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20(サヘル)
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「兄者、シンシアに何をしでかしてくれた?」
朝方、噛みつきそうな顔で俺を威嚇した妹は昼には憔悴と困惑を隠さず俺に助けを求めてきた。
「まったく……誰の差し金だ。シンシアが爺のような言葉遣いになっている」
「……はい」
俺にはたった一言の肯定を返す程度の余裕しかない。
実に悶々と思い悩む夜だった。
俺の顔を見て踵を返して逃げ出してしまったシンシアは、その夜、素っ気ない態度で語らいを拒絶した。勉強を口実に俺を避けたのだ。
何か気に障ることを言ったりやったりしてしまったのだろうか。
それとも、第三者から余計な注意勧告でもされたのか。
俺は苦悶した。
平和なレロヴァス王国の宮殿内での護衛など一晩苦悶するのに打ってつけとしか言いようがないほど暇である。俺が護衛として実力行使に出るような問題が起きた時、それは、レロヴァス王国存亡の危機。そんな日は生きている間には来ないだろう。
レロヴァス王国は平和だ。
俺の心は登らぬ太陽の下で嵐と深い霧を繰り返し、肉体的な朝を迎えた。
そして妹に噛みつかれ、詰られ……昼前には分厚い雲によってやはり太陽神の顔は拝めぬままである。
妹の言葉通り、シンシアの発音が、誰の差し金か改善されてしまった。発音は確かにかなり改善されたが……否、改悪なのか?
改悪だろう。
爺のような口調では、可愛いというより可哀相になってくる。
「さすがに、朝の祈祷では気が散った」
「……はい」
珍しく妹の表情が暗い。
わかる。
俺と妹の心が通じ合っている。
望まぬ奇跡に俺たちは兄妹揃って溜息をついた。
「兄者は、なんと言われた?」
「〈澄み渡るよい朝じゃな。まっこと善きかな善きかな〉」
「あの顔でか……」
「はい……」
いったいシンシアに何が起きてしまったのか。
シンシアは、あの優しく聡明で嫋やかな眩しい微笑みを携えて、あのそよ風のような優しい声で、爺のような口調になってしまった。
「こっちは〈御子がまっこと健やかに育つようお祈り申し上げるぞ。この老いぼれ、心身を捧げ共に祈る所存じゃ〉と言われた。気持ちは嬉しいが、兄者……どうしよう……」
「老いぼれですか……老いぼれはもう国に帰ったはずですがね……」
昨夜のシンシアの言葉通り、完膚なきまでの完全な善意でイゥツェル神教国の言葉を学び直したのだろう。
聡明なシンシアのことだから、妹と俺と三人で話しているうちに発音の違いに気づいてしまったのかもしれない。
「……」
それなら、新シンシアも微妙に語尾が違うと気づきそうなものだが。
「……」
「兄者、老姫の悪戯かもしれぬ」
「……イヴォーン王女ですか?」
「最初にクラリス王女と相対した時、随分と婆のような口を利くものだと思った。文献が古いと言っていた」
思い出した。
最初にイゥツェル神教国の土を踏んだレロヴァス王国の王族であるクラリス王女は、輝かしい威光を放ち、古語に近い格式高い口調で流暢に此方の言葉を話していた。
正に女神降臨。
決定的な好印象だった。
クラリス王女とその一行は滞在して暫くすると日常会話に相応しい言葉遣いを習得していた印象がある。
「新しい通訳は時代に則した教育をすると言っていたが、行き遅れの姉君が暇を持て余し用済みの文献に落書きをするかもしれないという冗談を言って笑っていたのを思い出したのだ……何分、子どもの頃のことだからな。勘違いかもしれぬが」
妹の口調もそれなりだが、これは祭祀を司る為だ。
新シンシアはさしずめ上機嫌な年老いた神官のようだ。しかも、男の。
「仮にそうだとしてもイヴォーン王女に無礼な振る舞いはできぬ」
「はい」
「併しこのままではならぬ」
妹は腹を摩りながら額もかきつつ深い溜息を洩らす。
「兄者、我らのシンシアを守ろう」
「はい」
「ファロンを呼べ」
「はい、お待ちを」
レロヴァス王国存亡の危機とまでは言わないが、早急に対応すべき緊急事態には違いない。俺は勇んで持ち場を離れた。
シンシアは間違っていない。
シンシアは何も悪くない。
そして何より、これ以上シンシアの誇りを傷つけてはいけない。
「止めなくては……!」
あの美しく嫋やかなシンシアがひょひょひょやふぉっふぉっふぉと笑い始めてしまう前に。
朝方、噛みつきそうな顔で俺を威嚇した妹は昼には憔悴と困惑を隠さず俺に助けを求めてきた。
「まったく……誰の差し金だ。シンシアが爺のような言葉遣いになっている」
「……はい」
俺にはたった一言の肯定を返す程度の余裕しかない。
実に悶々と思い悩む夜だった。
俺の顔を見て踵を返して逃げ出してしまったシンシアは、その夜、素っ気ない態度で語らいを拒絶した。勉強を口実に俺を避けたのだ。
何か気に障ることを言ったりやったりしてしまったのだろうか。
それとも、第三者から余計な注意勧告でもされたのか。
俺は苦悶した。
平和なレロヴァス王国の宮殿内での護衛など一晩苦悶するのに打ってつけとしか言いようがないほど暇である。俺が護衛として実力行使に出るような問題が起きた時、それは、レロヴァス王国存亡の危機。そんな日は生きている間には来ないだろう。
レロヴァス王国は平和だ。
俺の心は登らぬ太陽の下で嵐と深い霧を繰り返し、肉体的な朝を迎えた。
そして妹に噛みつかれ、詰られ……昼前には分厚い雲によってやはり太陽神の顔は拝めぬままである。
妹の言葉通り、シンシアの発音が、誰の差し金か改善されてしまった。発音は確かにかなり改善されたが……否、改悪なのか?
改悪だろう。
爺のような口調では、可愛いというより可哀相になってくる。
「さすがに、朝の祈祷では気が散った」
「……はい」
珍しく妹の表情が暗い。
わかる。
俺と妹の心が通じ合っている。
望まぬ奇跡に俺たちは兄妹揃って溜息をついた。
「兄者は、なんと言われた?」
「〈澄み渡るよい朝じゃな。まっこと善きかな善きかな〉」
「あの顔でか……」
「はい……」
いったいシンシアに何が起きてしまったのか。
シンシアは、あの優しく聡明で嫋やかな眩しい微笑みを携えて、あのそよ風のような優しい声で、爺のような口調になってしまった。
「こっちは〈御子がまっこと健やかに育つようお祈り申し上げるぞ。この老いぼれ、心身を捧げ共に祈る所存じゃ〉と言われた。気持ちは嬉しいが、兄者……どうしよう……」
「老いぼれですか……老いぼれはもう国に帰ったはずですがね……」
昨夜のシンシアの言葉通り、完膚なきまでの完全な善意でイゥツェル神教国の言葉を学び直したのだろう。
聡明なシンシアのことだから、妹と俺と三人で話しているうちに発音の違いに気づいてしまったのかもしれない。
「……」
それなら、新シンシアも微妙に語尾が違うと気づきそうなものだが。
「……」
「兄者、老姫の悪戯かもしれぬ」
「……イヴォーン王女ですか?」
「最初にクラリス王女と相対した時、随分と婆のような口を利くものだと思った。文献が古いと言っていた」
思い出した。
最初にイゥツェル神教国の土を踏んだレロヴァス王国の王族であるクラリス王女は、輝かしい威光を放ち、古語に近い格式高い口調で流暢に此方の言葉を話していた。
正に女神降臨。
決定的な好印象だった。
クラリス王女とその一行は滞在して暫くすると日常会話に相応しい言葉遣いを習得していた印象がある。
「新しい通訳は時代に則した教育をすると言っていたが、行き遅れの姉君が暇を持て余し用済みの文献に落書きをするかもしれないという冗談を言って笑っていたのを思い出したのだ……何分、子どもの頃のことだからな。勘違いかもしれぬが」
妹の口調もそれなりだが、これは祭祀を司る為だ。
新シンシアはさしずめ上機嫌な年老いた神官のようだ。しかも、男の。
「仮にそうだとしてもイヴォーン王女に無礼な振る舞いはできぬ」
「はい」
「併しこのままではならぬ」
妹は腹を摩りながら額もかきつつ深い溜息を洩らす。
「兄者、我らのシンシアを守ろう」
「はい」
「ファロンを呼べ」
「はい、お待ちを」
レロヴァス王国存亡の危機とまでは言わないが、早急に対応すべき緊急事態には違いない。俺は勇んで持ち場を離れた。
シンシアは間違っていない。
シンシアは何も悪くない。
そして何より、これ以上シンシアの誇りを傷つけてはいけない。
「止めなくては……!」
あの美しく嫋やかなシンシアがひょひょひょやふぉっふぉっふぉと笑い始めてしまう前に。
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