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第三章 神樹の王国

憤怒の恐怖

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 月の隠れた石造りの道。揺れる炎の街灯。
 王都の外れ、夜の街は静かだった。
 夜闇の大通りを一人の男が歩いた。中肉中背、肩まで届く黒髪、黒いローブが炎光の影に揺れ動く。
 アーチ型の石橋を渡った男は、運河に沿った路地を進んだ。夜行性の水鳥が一斉に飛び上がる。暫く川沿いを歩いた男は脇道に逸れた。暗い路地裏。その先は小高い丘だった。
 丘の上に悠然と佇む古い城。魔法政官トルテカ・トナティウスの居城である。
 門に続く石畳は発光魔法で仄かに青白く輝いた。男は淡い光の小道を登っていく。正門に辿り着くと、青銅の扉がゆっくりと開いた。
「これはこれは、クラウディウス様」
 トルテカの息子、アステカ・トナティウスは他人行儀に頭を下げた。四騎士の一人クラウディウス・プリニウスも礼儀正しく頭を下げる。
「こんばんは、アステカさん、夜分遅くに申し訳ありません」
「いえいえ、本日はどういったご用件に御座いましょうか?」
「クライン先生とアリシアが、此方にいらっしゃいると聞きまして」
「ええ、確かに二人は此方に御座いますが……」
 白いローブを着たアステカは言葉を濁した。視線を足元に向けたままクラウディウスの顔を見ようとしない。
「では、案内して頂けますか?」
「……クラウディウス様、申し訳ありませんが、クライン様より貴方をこの城に近付けるなと申しつけられておりますゆえ、本日の所はお引き取り願います」
「それは、何故?」
「……ご説明が必要でしょうか?」
 アステカは顔を上げた。瞳が僅かに憎悪で揺らいでいる。クラウディウスは栗色の瞳を細めて、その目を睨み返した。
「ええ、ご説明を願えますか? もし、あなた方が未だに目に入れても痛くない程に愛おしいアリシア・ローズを危険に晒した件で私に憎悪を抱いているというのであれば、それはお門違いであるとお伝えしたい。あれは魔法大臣である私が、彼女に直々に下した指令であり、むしろ非があるのは、任務を遂行できなかった彼女の方にあります」
「アリシアは魔術師ではありません」
「彼女は魔術師です。確かに師であるクライン・アンベルクは魔術師の剥奪を言い渡しましたが、正式な手順は踏んでいない。そもそも、剥奪を言い渡された魔術師が魔法学院への編入など出来るはずが無いでしょう?」
 アステカは微かに視線を逸らした。何かを言いづらそうに、斜め下を睨み付けている。クラウディウスは無言でアステカの次の言葉を待った。
「……いえ、クラウディウス様、話を逸らしてしまいました。私は、アリシアの件で貴方を非難するつもりは無いのです」
「では、いったい私の何に不満を抱いているんです?」
「……不満ではございません」
「不満でないのならば何だ?」
「それは……」
「いいかね、アステカくん、私も暇では無いのだよ。今日は憤怒の魔女の件でわざわざ此方に出向いたのだ。早くしてくれたまえ」
 クラウディウスは、イライラとアステカを睨みつけた。アステカは、まだ何かに迷っているような煮え切らない表情で、クラウディウスを睨み返す。
「……クラウディウス様、サマルディア王国を滅ぼしたのは貴方ですか?」
 アステカは腹の底から声を絞り出すように、そう呟いた。クラウディウスは一瞬、呆気に取られるもすぐに激しい怒りで顔が歪んだ。
「なんだと、貴様……」
「い、いえ……」
 アステカはその怒気に慌てて肩を丸めた。
 この言い方は流石に不味かった……。
 アステカは早くも後悔する。だが、彼がクラウディウスを疑っているのは確かだった。それだけサマルディア王国の崩壊は不自然だったのだ。彼には、誰かが意図的に王国を負けさせたとしか思えなかった。
 国の命運を左右させるほどの人物。頭が切れて、軍に強い権限を持つ誰か。アステカは、クラウディウスが一番怪しいと思った。
 アリシアと憤怒の魔女に不可解な指示を出した男。〈ゴブリン〉との繋がりを持つ男。誰よりも早く、そして完璧に戦後交渉を手がけた男。
 アステカだけでは無い、今や多くの〈ヒト〉がクラウディウスに強い猜疑心を抱いていた。
「私がサマルディアを崩壊させただと? 戦争を止めようと私は動いていたのだぞ?」
「う、疑っているのは、私だけではございません」
「何故、疑う? 何を疑っているのだ? 答えろ」
「あ、貴方が〈ドワーフ〉との平和協定を円滑に結ぶ為に、サマルディア王国を負けさせたのでは、と……。フィアラ大陸との戦争に備える為に、ド・ゴルド帝国との戦争を早く終わらせたかった。その為に貴方はサマルディアを崩壊させた……」
「ふざけたことを抜かすな! あの開戦時に、色欲の魔女の呪いが発動することなど誰が予想出来た! フィアラ大陸との戦争をどう想定出来た!」
「それは……」
「確かに、私の計画は杜撰だったさ。そのせいでアリシアが危険に晒されたのも事実だ。だが、色欲の呪いが数百年ぶりに発動し、それによって‘’不死のエメリヒ‘’が動き出すなどとは、誰も予想し得なかった事故だ! 予期せぬ不運が重なった結果だ! アステカ・トナティウス! 古代文字の解読者よ! 早く私をクライン先生の元へ案内しろ!」
 クラウディウスは憤怒の形相で声を張り上げた。
「何をしに来た? クラウディウス」
 低い声が回廊の奥から正門に響く。赤い絨毯の上を、背の高い老人と黒髪の少女がゆっくりと歩いた。
 クライン・アンベルクはアステカの後ろに立つと、憮然とした表情でクラウディウスを見下ろした。アリシア・ローズも不安そうに眉を顰めて、クラウディウスを見つめる。
「先生、お久しぶりです」
「挨拶などよい、とっとと帰れ」
 サッと頭を下げるクラウディウスに、クラインは冷たい視線を送る。
「……先生、アリシアを危険に晒してしまい、本当に申し訳ありませんでした」
 クラウディウスは声を絞り出した。
 クラインは冷たい表情を崩さない。だが、素直に頭を下げるクラウディウスに意外な思いがした。
 実のところ、クラインの、クラウディウスに対する激しい怒りはとうに収まっていた。ただクラインは、この自信家で、野心的で、無鉄砲な不肖の弟子を、どう導いてやれば良いのか頭を悩ませているのだった。
「……クラウディウス、それは私に言う言葉では無いだろう?」
 クラインは、ジッと腰を曲げるクラウディウスの黒髪を睨みつける。クラウディウスは頭を下げたままコクリと頷いた。
「……アリシア、危険な目に合わせて本当に済まなかった。そして、よく生き残った。よくハルトくんを生きて連れて帰った。私は君を誇りに思うよ」
 クラインはその言葉に僅かに頬を緩ませた。彼自身も、愛弟子のアリシアを危険な目に合わせてきたのである。自分を許すつもりは毛頭ない。だが、目の前で自らの愚かさに深く反省するクラウディウスを、クラインは許してやりたいという気持ちになった。
 クラインは横目でアリシアを見る。彼女は顔を真っ赤に染めて涙を流していた。僅かに動揺したクラインだったが、もはや自分の出る幕では無いと一歩下がった。
「ねぇ、クラウディウス? ガベルさんは私たちの為に命を投げ出したわ?」
「……ああ、彼にも済まなかったと思っている」
 〈ゴブリン〉のガベル・フォートルマンは、クラウディウスの古い親友だった。彼は忘れ去りたい少年兵時代を思い出してしまう。
「ねぇ、クラウディウス? 貴方は何処まで本当のことを言っているの?」
「全部さ、アリシア、私は嘘をつかないよ」
 クラウディウスは嘘をついた。
 呼吸をする。嘘をつく。食事をする。嘘をつく。誰かを殺す。嘘をつく。
 そうやって生き抜いてきた彼には、もはや自分の生き方を変えることが出来ない。だが、クラウディウスは私利私欲の為に嘘をついたことがなかった。微かな自負心。師匠であるクライン・アンベルクには分かって欲しかった。自分を奈落の底から引っ張り上げてくれた先生に、失望されたくなかった。
「……ねぇ、クラウディウス? 私の目を見て?」
 アリシアは、クラウディウスの前に立った。
 クラウディウスはそっと顔を上げる。涙で頬を赤く濡らす少女。クラウディウスは切れ長の目を細めて微笑んだ。精一杯の優しさをその笑顔に詰め込んだつもりだった。
 それを見たアリシアは、顔を歪めて大粒の涙を流した。そして、クラウディウスの頬を叩く。
「……どうして? どうして嘘ばかりつくの?」
 クラウディウスは呆気に取られてアリシアの顔を見つめる。だが、すぐに笑顔を作り直した。少し痛そうに頬を撫で、困惑したような眉を作って、悲しそうな笑顔を作る。
「アリシア、私は嘘なんて付かない。もちろん、あんな大失態を犯した私の事を信じてくれなどと、軽々しく言うつもりはない。だが、信じて欲しい……! 何故なら、君は私の大切な妹弟子だから!」
「もう辞めて! もう聞きたくない!」
 アリシアは、クラウディウスの頬を更に強く叩いた。何度も何度も叩き続けた。クラウディウスはされるがままにアリシアを見つめる。これでアリシアの気が晴れるのならば安いものだと、瞳の奥でほくそ笑んだ。クラインはそれを見逃さない。
「アリシア、もう辞めなさい」
 クラインは泣きじゃくるアリシアの腕を優しく掴んだ。クラウディウスは、痛そうによろめくとクラインを見上げて苦笑した。クラインは悲しそうにその栗色の瞳を見返す。
「ありがとうございます、先生」
「……クラウディウス、お前は何故変われないのだ」
「え? 先生、私も自分を変えられるように日々努力を重ねておりますよ? ですが中々……」
「もうよい、帰りなさい」
「……あの?」
「もうよいと言ったのだ。やはりお前の顔はもう見たくはない」
「せ、先生?」
 クラインは、哀れな弟子の顔を殴った。アリシアのそれとは比べ物にならない衝撃。クラウディウスは発光する石畳まで吹き飛んだ。慌てて体制を立て直した彼は、鼻から落ちる血に強いショックを受ける。クラインに殴られたのはこれが初めてだったのだ。クラウディウスは、父親に初めて殴られた子供のように狼狽えた。どうすれば良いのか分からず、取り敢えず笑顔を作ると、助けを求めるように師を見上げる。クラインはそんな弟子を悲しそうに見下ろすと、青銅の扉を強く閉じた。
 クラウディウスは、少年兵時代の苦しみを思い出した。心臓が激しく鼓動を始める。
 ……なに、先生もいずれ分かってくれるさ。
 青白く発光する石畳で膝を抱えたクラインは、いつもの様にそっと自分に微笑んだ。
 
「やめで! たずげで!」
 加地春人は、骸骨のように痩せた身体を丸めて何度も何度も呻いた。鼻から血が吹き出し、顔の半分は赤紫に変色している。裏町の少年たちは、そのマヌケな姿に爆笑して、楽しそうにリンチを続けた。
 町外れの廃墟だった。春人の悲痛な叫び声は誰にも届かない。万が一、届いたとしても、誰も助けには来ないだろう。春人にもそれは分かっていた。だが、助けを求め続けた。
 正義感に掻き立てられた誰かが、駆け付けてくれるかもしれない。
 死神と罵られたアリシアが、それでも自分を見つけ出してくれるかもしれない。
 アリスは実は生きていて、いつもの様に助けに来てくれるかもしれない。
 もしかしたら神様が見てて、自分を救ってくれるかもしれない。
「たずげて! たずげて! たずッ」
 顔を蹴り上げられた春人は、泥の地面にひっくり返った。少年たちは獣のような歓声を上げる。そして、無理やり春人を立たせた。
「おい、クソ野郎、倒れたら殺すぞ?」
 ノッポのウィルムは、まだ少し幼い顔を歪めて春人を見下ろした。春人は震えながらその顔を見上げる。彼には両耳が無かった。酒飲みの父親に引き千切られたらしい。前歯も折られていた。毎晩の様に殴られているのだと、春人は盗み聞いた。
 春人の周りで楽しそうに騒ぐ少年たち。あばらが浮いて、異様に体の小さな彼らには家族が無かった。たとえ酒飲みで暴力を振るう親父だろうと、家族のいるウィルムに、彼らは羨望と嫉妬の眼差しを向けていた。
 少年たちは怒っていた。顔は楽しそうに笑っていても、心の奥底は例えようのない怒りで真っ赤に染まっていた。何処に向ければいいのか分からない、誰に向ければいいのか分からない怒りを燻らせながら、彼らは必死に毎日を生きていた。
 春人は怒っていない。ただ、怖かった。少年たちの怒りが怖かった。
 この世界に来る前、まだ感情の希薄だった頃、春人は恐怖に疎かった。他人の怒りに疎かった。
 自分の怒りを知った春人は、他人の怒りが怖くなったのだ。彼はこの世界で恐怖の感情を知ってしまった。
 ウィルムは長い木の棒で、春人の足を殴った。
 春人は呻いてよろける。少年たちは歓声を上げた。
 ウィルムは更に強く春人の太ももを殴った。鋭い痛みが春人の脳天を突き刺す。崩れるようにして、春人は地面に倒れた。
「はい、処刑」
 ウィルムは大声で笑うと、春人の腹を蹴り上げて仰向けに寝かす。両腕を他の少年に抑えさせると、巨大な瓦礫を持ち上げた。
「やめでー!」
 春人は恐怖で泣き叫びながら必死に暴れた。腕を押さえていた少年は、暴れる春人の腰をグッと膝で押さえつける。その時、春人の腰の汚い巾着袋に目が止まった。
「何か持ってますよ、コイツ」
 少年は、春人から巾着袋を奪い取ると、ウィルムに手渡した。ウィルムは瓦礫を投げ捨てて、巾着袋を開ける。曲がったネジ、木の枝、腐った果物の芯、垢まみれの布切れ、折り畳まれた紙。
「汚ったねぇな、何だこりゃ?」
 ウィルムは布切れを投げ捨てると、紙を開いた。
「か、返して」
 春人は僅かな怒りを感じた。その紙きれは、死んだ浮浪者の老人が春人の為に書いた王都の絵だった。
「ヘッタクソな絵、おまけに臭ぇ!」
「か、返せ!」
 少年たちは爆笑した。
 ウィルムは、紙切れに痰を吐いて春人の顔に叩きつける。そして、紙ごと思いっきり春人の顔を踏みつけた。春人は痛みで絶叫しながらも、老人の絵を守ろうと顔を腕で覆った。だが、紙はスッと泥の地面に落ちる。それをウィルムは踏みつけると、グリグリとすり潰した。
「どうだ、処分してやったぞ? ありがとうって言えや」
 ウィルムの高らかな笑い声を上げる。
 その声が消えていくのを、春人は止められなかった。
 
 黒い血だ。
 春人は荒い息を吐いた。
 黒い血が腹の底から、重力に逆らって流れてくる。
 全身を駆け巡る黒い血は、春人の胸を破裂させようと暴れた。頭の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜた。
 息が苦しい……。黒い血が苦しい……。押さえつけようとすると、もっと苦しい……。
 春人は舞った。
 叫び声を上げながら踊り始めた。
 あの夢の中の女のように、踊れば苦しみから解放されるような気がした。
 春人の舞いに合わせて、赤いものが飛び散る。
 草原を燃やす火だ。春人は思った。赤い火は、春人の踊りに合わせて宙を舞う。地面に赤い火が広がった。春人は奇声を上げて踊り狂った。
 舞い散る赤い火は徐々に小さくなっていく。春人は満足して足を止めた。
 黒い血が流れ去った春人は、深く深呼吸をする。そして、膝からぬかるむ地面に倒れ込んだ。激しく嘔吐を繰り返す。
 溶けたネズミの肉。血と肉片に混ざり合う暗いピンク色。
 肉塊の山で、春人は胃を空っぽにした。少年たちの骨と髪が絡み合った血の海。飛び出た糞尿が激しい異臭を放つ。
 自分が殺した死体を見るのは、これが初めてだった。
 こ、子供を殺した……? いったい誰が……?
 春人は理解が追いつかず、意識を失いそうになった。
 そこは地獄だった。かつての森の民の虐殺に見た地獄。誰の仕業だと絶叫する。絶叫しながら意識を失い、肉塊に顔を埋めて起き上がる。
 謝罪か釈明か、助けを求める声か、春人はうわ言のように何かを叫び続け、逃げるように走り出した。血と泥でぬかるむ地面。雑木の密集する丘を抜ける。丘の向こうには青空が広がっていた。
 ああ、あそこまで行けば救われる……。
 春人は美しい青空に向かって夢中で走った。
 




 
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