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第三章 神樹の王国
王女の意思
しおりを挟む痒い……痒い……。
サマルディア王国の元王子イヴァン・サイードは、暗い地下の牢獄で小さな体を掻きむしっていた。皮膚がボロボロと崩れる。血と垢の溜まった爪から異臭が漂った。
「あああああああ……」
女の絶叫が地下の石壁に響き渡った。それは、イヴァンの母、リリー・サイードの叫び声だった。
イヴァンは慌てて身体を丸めると耳を塞ぐ。だが、母親の絶叫は冷たい石の床から、骨と皮ばかりの身体を振動して鼓膜を揺すった。イヴァンは蹲ったまま歌を歌い始める。それは寝付きの悪いイヴァンの為に母がよく聞かせてくれた歌だった。
世界を壊す悪い魔女 勇者アノンと四聖剣
七つの秘宝を探し出せ!
色欲の魔女タレイアの鋭く走る‘’風の牙‘’
剣と勇気で立ち向かえ!
暴食の魔女カリプソは緑を耕す‘’樹輪‘’の悪魔
知恵と魔法の糧となれ!
嫉妬の魔女ジャカスタ・ネスタ 無限に轟く‘’雷轟‘’の雨
雨も嵐も何のその!
怠惰の魔女エーゲリア 周囲に渦巻く‘’霊螺‘’の影
仲間と共にやっつけろ!
強欲の魔女アトロポス 全てを欲する‘’刻の剣‘’
お前にあげるものは無い!
憤怒の魔女デイオネは大地を燃やす‘’炎戒‘’の王
悲しむ民の怒りを知れ!
傲慢の魔女ナディア・ハイネ 平和を呑み込む‘’黒い光‘’
世界の平和をその手に掴め!
イヴァンは何度も歌を繰り返した。母の絶叫と男たちの笑い声が止んでも、ジッと痩せ細った身体を丸めて、何度も何度も歌を繰り返した。
やがて眠りに落ちたイヴァンは、美しい故郷が地獄に変わる夢を見る。王都は火の海に飲まれ、城は獣の雄叫びと共に崩れ去った。
彼の幼い体は、永遠に終わらぬ悪夢に蝕まれていった。
「ほ、本気で言ってるの?」
マリー・エスカランテは驚愕した。慌てて周囲を確認する。
アノン礼拝堂は、高天井からスッと伸びる陽光に照らされていた。光の筋に舞う細かな埃。広い礼拝堂は静寂に包まれている。
「冗談など言わぬ。マリー嬢、私はイヴァン王子を救出する。お嬢には、陛下のご説得をなさって頂きたい」
アルブレヒト・ジャック・ホーマーは睨みつけるようにマリーの顔を見下ろす。
「む、無理よ……! だってサイード家は軍刑法典を犯したのよ? 彼らは守るべき自国の民を見捨てて、おめおめと逃げてきたのよ? 絶対に許されるはずがないわ!」
マリーは声を潜めて怒鳴った。その体はサイード家への怒りで震えている。
今は無きキルランカ大陸北西のサマルディア王国。
その王国を治めていたのが、エスカランテ家の遠縁にあたるサイード家だった。
サマルディア王国とド・ゴルド帝国の戦争中、国王ラウレンツ・サイードは自軍劣勢と見るや否や、民と領地に背を向けて逃げ出した。国王に見放されたサマルディア王国は〈ドワーフ〉軍を前に呆気なく崩壊したという。
マリーはその話を聞いた時、激しい怒りと悲しみに、気が狂いそうになった。国王に見捨てられて死んでいった哀れな民たちを想うと、溢れ出る涙が止まらなかった。
国を見捨てたラウレンツ国王は、その後の軍事裁判により死刑を宣告される。ふた月前の早朝、ラウレンツ・サイードはその汚名と共に首を落とされた。
ラウレンツの妻リリー王妃と、息子のイヴァン王子は未だに地下の牢獄に囚われていた。恐らく、牢獄から出られる事は永遠にないだろう。
イヴァン王子はまだ八歳を迎えたばかりだった。流石のマリーも、幼い王子への過酷な仕打ちには思うところがあった。だが、当然の報いだとして目を逸らしてきたのである。
マリーは、アルブレヒトの陰気な顔を見上げる。彼は、疑念と欲望の渦巻く権力の中枢で、ただ一人マリーが信頼をおいている人物だった。
あなたは間違っているわ!
そう叫びたかった。だが、マリーは言葉に詰まった。普段は誰に対しても尊大な態度を取るマリーだったが、アルブレヒトの前ではどうにも萎縮してしまい上手く喋れなくなるのだ。
マリーは、ジッと自分を見下ろすアルブレヒトの暗い瞳に、吸い込まれるようにして固まった。二人は無言で睨み合う。だが、すぐにマリーは沈黙に耐えられなくなって視線を落とした。それでもアルブレヒトは無言でマリーを見つめ続ける。彼は、まだ幼い王女にしっかりと考える時間を与えていたのだ。
「……お、お父様は説得出来るかもしれないわ」
マリーはギュッと手を握りしめて声を絞り出した。
「よくご決断なされた、王女」
アルブレヒトは、ほんの僅かに口の端を上げる。
マリーは、アルブレヒトに「お嬢」ではなく「王女」と呼ばれた事が嬉しくて顔を上げた。
「わ、わたくしだって分かっていますの! イヴァン王子には何の罪も無いのよ! ……でも、お母様は許してくれないと思うわ」
「マリー王女、あなたはご自分のお意志で、イヴァン王子を救うとお考えになったのであろう?」
「え、ええ! イヴァン王子を救うわ! これはわたくしの意思よ!」
「ならば、理解の得られぬお母上の説得はせずともよろしい。あなたのご意志をお父上に、国王陛下に伝えてくだされ」
「わ、分かったわ! それで、あなたは王子を救出してから、どうするおつもり?」
「王子を安全な場所に移したのち、一時、私も姿をくらます事となりましょう」
アルブレヒトは遠い目をした。その黒い瞳には、この先に起こりうる事が見えているかのようだった。
マリーは、アルブレヒトがいなくなってしまうことに強烈な寂しさを覚えた。だが、そんな事はおくびにも出さぬように、ニッと顔を歪めて笑顔を作る。
「……ふふ、なら良かったわ! あなたなら、お一人でも大丈夫そうですし、王子も安心して任せられるわ!」
「マリー王女、ご安心なされ、私はあなたの騎士だ。あなたの事も責任を持って守り抜いてみせよう」
アルブレヒトは、虚栄を張る少女の心中をあっさりと見抜いた。ぎこちなく左腕を胸の前に捧げる。
マリーは、ボッと頬が赤くなった。
「あ、あたくしなら、暫く一人でも大丈夫ですわ! し、暫くですけど……。先ずはイヴァン王子をしっかりとお守りくださいまして!」
「はっ、マリー王女」
「そ、そもそも、あの戦争自体、何かおかしかったわね? まるで砂の城が崩れるみたいにサマルディア王国が一瞬で崩壊して……」
「その事は、おいおい話してゆくことにいたしましょう。それより、私は急がねばなりません。今夜にでも王子を救いだしますゆえ、あなたも出来るだけ早くお父上とお話しなされ」
「えっ、それは随分と性急では? ……いえ、勿論、早く王子を救い出さねばいけないことは分かるのだけれど、お父上の説得が先ではないの?」
「……ミハエル王の説得を先にすれば、王子の救出が非常に困難となる可能性があるのです。お分かりになりますかな、マリー嬢? 説得は王子の脱走が世間に知れ渡る直前のタイミングがよろしい。それが無理だったならば、おいおい、お父上と二人っきりになった際にでも進言なさい」
マリーは、呼び名が「マリー王女」から「マリー嬢」に戻ったことにシュンとした。
「……それと今後、クラウディウスと、あの男と顔を合わせるのは避けなさい。あの男は非常に危険だ、絶対にあの男と二人きりになどならぬようにしなさい」
「えっ、そうかしら? 確かにあの方は冷たい目をしていらっしゃるけれど、話してみると、ただ不器用なだけの方のようだったわよ?」
マリーはキョトンとした表情で首を傾げた。途端にクラウディウスは、出来の悪い生徒に苛立つかのように腫れぼったい目をギョロリと見開く。
「ただ不器用なだけの……? 奴は奈落の底の少年兵から、国の権力の中枢にまで上り詰めた男だぞ。あれは、まだ子供のお嬢などが推し量れる相手ではないわ!」
「ご、ごめんなさい……」
マリーは服の端をギュッと握った。
そこまで言わなくてもいいじゃない。私は王女なのよ。この不敬者!
マリーは涙目で俯きながら、ぶつぶつと文句を言った。
加地春人は舗装されてない大通りを駆けた。
地面は連日の雨でぬかるみ、所々に深い水溜りがある。
裏町で徒党を組む少年団が、怒号をあげて春人の小さな背中を追っていた。春人は痩せた手足を必死に動かして逃げ続けた。体力は限界に近い。栄養失調で浮き出たあばら骨が、激しい心臓の鼓動に軋む。ぬかるみが余計に春人の体力を奪った。
前方の曲がり角から、突然、酒樽を運ぶ馬車が現れた。毛並みの汚い馬は春人を見て驚き、細長い両足を持ち上げて嘶くと馬車ごとひっくり返る。樽を運んでいた下人が怒声をあげた。泥だらけになった丸い体を起こすと、怒りの形相で少年たちを睨みつける。
「てめえらぁ! このクソガキャ! 領主様に献上する酒が台無しじゃねーか! てめえらの全員の汚ねえ首切り落としても割に合わねーぞ、コラッ!」
馬車を守っていたガタイの良い警護兵二人も起き上がった。少年たちは慌てて散り散りに逃げる。春人もその隙に路地裏に逃げ込んだ。
体力の限界を迎えるまで走った春人は、泥道に膝をついた。今朝食べたネズミの肉を吐きそうになるのを堪える。そのネズミは少年団の頭、ノッポのウィルムが棒で叩き殺したものだ。ウィルムはネズミの死体に興味は無かったが、自分が仕留めたものを余所者の春人に横取りされた事が気に食わなかったらしい。必死に謝る春人を、ネズミと同じように棒で叩き殺そうとしたのだった。
春人は吐き気が収まると、ふらふらと立ち上がった。そのまま路地裏を進んでいく。
アリシア・ローズに見つかったあの夜から五日が経過していた。
春人は路地裏でアリシアを撒いた後も、怒りのままに走り続けた。三日前に運よく行商人の馬車に乗せてもらい、王都からかなり離れたこの田舎街に到着する。ユートリア大陸西南にあるクビニルという国の、更に外れの町だという。旅の行商人から色々と教えて貰った春人だったが、ほとんど忘れてしまった。ただ、この大陸には〈エルフ〉も〈ホビット〉も住んでいないという事が分かり、なんとか海を渡って他の大陸に移れないかと、春人は考え始めていた。
路地裏を抜けると石壁の崩れた廃墟があった。その向こうには雑木の密集する低い丘が続いている。春人はひと先ず、廃墟で休むことにした。瓦礫の脇に腰掛けると、途端に瞼が重くなっていく。春人はそのまま深い眠りに落ちた。
気がつくと春人は燃え盛る平原にいた。火の粉が羽虫のように春人の周りを彷徨く。
炎の平原では、背の高い女が舞っていた。露出の多い服装は、何処かで見た踊り子のようだった。細い両手首には輝く金の腕輪がついている。平原の炎は、激しく舞う女の、その腕輪に呼吸を合わせるように華麗に渦巻いた。春人は何をすることも無く女の踊りを眺めていた。
女は何かを叫んでいた。その甲高い悲鳴はドス黒い怒りに満ちている。それは言葉では無い。彼女は内から湧き出る激しい怒りを、舞いと絶叫で発散しているようだった。
言葉にすれば分かるのに。
春人は感情の希薄な心でそう思った。
夢の中では、春人の代わりにその女が怒っている。その為、春人は無感情だった。
半年前から見るようになったこの夢は、春人の記憶には残らない。
ただ、夢から目覚めた春人は、いつも安心したように涙を流した。
「デイオネ……」
瓦礫の隅でハッと目を覚ました春人は、思わず呟いた言葉に首を傾げた。自分が涙を流している事に気がついて、慌てて頬を拭う。
物音がした。同時に歓声が聞こえてくる。
顔を上げた春人は、廃墟に乗り込んでくる少年たちの姿を見た。
慌てて立ち上がるも、一人の少年の投げた石が頭にぶつかり、春人は地面に倒れた。
「殺れ!」
やっと春人を捕まえたノッポのウィルムは、怒鳴り声をあげる。
彼らは棒切れや瓦礫を掴むと、嬉しそうに痩せこけた少年のリンチを始めた。
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