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第9章

見せかけの絆・本当の絆

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 あれから四日が経ったが、紅は戻ってこなかった。声も聞こえない。本当に、いなくなったのだ。
 まったく集中できない状態でとりあえず大学に通い、講義が終わったら、紅と一緒に歩いた場所を何とはなしにふらついた。時折空を眺めたが、赤い靄は見当たらなかった。

 紅を見つけて、どうしようというのか。引き留めるのか? その覚悟も、まだ定まってはいなかった。それでも、紅に会いたかった。紅の最後の言葉が、抜けない棘のようにしくしくと哲平の胸で疼いていた。

 紅は、車の中での山辺と哲平の会話を、聞いていたのだ。山辺に強硬に説得され、反論できないでいる自分を、紅は見ていたのだ。だから紅は、自ら身を引いたに違いない。

 確かにあのときは反論できなかったが、山辺のいうことが正しいと思ったわけでもなかった。誤解されたまま、紅を傷つけたまま離れ離れになるのは嫌だった。

 その日も、気がつけば空が夕焼けに染まっていた。こうなっては、仮に紅が空を飛んでいたって哲平には見つけられない。
 ふと、紅と出会ったときのことを思い出した。

「……紅が俺を見つけるのは簡単でも、俺から紅を見つけることは、できないんだなあ……」

 言葉にしてみると、虚しくなる。紅から求めてくれないと、自分から繋がることはできないのだ。……いや、違う。人間からVCに繋がる方法だってある。それが、精神感応なのだ。自分から紅を見つけることはできなくても、ひとたび繋がれば、自分の思いを伝えることはできる。その思いの強さが、紅を活かし、人間に依存するしかない彼女の罪悪感を打ち消すのかもしれない。
 紅の、柔らかい唇の感触を思い出す。出会った頃は、ずっとキスしたくてたまらなかった唇だ。まだそんな関係じゃない、相手は人間でもないんだから、恋愛感情を抱くなんておかしいと自分にいい聞かせているうちに、いつの間にか浮わついたままではいられない事態になった。四日前、予想外に紅のほうから寄せられた唇は、想像どおり、柔らかくて温かかった。あんなに求めていた唇だったのに、触れても、紅の体は光らなかった。その意味に、紅は気づいてしまったのだ。

 茜色の空は、いつの間にか紺色にその姿を変え、哲平は陽の光の消えた無彩色の世界へ視線を彷徨さまよわせながら、空っぽのまま公園のベンチに座っていた。

 目には映っていたのに、間近に迫るまでその存在に気づかなった。

「赤いのは、どこだ」

 話しかけられ、やっと焦点が合う。目の前に、黒いコートの男が立っていた。

「……墨」

 男は無機質な目で哲平を見下ろした。

「赤い女は、どこだ」

 哲平はしばらく墨を見つめた後、視線を落とした。

「いなくなったよ」

 不思議と、初めて会ったときのような恐怖はなかった。

「そんなはずはない。あの女は、おまえがいないと生きていけないはずだ」
「俺以外の、緑の男を探すって、出ていった。もう四日も会ってないよ」

 墨は興味をそそられたように目を開いた。

「ほう……。そんな自殺行為を、あいつがしたというのか。それを、信じろと?」

 哲平は再び墨の目を見た。

「信じるかどうかは勝手だけど、俺は紅の居場所は知らないし、むしろこっちが訊きたいくらいだ」

 墨が笑い出した。

「逆じゃないのか? 赤いのが、命綱のおまえを探し回り、命が惜しいおまえはその厄介者から逃げている。そうではないのか?」
「違うよ。その逆。紅が、俺を危険に曝さないために、自分から離れていった」

 墨は哲平の目を覗き込んだ。

「……おまえは、俺が怖くないのか」
「怖いよ。でも、この前と違って、本当に俺は紅の居場所を知らないし、近くに紅がいないのも本当だ。だから、君が殺したい相手は、ここにはいない。……君は、むやみに人間を殺すような人では、ないんだよね……?」

 最後だけ、少し怯えたような言い方になってしまった。そのせいで無駄に自分の命を危険に曝してはいないかと、急に不安になる。しかし墨は小さく笑うと顔を上げた。

「おまえ、本当に赤いのと別れたんだな。笑えるな、人間とVCの見せかけだけの絆。所詮おまえたちは、その程度だったというわけだ」
「それは、反対だよ」

 そのままやり過ごせばこの男は去っていきそうだったのに、哲平は思わず、反論していた。

「見せかけじゃない。少なくとも紅は……本気で俺を、心配してくれてた。だからこそ、自分がエネルギー切れで死ぬかもしれないのに、いなくなったんだ。紅は、俺に……命綱以上のものを、感じてくれてた」

 紅を庇うはずの言葉が、自分の情けなさを自覚させる。悔しくて涙が込み上げてきた。

「わかったらさっさと行けよ。いっただろ、紅は俺を守るためにいなくなったんだ。だから絶対、俺のそばにはいない。ほかを当たれ」

 墨は楽しそうに喉を鳴らして笑った。

「なるほど、覚悟が決まっていなかったのは人間のほうだったというわけか。面白い。ならばおまえは、俺がこの先紅を見つけてどうしようが、構わないんだな?」
「紅は、黒いおまえのことだってためらいなく仲間だと信じて疑わないような、そんな子だ。おまえの逆恨みなんかで傷つけていい子じゃない。でも……どのみち、もう俺には、紅を守れない……」

 紅から姿を現さない限り、守ろうとすることすら無理だ。

「いいだろう。おまえのいうとおり、ほかを当たるとしよう。だが……」

 墨は踵を返すと、立ち去ろうとしてふと言葉を止めた。

「……おまえがまた邪魔するようなことがあったら、その時は……わかってるな」

 紺色の空は徐々に漆黒へと近づき、帰路を急ぐ雑踏に紛れて、墨は溶けるように姿を消した。
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