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第8章

墨②

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 目を開けると、空は灰色の雲に覆われていた。太陽の光はその厚みに阻まれ、地上に辿り着く前に拡散する。墨はゆっくりと体を起こした。公園の時計は朝八時を指している。

 夢を見たのは初めてだった。

 昨日偶然あの男を見かけて、なぜかぴんと来たが、そうか、あのときの男だったか。気弱そうな、眼鏡の男。研究所で見かけたときも、あの場にそぐわない雰囲気の人間だと思ったが、昨日会ったときは、輪をかけてそう思った。

 あんな奴が、俺を処分しようとしたのか。あんな、あからさまな恐怖を目に宿した臆病な人間が。

 それはそれで、腹の底が煮えくり返る。

 自由の身となり外界に出れば、鬱憤も多少は晴れるかと思ったが、何日経っても、気分は晴れるどころか淀むばかりだ。この世界は、自分のことなど置き去りにして、刻々と表情を変える景色の中、移ろいやすい人間たちの営みによって日々流されていく。そこには自我のかけらも感じない。恐らく人間は、己の存在意義など、考えたこともないのだ。立ち止まることを知らない浅はかな生き物と、それらが創り上げた世界など、自らに馴染むわけもない。自分は外界というものに、いったい何を期待していたのか。

 墨は立ち上がった。
 居場所を見いだせないこの世界で、できること。それは、己を否定した人間を否定し、彼らの認めたものを否定すること。

 空へ舞い上がろうとして、墨は突然頭痛を覚えた。金づちで殴られたような激烈な痛みが走り、墨の脳裏に眼鏡の男の姿が張りつく。

 アサカワシンイチヲ、コロセ。

 ごく自然に、その考えが墨を支配した。

 アサカワシンイチヲ、コロセ。オマエヲシイタゲタ、アノオトコヲ、コロセ。

 頭痛はすぐに収まった。墨は空を見上げた。

 すべきことは決まっている。

 今度こそ、墨は黒い煙へと変化して空高く昇っていった。
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