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11月8日
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[11月8日、火曜日]
会社の復帰に体がプレッシャーを感じているのか、意識せずともアラーム前に目が覚めた。
目覚めて直ぐに、通話の記憶が蘇る。
電話に応じた苦手な上司に対し、深い謝罪と復帰を伝えた訳だが、月裏が思っていた反応は返らなかった。
ただただ平坦な、励ましも嘲りもない了承だけだった。
思っていたより軽い対応に、苦痛の無駄を知る。
しかし、学んだ所で意味は無く、今現在も会社に行った先の、周りの目を心配してしまっているのだが。
だが、ハードルは一つ乗り越えた。
月裏は握り拳を作り、「よし」との小さな掛け声と共に、布団を抜けた。
朝の冷たい空気の中、レンジの中で回る料理を見ていると、変わらない何時もの日々に帰って来てしまったのだと実感する。
休日も何時も見ている光景と言えばそうなのだが、空気感が、仕事の日と休日では何か違う。
抜け出したかった日々を抜け出すのが怖くて、戻ってきてしまった。
苦しみながらも、また手繰ってしまった。
結局、自分は何をしたいのだろうか。
考えていると、レンジの音と共に扉が開いた。
「月裏さん、おはよう」
「おはよう、譲葉くん」
「……もう、大丈夫なのか?」
「うん、もう大丈夫だよ、心配かけたね、今日から仕事に行くよ」
「そうか」
「……僕、ちゃんと、がんばるから……」
月裏は意味も分からず揺れる心に、慰めかけるように決意を形にした。
「……無理は……いや、なんでもない」
譲葉の、訂正前の台詞が容易に読み取れる。
やはり、彼は優しい。そうやってずっと、心を軽くしようとしてくれていたのだろう。
頼まれたからかもしれない。だとしても、彼の優しさが何度か自分を救ったのは事実だ。
少しくらい、委ねても良いだろうか。
不意に現れた甘えの気持ちに、月裏は急いで蓋をした。
不安に立て続けに襲われて、弱気になっているのかもしれない。
もうこれ以上、譲葉に迷惑は掛けられない。
「……月裏さん」
「何? あ、ごはん?」
「家族になろう」
「えっ?」
昨晩終わった筈の話題が、急に始まり月裏は唖然とする。
「……って言っても、家族の形がよく分からないから、どうやるのかさえ分からないんだが……」
譲葉は口元に手を置き、首を浅く傾げる。
月裏はその言葉に、悲しさを沸かせていた。
自分自身家族を失って、色々と分からなくなってしまった部分がある。
だから譲葉の発言の意味は、痛いくらいに分かるつもりだ。
「……あっと……ご、ごめ……」
「だから頑張る、居ても良いじゃなくて一員になれるように」
遮り、された発言には強い意思が宿っていた。
視線が一瞬上を向き、月裏を捉えてから再度下を向く。
譲葉は譲葉なりに、願いについて思案してくれたのかもしれない。
またも見せられた優しさに、月裏は泣いてしまいそうになった。
悲しくて、でも嬉しくて、泣いてしまいそうになった。
「…………………………ありがとう……」
遠く、ずっと先になるかもしれない。けれど譲葉と、家族みたいになれたならば。
そうしたらきっと、何かが変わってくれるはずだ。
月裏は、復帰の不安をどうにか揉み消しながら、少し引き攣った柔らかな笑顔を湛えた。
人の少ない駅は、妙な不安感を煽ってくる。
試練が少しずつ、でも確かに迫ってくるのが分かって、月裏は身震いしていた。
会社に踏み込んだ先が見えない。見えなくて怖い。
謝罪すれば許してもらえるとも思わないし、慰めなんて以ての外だ。
月裏は、覚束ない足を一歩踏み出し、やってきた電車へとそっと乗り込んだ。
いつも見ていた筈の景色の色も、何だか濁って見える。たった2日と少し目にしていないだけなのに、随分と久しぶりに見る気がする。
譲葉の優しさや、そこから知った嬉しさは嘘では無い。けれど、直面する物が変化すると、どうしても気持ちごと変わってしまうのだ。
もっと、喜びを持続できる人間になりたかった。物事に強く立ち向かえる、人間になりたかった。
会社に吸い込まれてゆく人々に紛れ、月裏も重い足を引き摺る。
この先幾つか戸を潜れば、待っているのは地獄だ。
――心全体で到着を否定しながらも、自然の法則には抗えず辿り着いてしまった。
他に入室する人に違和感を持たれないよう、立ち止まろうとする足に無理矢理言う事を聞かせる。
「…………おはようございます……」
定例通り挨拶を持ち入室すると、ちらほらと返事が聞こえて来た。
上司も、いつもの低い声で対応した。表情は、鬼のようだ。
月裏は、どきどきと早鳴る鼓動の音を聞き、冷や汗を流しながら、上司の前に近付いた。
同僚の鋭い視線を、どうにか掻い潜りながら。
「………………あの、す、すみませんでした……」
声が震えてしまう。
周りの目を気にし、会釈さえままならず、謝罪を形にするだけでいっぱいいっぱいになってしまう。
また、怒鳴り声が響くのだろうか。
月裏がきゅっと目を瞑り、どうにか浅く礼すると、ぽつりと単調な台詞が降ってきた。
「具合悪いなら、ちゃんと言え」
月裏は、声にはならなかったものの、驚き目を見開く。
口調や態度だけ取れば、叱っているようにも取れた。だが、残酷な言葉を幾つも想像していた月裏には、それが怒りでは無いと直ぐに分かった。
慰めてもいないが、怒ってもいない。
月裏は、予想に反した切り返しに涙しそうになって、再度素早く謝罪を述べると定位置に駆け足した。
それから何時間も経ち、恐れていた時間は幕を閉じた。
結局今日も仕事が圧していて、帰宅は通常通りになったが、それでも乗り越えられたとの事実が胸に安堵を齎していた。
環境も怒鳴り声も、それが通常なのか何一つ変わらなかった。冷たく降る視線も、嫌そうに仕事する同僚の表情も、消えた訳ではなかった。
だが、可笑しな気分だ。昨日に続き、夢の中に居るみたいな。
月裏は体が覚えた道を、思考に頭を任せながら歩んだ。
扉の窓からは、灯りが見える。譲葉の読書する姿と、絵を描く姿が脳裏に過ぎる。
「……ただいまー……」
ゆっくりと鍵を回し扉を開くと、譲葉は小説を読んでいた。イメージ通りの光景だ。
「おかえり、お疲れ様」
有り触れた何時も聞く台詞が、なぜか心に留まって形を残す。
昔、学校から帰宅した時、笑顔で迎えてくれた母親の姿を思い出した。
声は忘れてしまい、言葉の発音等は思い出せなかったが。
家族を意識しなくとも、こんな所に欠片は落ちていたんだ。
月裏は、疲れていたものの自然と微笑んでいた。
「……待っててくれてありがとう」
「…………いいや」
譲葉も何か感じているのか、少しぎこちなさそうにこちらを一瞥してから、閉じた本の表紙を見つめた。
会社の復帰に体がプレッシャーを感じているのか、意識せずともアラーム前に目が覚めた。
目覚めて直ぐに、通話の記憶が蘇る。
電話に応じた苦手な上司に対し、深い謝罪と復帰を伝えた訳だが、月裏が思っていた反応は返らなかった。
ただただ平坦な、励ましも嘲りもない了承だけだった。
思っていたより軽い対応に、苦痛の無駄を知る。
しかし、学んだ所で意味は無く、今現在も会社に行った先の、周りの目を心配してしまっているのだが。
だが、ハードルは一つ乗り越えた。
月裏は握り拳を作り、「よし」との小さな掛け声と共に、布団を抜けた。
朝の冷たい空気の中、レンジの中で回る料理を見ていると、変わらない何時もの日々に帰って来てしまったのだと実感する。
休日も何時も見ている光景と言えばそうなのだが、空気感が、仕事の日と休日では何か違う。
抜け出したかった日々を抜け出すのが怖くて、戻ってきてしまった。
苦しみながらも、また手繰ってしまった。
結局、自分は何をしたいのだろうか。
考えていると、レンジの音と共に扉が開いた。
「月裏さん、おはよう」
「おはよう、譲葉くん」
「……もう、大丈夫なのか?」
「うん、もう大丈夫だよ、心配かけたね、今日から仕事に行くよ」
「そうか」
「……僕、ちゃんと、がんばるから……」
月裏は意味も分からず揺れる心に、慰めかけるように決意を形にした。
「……無理は……いや、なんでもない」
譲葉の、訂正前の台詞が容易に読み取れる。
やはり、彼は優しい。そうやってずっと、心を軽くしようとしてくれていたのだろう。
頼まれたからかもしれない。だとしても、彼の優しさが何度か自分を救ったのは事実だ。
少しくらい、委ねても良いだろうか。
不意に現れた甘えの気持ちに、月裏は急いで蓋をした。
不安に立て続けに襲われて、弱気になっているのかもしれない。
もうこれ以上、譲葉に迷惑は掛けられない。
「……月裏さん」
「何? あ、ごはん?」
「家族になろう」
「えっ?」
昨晩終わった筈の話題が、急に始まり月裏は唖然とする。
「……って言っても、家族の形がよく分からないから、どうやるのかさえ分からないんだが……」
譲葉は口元に手を置き、首を浅く傾げる。
月裏はその言葉に、悲しさを沸かせていた。
自分自身家族を失って、色々と分からなくなってしまった部分がある。
だから譲葉の発言の意味は、痛いくらいに分かるつもりだ。
「……あっと……ご、ごめ……」
「だから頑張る、居ても良いじゃなくて一員になれるように」
遮り、された発言には強い意思が宿っていた。
視線が一瞬上を向き、月裏を捉えてから再度下を向く。
譲葉は譲葉なりに、願いについて思案してくれたのかもしれない。
またも見せられた優しさに、月裏は泣いてしまいそうになった。
悲しくて、でも嬉しくて、泣いてしまいそうになった。
「…………………………ありがとう……」
遠く、ずっと先になるかもしれない。けれど譲葉と、家族みたいになれたならば。
そうしたらきっと、何かが変わってくれるはずだ。
月裏は、復帰の不安をどうにか揉み消しながら、少し引き攣った柔らかな笑顔を湛えた。
人の少ない駅は、妙な不安感を煽ってくる。
試練が少しずつ、でも確かに迫ってくるのが分かって、月裏は身震いしていた。
会社に踏み込んだ先が見えない。見えなくて怖い。
謝罪すれば許してもらえるとも思わないし、慰めなんて以ての外だ。
月裏は、覚束ない足を一歩踏み出し、やってきた電車へとそっと乗り込んだ。
いつも見ていた筈の景色の色も、何だか濁って見える。たった2日と少し目にしていないだけなのに、随分と久しぶりに見る気がする。
譲葉の優しさや、そこから知った嬉しさは嘘では無い。けれど、直面する物が変化すると、どうしても気持ちごと変わってしまうのだ。
もっと、喜びを持続できる人間になりたかった。物事に強く立ち向かえる、人間になりたかった。
会社に吸い込まれてゆく人々に紛れ、月裏も重い足を引き摺る。
この先幾つか戸を潜れば、待っているのは地獄だ。
――心全体で到着を否定しながらも、自然の法則には抗えず辿り着いてしまった。
他に入室する人に違和感を持たれないよう、立ち止まろうとする足に無理矢理言う事を聞かせる。
「…………おはようございます……」
定例通り挨拶を持ち入室すると、ちらほらと返事が聞こえて来た。
上司も、いつもの低い声で対応した。表情は、鬼のようだ。
月裏は、どきどきと早鳴る鼓動の音を聞き、冷や汗を流しながら、上司の前に近付いた。
同僚の鋭い視線を、どうにか掻い潜りながら。
「………………あの、す、すみませんでした……」
声が震えてしまう。
周りの目を気にし、会釈さえままならず、謝罪を形にするだけでいっぱいいっぱいになってしまう。
また、怒鳴り声が響くのだろうか。
月裏がきゅっと目を瞑り、どうにか浅く礼すると、ぽつりと単調な台詞が降ってきた。
「具合悪いなら、ちゃんと言え」
月裏は、声にはならなかったものの、驚き目を見開く。
口調や態度だけ取れば、叱っているようにも取れた。だが、残酷な言葉を幾つも想像していた月裏には、それが怒りでは無いと直ぐに分かった。
慰めてもいないが、怒ってもいない。
月裏は、予想に反した切り返しに涙しそうになって、再度素早く謝罪を述べると定位置に駆け足した。
それから何時間も経ち、恐れていた時間は幕を閉じた。
結局今日も仕事が圧していて、帰宅は通常通りになったが、それでも乗り越えられたとの事実が胸に安堵を齎していた。
環境も怒鳴り声も、それが通常なのか何一つ変わらなかった。冷たく降る視線も、嫌そうに仕事する同僚の表情も、消えた訳ではなかった。
だが、可笑しな気分だ。昨日に続き、夢の中に居るみたいな。
月裏は体が覚えた道を、思考に頭を任せながら歩んだ。
扉の窓からは、灯りが見える。譲葉の読書する姿と、絵を描く姿が脳裏に過ぎる。
「……ただいまー……」
ゆっくりと鍵を回し扉を開くと、譲葉は小説を読んでいた。イメージ通りの光景だ。
「おかえり、お疲れ様」
有り触れた何時も聞く台詞が、なぜか心に留まって形を残す。
昔、学校から帰宅した時、笑顔で迎えてくれた母親の姿を思い出した。
声は忘れてしまい、言葉の発音等は思い出せなかったが。
家族を意識しなくとも、こんな所に欠片は落ちていたんだ。
月裏は、疲れていたものの自然と微笑んでいた。
「……待っててくれてありがとう」
「…………いいや」
譲葉も何か感じているのか、少しぎこちなさそうにこちらを一瞥してから、閉じた本の表紙を見つめた。
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