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第一章
旧校舎のヤナギの幽霊
しおりを挟む涼しい初夏の風が旧校舎裏を流れる。シダレヤナギの細長い枝がハラハラと揺れると、平なグラウンドに倒された梢の青葉がもどかそうに砂地を撫でた。
そんな旧校舎裏は薄い影の中にあった。先程から吉田障子は箸を持った指の先だけをくねくねと動かしながら、曲がりくねったヤナギの幹をぼっーと眺めていた。
「ねえ」
突然、誰もいないはずの旧校舎から声が響いてきた。風鈴のように涼やかな女の声だ。
──シダレヤナギには戦前の女生徒の幽霊が出る──
はっと口を半開きにした障子の体がカチリと凍り付く。箸で掴んでいた卵焼きが弁当箱の上にポトリと落ちると、校庭の砂を巻き上げる突風にシダレヤナギの太い幹がザワザワと騒めき始めた。そんな光景に喉の奥が潰れるような圧迫感を覚えた障子の顔からサーッと血の気が引いていった。
「ねえ?」
ちょうど旧校舎の理科室の辺りだろうか、涼やかな女の声は障子のちょうど右斜め後ろから響いてきた。
「ちょっと、よ」
「ご、ごめんなさい! なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……」
障子は声を震わせて謝った。涙でボヤけた視点がヤナギの葉の深い緑に固定される。ギュッと目を閉じた障子は必死にお経を唱え始めた。
「ふふ……あはは、うらめしやぁ!」
女の幽霊の声が耳元で響く。ギャっと悲鳴を上げた障子が飛び上がると彼の弁当箱が地面にひっくり返った。
「ああ! 障子クン、ごめんね、ごめんね」
「……あれ?」
ソッと目を開けた障子は後ろを振り返った。ジャージ姿の女生徒。クラスメイトの姫宮玲華が申し訳なさそうに両手を重ねて頭を下げている。
「ひ、姫宮さん?」
「脅かしちゃって本当にごめんね、障子クン」
黒い大きな瞳。涙で目を潤ませた玲華が弁当箱を拾い上げると、その白いシャツの胸元からピンク色のブラジャーが覗いた。障子は慌ててヤナギの木を見上げる。
「い、い、いいよ、勝手に驚いたの僕だし……」
「よくないよ……。あ、そうだ、あたしのお弁当を分けてあげるね!」
「えっ?」
「運動した後だから、あんまり食欲無いんだよ。昼休みももうすぐ終わっちゃうし、食べるの手伝ってくれないかな?」
「い、いいけど……」
困惑したように障子はおずおずと頷いてみせた。涙を拭いてニッコリと微笑んだ玲華の少し小さめの唇から白い歯が覗く。艶やかな黒髪のストレートがヤナギの枝のようにサラサラとジャージの青を撫でた。
県立富士峰高校に入学してからはや数ヶ月の時が経っていた。だが、障子は未だにクラスメイトたちとは殆ど会話がない。小、中学校の頃の知り合いはいたが、誰も障子と会話をしようとはしなかった。いわゆる、障子はクラスの空気的な存在であったのだ。
玲華は小さな二段重ねの弁当箱を開いた。色とりどりの可愛らしい中身である。気恥ずかしさと、何で自分なんかがという卑屈な想いから、障子の食欲が無くなっていった。
「あ……ね、ねえ、姫宮さんって何でここに来たの?」
玲華は箸で掴んだおかずを障子の口元に運んだ。青々とした瑞々しいブロッコリーである。サッと顔を背けた障子は取り敢えず質問をぶつけてみた。だが、玲華には聞こえなかったのか、障子が顔を背けたブロッコリーを自分の口に運んだ玲華はその箸でソーセージを掴むと、今度はそれを障子の顔に近づけていった。
「あ、あ、の、ごめん、姫宮さん、なんか食欲無くって」
「そうなの?」
「あ、うん」
「ふーん、食べなきゃ大きくなれないぞ、王子」
カッと障子の頬が熱くなった。
もしかして僕を馬鹿にしに来たのかな、と気分が悪くなった障子は慌てて視線を周囲に動かした。誰かが此方を見て笑っているのではないかと怖くなったのだ。背中に感じる汗。制服の黒いズボンを握った障子は湿った手のひらを拭う。
「……じゃあ、次の授業が始まるから、僕、もう行くね」
砂だらけになった弁当箱を掴んだ障子立ち上がった。俯きがちに一歩踏み出すと、玲華の顔など見たくないといったように背を向けて歩き始める。
キョトンと目を丸めた玲華はその丸まった障子の背中を静かに見送った。
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