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第三章ジュネーブ

第三章第五節(規約十一条)

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                 五
 
「日本は吉長きっちょう鉄道(長春~吉林間)へ百三十人の満鉄従業員を派遣してその運行を横奪おうだつし、各地の通信機関を切断したばかりか、奉天に於ける張学良ちょうがくりょうの私邸を掠奪りゃくだつし、朝鮮からも二個師団を動員中である。長春はなかば荒廃し、現に大火災をきたしている――」
 九月二十二日午前に開かれた第二回会合は、施肇基しちょうき代表の演説から始まった。まずは上海辺りから届いたニュース電報を読み上げ、日本だたきの論陣を張った施肇基は「“自衛行為”が侵略の口実となってはならない」と訴えた。
 相変わらず未確認の風説を針小棒大しんしょうぼうだいに宣伝する施肇基の物言いを、芳澤は苦々しく聞いた。話の内容があまりに荒唐無稽こうとうむけいなものばかりだったから、出席した他国代表らもさぞ失笑していることだろうと思いきや、案外みんな真剣な面持ちで聞き入っている。

「自国の領土を武力で占領しつつある国との直接交渉などできるはずがない!」
 施肇基の弁舌は滑らかで、力強く会議場へ響きわたった。議場の重力はどんどん彼の方へと移っていく。しかもこれに調子づいた彼は、「場合によっては規約第十一条ではなく、他の条項の適用を要請するかもしれない」と理事会へ詰め寄る構えまでしてみせた。

 「規約第十一条」に従って聯盟へ付与される権限は、紛争当事国に撤兵を“勧告”するところまでである。民国側が言及した「他の条項」とは、聯盟が紛争へ直接介入し、“調停”へと乗り出す「規約第十五条」を意味した。そればかりか施肇基代表は、「原状を事件前の状態へ恢復かいふくするとともに、倍賞を要求する」と、協議の始まる前から賠償問題まで持ち出す始末であった。
 聯盟の議論の基調は大国の代表によって構成される「常任理事会」によって形づくられるが、加盟国の圧倒的多数は弱小国である。このため、従前から聯盟には弱小国に甘くなるという「判官はんがんびいき」の傾向があった。折しも既述の通り、明年には聯盟として初めて主催する軍縮会議を控えている。日本が“大国”であるがゆえに、理事会が日本寄りになったとあっては、聯盟の沽券こけんにかかわる。そうした微妙な空気が支配する中で、均衡点きんこうてんは自ずと民国側へ偏りがちになった。
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