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第七章嫩江(ノンコウ)

第七章第十二節(出発)

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                十二

 一行は線路の盛土もりどを下りて、仮設橋を渡りはじめた。花井大尉も川のほとりへ下りていった。工兵たちがそれを遠巻きに眺めている。
 仮設橋の足場は不安定で、力なく垂れ下がった白旗が右へ左へと揺れながら近づいてくる。相手が恭順きょうじゅんの意を示してきた以上、護衛部隊の必要も無くなるのではないか、工兵隊に楽観的な空気が広がった。

 花井大尉は先ず軍使の来訪をねぎらった。軍使は参謀のせきとのみ名乗り、名刺も出さなかった。馬占山ばせんざんの副指令公署秘書こうしょひしょ李春栄りしゅんえいが随行してきた。日本側は林大佐のほかにチチハル総領事館の早崎はやさき書記生もついてきた。花井大尉は一行を指揮所へ案内し、当番兵が入れた白湯さゆをすすった。

「せっかくお越しいただいたのに、何分物資が届かないため大したもてなしもできず申し訳ない」
 自分たちもつい先刻ここへ着いたばかりで、客を迎える支度したくなど何もない。ともかく寒いので、体を温めるのが精いっぱいの接待だった。
 せき参謀は時候じこうの挨拶もそこそこに、鉄道橋破壊の責任は謀反むほんを起こした張海鵬ちょうかいほうの側にあること、そもそも張の背後には日本軍があって、我が黒龍江こくりゅうこう省を侵略しようとしている。馬占山ばせんざん将軍は全身全霊をかけてそれにこうする決意であるなど、自説をまくしたてた。

 花井大尉は目を閉じたまま黙ってそれを聞いた。そしておもむろに口を開いた。
貴公きこうはそれを伝えにわざわざここへ?」
 軍使は用意してきたセリフはすべて吐いたという顔で、花井大尉を見返した。
「我が軍は張学良ちょうがくりょう副司令から絶対に無抵抗であるよう示達じたつされている。日本軍に対抗する意思は持ち合わせていない」
 交渉をしにきたのではなく、伝えるべきものを事務的に伝えに来たといった風であった。

「我が方にも敵意は微塵みじんもない。無益な争いなど起こしたくもない。しかし……」
 花井大尉はここで言葉を区切り、難詰するようにせき参謀を見据えた。
「それならば何故、要求した期日までに大興だいこうの後方十キロまで後退しなかったのか?」
 軍使は「意外!」といった顔つきを、平然と返してきた。
「それは要求が違う。我々はすでに江橋こうきょうから十キロ後退している」
 花井大尉のこめかみがピクリと動いた。
「話をこじらせるとお互いのためにならんのではないか」
 深みのある声でそう言うと、相手を見やる目に力を込めた。しばし凍った時間が過ぎたあと、大尉はさらに言葉を継いだ。

「本日正午までに我が軍の要求どおり大興駅から十キロの地点へ引き揚げぬときは、軍は自衛上必要な行動を取らざるを得ない。このことを貴軍司令官へ伝えてもらいたい」
 軍使は慌てて茶碗に手を伸ばし、冷め切った白湯さゆを飲み干した。

い分かりました」
 そう言い残すと、もと来た道をそそくさと帰っていった。

 同じころ、江橋では濱本喜三郎はまもときさぶろう支隊長が第七中隊長の根元忠亮ただあき大尉を呼んだ。
「すまんが貴官は先遣隊として第五橋梁まで前進の上、工兵隊を掩護してくれんか」
「ハっ」
 根本中隊長が敬礼して下がる。

 兵隊たちは荒野のところどころに叉銃さじゅうして、焚火たきびに当たりながら煙草を吹かしていた。あたり一面に濃い霧が立ち込めている。空気も地面も朝露にしっとり濡れていたが、焚火はパチパチとよく燃えた。満鉄職員が古い枕木を何本か調達してくれ、それをまきにしたからだった。

 中隊のはしまで見渡せないほど濃い霧のなかに、中隊長付の稲葉いなば少尉の声が響いた。
「おーい。そのまま聞けぇい。今八時五十分である。我々は二十分後にこの地を出発、二里先の第五橋梁へ向かう。背嚢はいのうは現在地に残して全員軽装になる。携行品は飯盒、米、乾パン、缶詰を背負袋しょいぶくろに入れていく。小銃弾および手りゅう弾は必ず出して携行するんだぞ。わかったかぁ。時間がないからすぐに取り掛かれぃ」

 兵隊たちは慌てて煙草をみ消すと、思い思いに散らばって背嚢はいのうを降ろした。器具をいて中から荷物を取り出し、背負袋しょいぶくろを引き出したり飯盒をがちゃがちゃ鳴らしたり、いろいろと忙しくやりだした。

「ただちに出発する! 弾薬盒だんやくごうがガチャ付かないよう、うんと帯側おびかわを絞めるんだぞ。背負袋しょいぶくろもしっかりとくくれ。よろしい。前進だ」
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