造花の開く頃に

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12月20日

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[12月20日、火曜日]
 着替え終わり部屋の扉を引くと、目の前に譲葉が立っていた。上の空だった月裏は一瞬固まる。

「おはよう」
「おおおはよう……! びっくりした……! どうしたの……!」
「今日は一緒に食事したいと思って起きて来た」

 的確に理由を述べられて、やっと冷静さを取り戻した。
 調子の良さそうな譲葉を見る限り、処方された薬は合っていると見える。幸先良さそうだ。

「うん、じゃあ一緒にリビング行こうか」

 横を歩く譲葉の足取りは緩やかだ。そして変わらず安定はしない。
 足の事故の原因も、そのうち明らかになるのだろうか。
 気にはなるが、思い出して欲しくない気もする。

「……月裏さん?」
「う、うん?」

 前を向くと、冷蔵庫の前に立った譲葉が月裏を凝視していた。違和感を塗り潰す為の笑顔を浮かべる。

「月裏さん仕事だから先に選んで温めてくれ」
「……ありがとう、譲葉くんはどれにするの?」
「そうだなぁ」

 月裏は、視線を揺らし選ぶ振りをしながらも、共に料理を選択する譲葉ばかり見ていた。

 何を話していいものか、どの話題に触れていいものか分からず、食事中は普段通り当たり障りない会話のみで終わった。

 先週とは真逆――までは行かないとしても、良い方向へ変化した顔色を見ていると安心する。
 ――筈なのに、相変わらず心は重いままだった。
 理由は明白だ。この手に罪が乗っているままだからだ。幾ら直接的な許しを受けたからといって、自分の中で消化できるわけでは無い。
 奪おうとした未来が明るければ明るいほど、それを全て奪いかけたとの罪悪感に陥る。けれど、幸せになって欲しいだなんて、矛盾しては溝の深さに圧迫される。

 仕事場での心無い言葉も、いつも以上に意味を持った物に聞こえる。
 自分は駄目な人間だ。幸せになる権利も、生きる資格も無い。こうして怒鳴られるのも仕方が無い。
 そうやって飲み込んで、納得までしてしまう。折角見えてきた希望は暗澹と色を変え、月裏の目の前を阻む。

 自分は、幸福自体を怖がっているのかもしれない。
 幸福の裏には常に不幸が張り付いていて、何かの拍子に裏返って最悪の事態が溢れ出す。
 そう言った恐怖が常にあり、いつもいつも警戒してしまうのだ。
 幸せになりたいと、幸せでありたいと願う半面、素直に受け入れられず、必要以上に構えてしまう。
 形作られた性格と絡み合って、苦しくなってしまう。
 そう、何時だって、幸せを遠ざけているのは自分だ。
 人生何度かめの発見をしても、月裏の心は変化する方向へと向かわなかった。

 帰り道は寒い。吐く息が白く解け、どこかへ消えてゆく。
 繰り返すだけの人生。怖いだけの人生。そこに価値があるのか、常日頃から葛藤している。幸福へ行く為の通路の中でも、まだ手放せない。

「…………せめて、譲葉くんだけは幸せに……」

 小さくだが態と声に出す事で、確りと持つべき目標を立たせた。

 廊下の灯りが漏れ出して見える。譲葉の優しさを意識する度、思いが急いてゆく。

「おかえり月裏さん」
「わっ」

 灯りのみの出迎えだとばかり思い込んでいた月裏は、近くにあった譲葉の姿に驚きが隠せなかった。コート姿で壁寄りに立っている。

「……どうした?」
「……えっといや、譲葉くんもどうしたの?」

 言いながら見下ろした先、指に掴まれたスケッチブックが見えた。掴んだ指の間にある鉛筆も。

「今日は廊下で描きたくて描いていた」

 移動した譲葉の視線は、華やかな造花の群れに向く。

「……そっか、花描くの好き?」
「あぁ、好きだ。作り物なのが驚きだな」
「そう、だね……」

 昔の母親の言葉を薄く思い出した。母親もそんなような発言をしていた記憶がある。
 よくある一般的な評価だ、被っていても可笑しくは無い。
 それなのに、鬱状態にあるからか悄然としてしまう。

「……月裏さん?」

 何時の間にやら造花に向いていた視線を、慌てて譲葉へと移す。自然に出た、嘘の説明と笑顔を足して。

「……ご、ごめん見惚れてた……何?」
「……いや、あの……」

 譲葉は何か言いたげに言葉を詰まらせた。大体こうして躊躇う時は、他人ばかり気遣っている時だ。
 月裏は今までのパターンを幾つか汲み上げ、違和感無く嵌りそうな言い訳を導き出す。

「……ごめん、疲れてるのかも、本当はぼーっとしてた」
「……そうか、いつも長い事お疲れ様」

 譲葉は飲み込んでくれたのか、迷い無く定型文を返すと体を翻した。
 ちらりと月裏を一瞥し、伺ってから歩き出す。
 月裏は笑顔を維持したままで、何度か振り返る譲葉に告げた。

「……お休み譲葉くん、僕も直ぐに行って眠るね」
「分かった、お休み」

 挨拶した譲葉は、完全に背を向けて去っていった。
 綾なす造花と遠ざかる背中を見詰め、月裏は形のない哀感に愁いた。

 深夜、月裏はベッドから飛び起きていた。立てた音を気にして譲葉を見たが、相変わらず後ろ姿しか見えない。
 脳内で映像化された景色を思い出し、素早い息をする。
 久しぶりに、酷い悪夢を見た。最悪な場景だけを切り取って繋ぎ合わせた、トラウマだらけの一日が流れてゆく悪夢だ。
 いやに現実染みていて、夢との境を見失ってしまう。

 橙色の灯りの下、湿り気のある毛布の中、早い鼓動を沈めようと胸に手を当てる。
 母親が死してこの方、精神苦痛に悩まなかった日は無い。日に日に重症化する、体の不調を忘れた日は無い。

 ――これはこの先も、永遠に終わらない?

 悲劇を描いた直後に悟った。
 今まで何百何千と繰り返した問いの答えは、今日も今日とて変わらなかった。
 自分の存在が消えるまで終わらない。
 けれど死ねない。今はもう解決策は消え失せた。
 死にたい。ごめん、死にたい。ごめん、言ってごめん。

 いっぱいになる気持ちから逃げる為、月裏は唇の形だけで唱えた。
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