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第二章
開演のベル
しおりを挟む日曜日の朝は涼しかった。夜通し続いた雨は既に止んでおり、晴れやかな太陽を見上げる草花の露が東の空を青々と反射させていた。
三原麗奈は窓を開けた。まだ静かな街の風が桃色の部屋に流れ込む。胸いっぱいに朝の空気を吸い込んだ麗奈は溢れ出る活力に手足の疼きが抑えられない様子だった。人生の憂いは何処へやら、テストの結果など何処吹く風、いったい今日は何をしてやろうかと、麗奈は遠くの山々に目を細めた。
「お姉ちゃん、おはよー」
三原千夏に声が部屋の外から響いてくる。普段から早起きの千夏らしく、部屋の中を覗き込んだ彼女の黒髪はさらりと滑らかだった。「おはよー」と麗奈が微笑みを返すと、千夏は驚いたように栗色の瞳をくるりと丸めてしまう。
「お姉ちゃん、何かいい事でもあったの?」
「ううん、嫌なことばっかりだよ」
「へー、でも機嫌は良さそうだね」
「うん、もうすぐ夏休みだからかも」
何気なく呟いた言葉だった。だが、麗奈は思わず自分の言葉に胸を躍らせてしまう。それは不思議な感覚だった。吉田障子だった頃は夏休みに対して特別な感情など抱いた事がなかったのだ。むしろ彼女にとっては家で過ごす時間が苦痛であり、夏休みが憂鬱だとさえ感じていた。
「そうだった! お姉ちゃん、もうすぐ夏休みだよ!」
千夏の瞳に夏空の青い光が瞬く。
「もー、テストが嫌過ぎて忘れてたよ!」
花が咲くような笑顔である。千夏の言葉に先週のテストを思い出しそうになった麗奈の頬が若干引き攣った。
「いひひ、わーい、夏休みだ」
「うん、千夏ちゃんは夏休みの予定とかあるの?」
「うーん、玲華ちゃんと海に行く予定はあるかな」
「千夏ちゃんって姫宮さんと仲良かったんだ」
「同じクラスだもん。玲華ちゃんね、バトミントンが強いんだよ!」
「へー」
「お姉ちゃんは何か予定あるの?」
「特にないよ。だから、どうしようかなって悩んでるの。まぁ、先ずは今日の予定だけど……」
そう青空を見上げた麗奈の脳裏に田中太郎の端正な顔が浮かび上がる。花子さんに頼んで田中くんと遊べないだろうか、と澄み切った夜空に打ち上がる花火の美しさを妄想した麗奈は頭を振った。自分は男なのだと、そんな事実さえも忘れそうになってしまう今日この頃。男だった頃の感情を忘れてしまった麗奈は、男だった頃の記憶を頼りに、夏休みの予定を頭の中で組み立て始めた。
「予定がないんなら、演劇部に顔出せばいいんじゃないかな」
「へ?」
「お姉ちゃんって一応は部長なんだし、あたしも部活には行かなきゃならないし。今日も部活だけど、お姉ちゃん、今日の予定がないなら一緒に部活行こうよ!」
今日は図書館に行こう。
そう決心した麗奈は勉強机に散らばったノートに視線を送った。一夜漬けの為に開かれた参考書の数々。テストを思い出して顔を顰めた麗奈は、それでも部活よりはマシだろうと、千夏の存在を無視して机の上に手を伸ばした。その時、ふと、麗奈の視界の端にホッチキスでまとめられた白い紙の束が映る。表紙には「屋根の上の城」という題名らしきものが書かれてあり、それをパラパラと捲り上げた麗奈は首を横に倒した。
「夏の舞台の台本だよ。お姉ちゃんが書いたのに、まさか忘れちゃったの?」
「う、うーん……」
麗奈は先日の出来事を思い出していた。吉田障子が見せた自然な笑み。部活に集中しろと言った彼の言葉は、もしかすると三原麗奈本人の言葉だったのかもしれない。
「えっと、忘れちゃったかも……」
「ええっ」
千夏は本当にショックを受けているようだった。麗奈は「えへへ」と照れ笑いを浮かべてみせる。
「ねぇ千夏ちゃん、ちょっと聞いてもいいかな」
「う、うん」
「これの内容なんだけどね──」
麗奈の体は活力にみなぎっていた。その心はいつになく安定している。
ちょっとだけなら、部活に集中してみるのもいいかも知れない。そう楽観的に考えた麗奈は、夏の舞台の為に書かれたという台本を読み進めていった。
吉田障子は日暮れを待っていた。
“苦露蛆蚓”のリーダー、山田春雄の黒のワゴン車にはペンキの匂いが充満しており、吉田障子とキザキを合わせた五人が乗り込んだ車内は冷房が効いているにも関わらず蒸し暑かった。
日曜日の夕刻である。吉田障子が連れて来た役者は二人だけだった。他の四人はまだ演技が甘く、対象者から妙な怪しまれ方をする可能性があると判断した為に連れて来なかったのだ。ナナフシのように細身の男と、メガネを掛けた小柄な男。どちらも老け顔であり、ほんの少し地味な衣装を着させれば見た目は完璧であった。なんて事はない、対象者から子供に見られなければ良いだけの話なのだ。
「本当に大丈夫なのか?」
運転席に座っていた山田春雄は辺りを見渡した。不安だったのだ。開演の話は聞いていた。だが、春雄はそれを理解出来ないでいた。知識が無かったからではない、それをする意味が分からなかったのだ。
「大丈夫だって」
そう吉田障子は不敵に笑った。失敗に終わろうとも構わないと吉田障子に不安はなかった。まだ幕は上がっていないのだ。
「ターゲットの素性は既に調べてある。あいつらに知識はないから大丈夫さ」
「念入りな奴だな」
キザキも笑った。喫茶店で吉田障子が提示した十三枚の写真を思い出したのだ。その写真の内の十二人には、確かにこれから行われる演技への知識は備わってないように思えた。いや、たとえ知識があったとしても何ら問題は無いだろう。彼らはまだ学生なのだから。
吉田障子は溝川を挟んだ向こう側の道を眺めていた。そこは通学路であり、そろそろ部活を終えたターゲットが帰宅してくる時間帯だったのだ。
「来たぜ」
吉田障子は深く息を吐いた。日暮れを告げるチャイムが街を流れる。同時に、開演のベルが頭の中に鳴り響く。宗教への知識が薄く、登下校は基本的に一人、それがターゲットの必須条件だった。
役者たちの頬が緊張に強張った。そんな二人に向かって、吉田障子は無表情のままに唇を横に広げてみせる。上と下で表情を分けろという意味だ。多少わざとらしくてもいい。吉田障子のその言葉を思い出した二人は口元に固い笑みを作った。そうして二人は溝川の向こう側を歩くショートヘアの女生徒に視線を送る。重要なのは勢いだと、決意を固めた二人は強張った表情のままにワゴン車を下りた。辺りに人けはない。夕刻の街は、開演前の客席のように静まり返っていた。
水野明音はため息をついた。同じソフトボール部のレギュラーである親友が先ほどの練習中に足首を捻挫してしまったのだ。夏の試合まで数えるほどの日数しか残されていない。友達の身と、チームの行く末を案じた明音は、溝川沿いに並んだ木々から聞こえてくるヒグラシの寂しげな音色に肩を落とした。
「あの」
突然の声だった。二人の男が明音の正面に現れたのだ。それほど狭くはない道での出来事である。だが、不意に進行方向を遮られた明音は思わず立ち止まってしまった。
「ちょっと、よろしいですか?」
白髪混じりの細身の男が首を傾げる。その隣で茶色い髪をした小柄な男が挙動不審に辺りを見渡した。ナンパの類ではないと明音は思った。それは二人の服装が地味だったからでも、明らかに年上の様相をしていたからでもない。無表情のままに唇を広げた二人の表情が異様だったからだ。
「す、すいません」
明音は軽く頭を下げた。そうして先に進もうとするも、二人の男が再度明音の前に立ち塞がる。異様な光景だった。男たちの動きは糸に吊られた人形のようにぎこちなく、そして、その表情は毛糸の人形のようにチグハグだった。
「あなた、少し疲れていませんか?」
細身の男が口を動かす。「疲れてません」と明音は首を振った。とにかく早く帰りたいと、明音は必死だった。
別の道から帰ろうと明音は体の向きを変えた。すると、小柄な男が「待ってください」と少し高い声を出す。大人のものとは思えないような幼い声だった。無視して逃げようとする明音の背中に向かって小柄な男が更に高い声を飛ばした。
「不幸になりますよ」
威圧的な言葉だった。明音はまた立ち止まってしまう。怒りが込み上げてきたのだ。二人の目的は分からなかった。だが、その不躾な態度がどうしても許せなかった。
「なんなのよ!」
明音は拳を握り締めた。不幸になるなどと、どうしてそんな言葉を平然と吐き出せるのか。激しい怒りに瞳を濡らした明音は親友を想った。足首を捻挫したくらいなんだというのだ。誰も不幸になどなりはしない。そう明音は大きく胸を張った。
二人の男は顔を見合わせていた。相変わらずチグハグな表情である。だが、どうやら驚いているようだった。無表情に見えた男たちの目がバービー人形のように丸くなっていたのだ。
「あの」
細身の男がまた首を傾げる。明音は挑むようにその目を睨み返した。
「なんですか?」
「いえ、少しお話ししたいことがございまして……」
「だから、何なんですか!」
男の目が横に動く。その視線の先には溝川沿いの桜並木があり、更にその向こうには黒のワゴン車が止まっていた。人けのない通学路を包み込むヒグラシの鳴き声。「あー」と喉を鳴らした男は軽く咳払いをすると、また唇のみを無理やり横に開いた。チグハグな表情。台本を読むかのような男の声。
「あなたは何を信じますか──」
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