本能を失わなかった。その鋼の心が壊れることはなかった。
 微かな吐息が頬を掠める。もはや自力では立ち上がることもできない花子はそれでも木崎隆明の骨張った肩に支えられながら歩みを止めなかった。何故、戻った、とは問わない。そういう奴だと、彼女は彼の存在を認めていた。
「いいや、気まぐれだ」
 木崎隆明は首を横に振った。
「退屈な世界に飽き飽きしたんだ」
「はあん?」
「ただ何となく戻った。俺は自分勝手で、気まぐれで、他の奴がどうなろうとかまわない。だから友達が死んでも何も思わなかったし、でも他人の行動はいちいち目で追ってしまう。俺はそういう人間なんだ」
「いいじゃない、私は好きよ、そういう自分に正直な男」
 木崎は腫れぼったい目を丸めた。そうして笑ってしまう。まるで自分とは対極にあるような言葉を被せられ、それが何故だかとても可笑しかった。
 互いが互いに支え合う影もあった。睦月花子と荻野新平に比べて、八田英一の傷は浅かった。ほんの僅かな火傷と、脇腹を掠めただけの銃痕。彼に肩を支えられた大野木詩織もまた右腕の無い状態には慣れてしまっているようで、時折、彼を支える側となった。
「大丈夫かい」
 誰に投げかけたわけでもない声が落ちる。
 八田英一はいつまでも皆を心配し続けた。その声はすぐ側にいる者の心を撃ち、大野木詩織は涙を止めることが出来なかった。
「わ、わ、わた、私、私……」
 いつ以来の声だろうか。八田英一は驚いて視線を動かした。
「詩織さん?」
「わた、わ、私……」
「詩織さん詩織さん、大丈夫、大丈夫だよ。少し休もうか」
「ち、違い、ます……。私、わ、たし……」
「大丈夫、大丈夫」
 声が落ちる。影が止まる。
 静寂が涙に濡れると、そっと横に揺れた影に、声が包まれていった。
 揺れる。落ちる。影。
「私、わ、私が……」
「詩織さん?」
「私が妹を殺したんです」
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